「媒介的カリキュラム観と非線形記述様式の考察」に対する
レフェリーのコメント



審査結果: B. 一部修正の上、掲載を可とする。


コメント

1 カリキュラムのデータベース化の必要性とコンピュータの発達にともなう記録方式のデジタル化を結びつけようとした点は評価される。この論文が評価されるには、提起された、媒介的カリキュラム観、媒介的コミュニケーションモデル、と言う概念の有効性、独創性、と、非線形記述様式とのそれらの親和性と言う結論の妥当性が検討されなければならない。

2 媒介的カリキュラム観で示されたような議論はかって、マクドナルド(J.B.MacDonald),ビューシャン(G.A.Beauchamp),アイズナー(E.Eisner)といった人々がかって行っている。学習指導要領と日常の教育実践の重なり合った領域がカリキュラムであるという視点はユニークなものであるとしても、多くの人を納得させるような普遍性をもつだろうか。重なり合った領域は媒介的動的と言う説明は実感としてそう言えるだろうか。何を媒介しているのかわからないし、重なり合わない実践に比べて、重なり合った部分が特に動的とも普通は思われないのではないだろうか。媒介的カリキュラム観を全体性(注:論文では後に「総体的」がより妥当だと思い書き換えた)、主体的、柔軟性、相補的と説明されても具体的姿が思い浮かばない。

3 媒介的コミュニケーションのモデル、「意味の市場」論、「関係の成立」論は、メディアへの情報の入力、メディアからの情報の解読というモデルを前提にしたもので、情報工学の文脈においてそのことを言ったという目新しさがあるのみで、それ自体として特に新しいコミュニケーションモデルであるとは思えない。

4 非線形記述様式と媒介的カリキュラム観の間の親和性も特徴が同様に存在するから親和性があるというのは乱暴な結論である。特徴は似ていても全く違うものはある。

5 工学的視点からの論文であるから、本論文はむしろ、このような視点からの具体的なカリキュラムのデータベースを設計して、それを発表した方が研究として意義がある。このままの論文の掲載には無理がある。データベースを作成して再投稿を望む。その意味での書き直しである。


修正検討

1、 「媒介的カリキュラム」という用語は、論文の鍵となっているが、それ自体ではきわめてわかりにくい。論文の中で述べている意味からすると、それは「動的カリキュラム」といってよいように思われる。用語の修正の検討を希望する。

2、 5頁「カリキュラムの分類」箇所について、これまで一般的にカリキュラムは教育課程と同義に用いられてきた。それと違った用語の用い方をしているので、カリキュラムと教育課程との概念上の異同関係について言及することが望ましい。
 5頁のカリキュラムの定義からすると、「媒介的カリキュラム観」(b)にのみ、カリキュラム概念は通用しない。それなのに、「線的カリキュラム」(a)と述べている。ここでは、カリキュラムの概念は通用しないはずである。この点も、検討し、説明を加えてもらいたい。

3、 7頁「媒介的カリキュラムの特徴」の第1・2段落の箇所では、媒介的コミュニケーション・モデルをカリキュラム観に適用している。内容の種類と質の異なるものを単純に適用してよいのか、疑問に思う。適用するためには、用意周到な説明が必要である。説明を試みているが、それはわかりにくいし、説得的ではない。修正してほしい。

4、 表現上の修正箇所は次の通り。
 1頁 2行目「多様な教育というのは、容易なものではない。」意味不明
 3頁 3行目「開発のあたって」
 8頁 下から7行目「出来る様から」


●コメントへのコメント

 以上が、審査結果とレフェリーのお二方から届けられたコメントである。匿名審査なので、どんな人が審査したかはわからないが、皆さんはどんな感想を持たれただろうか。
 なるほどもっともな指摘もあり、だいぶ困ったあげくに文句を付けた箇所もあり、行間を読むと実に興味深いコメント文章だと思う。コメントの形式がおおよそこんなものなのかどうかは、私自身の経験が浅いのでわからないが、一つの事例として参考にしていただければと思う。

 レフェリー・コメントに楯突くのも余興として面白いかも知れないが、とりあえずそれは次なる論文で戦い挑むことにしよう。
 こうして論文やコメントを公開してしまうことは、趣味の悪いことかも知れないが、この時代において、こんなオープン性の可能性があるということも経験しておくべきであろう。そもそも匿名審査なんだし、公開しちゃダメなんて書いてないからね。(KR)