学校を先生が学べる職場に

2020年5月14日に39県に対する緊急事態宣言解除が発表されました。

それに伴い,各地で分散登校等の対応を含めた段階的な学校再開が動き始めています。文部科学省からの矢継ぎ早の通知も「学びの保障」を前提に年度を越えた扱いに関して言及しています。

新型コロナによる不安な状況は,長期にわたる学校休校という事態をもたらし,眼前に児童生徒学生を集めることができないことを想定していなかった教育関係者を慌てさせました。

そのことによって,これまで教育ICTを遠ざけてきた教育関係者でさえ,その必要性を考えなければならない当事者に立つことにもなりました。

遠隔教育あるいはオンライン授業といった教育方法が,今後,現実的な選択肢として取り組まれなければならない。そういう時代が訪れたわけです。

この事態が発生する前から,AIという技術がもたらした盛り上がりとともに,単なる知識伝達だけに終わる教育機関への懐疑論が賑やかとなり,従来型の教師は職を追われるとか,あるいは公立学校は潰れるといった机上の論も未来予測的に展開していました。

そして,2ヶ月に及ぶ学校休校という今回の期間に,私たちは学校というものの存在について,真正面から考える機会を与えられました。

家庭から児童生徒を預かり養護する機能が,いかに経済社会にとって大きな貢献をしていたかが再認識されました。

児童生徒の学習を指導支援する機能が,いかに専門的な職能であるかを認識した保護者も多かったのではないかと思います。

また一方で,学校がもつ家庭や地域社会とのコミュニケーション手段がきわめて脆弱であったことが緊急事態によってあぶり出されもしました。

学校という場を離れざるをえない児童生徒に対して,教育的な働きかけをするための人的・物的・経済的な資源が普段からほとんど備えられていなかった現実も明るみに出ました。

全国で教育機会が均等であることが義務教育や公立学校の最大の特徴であると,そう信じることが最後の砦であった日本の学校教育で,今回の事態において各地での取り組みの差があからさまとなり,機会格差は進行していて均等などなかったことを報道等で目撃するに至っています。

そんな状況だからこそ,形式上の均等を取り戻そうとするような言動に対して,一層の懐疑的なまなざしが向けられることとなり,為政者や教育関係者に対する不信感が増長している部分もあります。

いっそのこと,託児養護機能と学習支援機能を再構築した新たな場を求めて,従来の学校を廃棄すべきではないのか。そんな極端な提案さえ,あるいは現実的な検討課題になり得るのではないかと思わせる,そういう学校休校期間ではなかったかと思います。

かろうじて緊急事態宣言解除の流れをつかみ取り,新しい生活様式を踏まえた日常にもとで,生活や学校,経済活動を段階的に再開することとなりました。

少なくとも年内は,第2波以降あるいは新たな脅威の到来に対する備えに動くことができる猶予期間を与えられたと考えることが妥当かと思います。

個々の家庭や職場における備えはもちろんですが,学校が行なうべき備えは何なのでしょうか。そして今後,学校という場はどうあるべきなのでしょうか。

まず必要なのは,学習指導要領の再確認ではないかと思います。

平成29年改訂の学習指導要領が目指している方向性を確認することは,重要なことだと私は考えていますし,むしろこのような状況に遭遇したからこそ,なおさら,そのことに意味があるように思います。

誤解を恐れずに言えば,仮に令和2年度が何事もなくスタートしていたとしたら,平成29年改訂学習指導要領に掲げられた理念は,新しくスタートした取り組み(小学校英語やプログラミングなど)の苦労話ばかり注目されて,単なるスローガン止まりだったろうと思います。

「主体的・対話的で深い学び」を,いまこうした状況下で検討した時,皆さんの中でも,昨年度末と少しは異なるイメージが展開するのではないかと思います。少なくとも分散登校や今後の脅威への備えを前提にしなければならない学校教育でどう実現するのか,その方法は新たに模索しなければなりません。

そうしなければ,今後の危機毎に,学校機能の停止という事態を招き続けることになり,学校は潰れてしまうという机上の論は,いよいよ現実の論として具現化してしまいかねません。

勝ち逃げ世代の教育関係者にとってはそれでもよいのでしょうが,そのことによって損を被るのは次世代,つまり児童生徒学生であり,若い世代の学校教育を担い社会をつくっていく関係者です。ひいては将来の日本にとっても。

学習指導要領を再確認した次は,必要な道具立てをすることです。

その重要性においても,またタイミング的にも,教育ICT環境の条件整備は推し進めておくべき取り組みでしょう。

GIGAスクール構想とEdTech導入に関して,前例にない規模の予算が確保されたのですから,対応しない方がどうかしています。2020年5月11日に一般にも公開された形でライブ配信された説明会が話題となっていますが,そうした追い風は,乱気流を伴っているとはいえ,掴まえておかなくてはなりません。

ただ,児童生徒1人1台分の情報端末を導入するというGIGAスクール構想やEdTech導入は,説明されているほど簡単な話ではありません。

その大規模な導入を短期間のうちに全国津々浦々で実現させようという話が,いかに非現実的で過酷な要望であるか。大量の機材確保の可否や専門的な知識を必要とする工事設定作業,そのために必要な人材や専門事業者の不足,にもかかわらず限られた枠に抑えるための厳しい予算制約など。

平時においてさえ困難な条件にも関わらず,緊急事態に伴う悪条件で駆け込み的に取り組まざるを得ない状況は,最大限の配慮を効かせなければ,後で取り返しがつかない事態を招くことも肝に銘じておきたいものです。

すでに学校のドメイン取得に関して,クラウドプラットフォームとの契約に関わり混乱が生じています。

学校や市町村ごとにバラバラのルールでドメインを取得している状況では,それが学校の正規ドメインかどうかを確認することを難しくしてしまいますし,今後,仮にドメイン詐称対策をする場合も個別にやらなくてはならないなどの手間が問題となり,セキュリティ対策を難しくしてしまう弊害になるかも知れません。

学校という場の未来をアップデートするためにも,先生達が学びを実践できる場所や文化に生まれ変わらせる必要があります。

改めて,今回の新型コロナに伴う学校休校で見えてきたのは,学校という場の「旧いかたち」を前提として働かざるを得ずにきた学校の先生方の窮屈な現実だったともいえます。

「旧いかたち」は,児童生徒学生が学校にやって来ることを前提として,欠席した児童生徒学生はいくらかの不利を甘受しなければならず,自らに相応しい支援を受けることが特別扱いだと受け止められ,定められた範囲と進度に沿って学校活動を展開することばかりが尊ばれ,家庭とのやり取りでは連絡事項を児童生徒学生に伝書鳩のごとく託し,遠い昭和な時代の規格に合わせて作られた空間に密集して授業や学習を行い,その活動に必要なものの購入は前年度に計画して予算を確保しなければ叶わず,学校図書費も教材費も限られ教育研究費のような割当もなく,先生達は授業や校務で多忙を極め授業準備に割く時間の捻出に苦労する。etc, etc…

少なくとも学校は,先生達自身が何か新たなことを活き活きと学習する機会を持てるような環境条件になっていません。そんな先生達のもとで,児童生徒学生だけが活き活きと学習することを,どうして期待できるのでしょうか。

分散登校や段階的な学校再開という期間は,先生方が教え手だけでなく学び手として学校という場に関わる「新しいかたち」を生み出すよい機会だと思います。

それは周囲の人々との関係性やコミュニケーションの仕方を変えてみるということですし,そのために教育ICTといった道具も役立てられるはずです。

教育委員会関係者や学校長等も,この機会に学校という場を先生達をも学習者として含めた学習のコミュニティとして「新しいかたち」に変えていく配慮と努力をすべきです。

この社会で新型コロナの影響は何もなかったということがない以上,学校教育として今後は何を考えていくべきか,それぞれ意見を出し合うべきと思います。

「新しいかたち」もそうした議論から紡ぎ出されていくと思います。

教職は単なるコンテンツ・デリバリー業ではない

コロナ禍がもたらした社会活動のブロッキングによって,私たちは日頃の活動のいろんな側面をメタ的に見る機会を得た。

学校と学校教育も,前提や前例を踏襲し得ない事態によって,現場で混乱をきたしているだけでなく,家庭にとっては学校の役割を再認識する機会になったであろうし,先生方にとっては学校が児童生徒が通学してくれるという極当たり前のことで成立していた場なのだと,その有り難さを感じる機会となった。

緊急事態宣言は依然継続中であるけれども,地域の実情に応じて段階的な学校再開の目処をつけられるようになってきたことで,喧しいのは,お休みした分をどう取り戻すのかといった話だ。

年度末の終わりを待たずに始まってしまった臨時休校とその後の長い休校措置によって,新年度から始まるはずの事柄がストップした状態に陥り,その意味で学校教育活動の開始が後ろへとズレ続けている。

想定していたスケジュールに照らせば「遅れている」ことになるし,前代未聞の事態への対応が地域や学校ごとに異なることでの「格差」なるものが生まれているとも指摘されている。

事態を直観的に懸念した先生達がとった行動は,授業が行なえない代わりを至急用意することであり,たとえば,家庭で学習するための学習プリントを一生懸命作成・準備する作業だった。

また「学びを止めるな」を合言葉に様々な学習コンテンツを提供するサイトやサービスのリンクが集められ,経済産業省「#学びを止めない未来の教室」であるとか,文部科学省「子供の学び応援サイト」が立ち上がるといった動きに至って,現在も様々なコンテンツが紹介されている。

いまも学校再開時期をにらみながら,授業時数をどのように確保するのか,全国の先生達が学年暦とにらめっこしながら悩んでいるだろう。

この緊急事態時に出された様々な特例的措置が,ほぼすべて時限的な扱いで,通常措置の規定になんら変更がないことを考えれば,再開時期と授業実施がズレにズレるほど,学びは「遅れている」と見なされ,「格差が生じている」と言われることが明らか。

日本の学校関係者の習性として,外部批判を回避し,事無きを優先して,既定路線に従順であることを良しとするところからして,とにかく「挽回する」ことを第一使命にしてしまう様相は,理解できないわけではない。

けれども,この機にいま一度,教育とは何か,学習とは何かを考えてみる必要はないのだろうか。

想定外の事態に直面して,すっかり吹っ飛んでしまったかも知れないが,小学校においては今年度から「平成29年改訂 学習指導要領」にもとづく学校教育が本格開始するタイミングであった。

つまり,私たちは,どんな教育を目指そうとしていたのか,どんな学習を誘おうとしていたのか,そういう問いをもう一度この状況下で思い出して,考え直してみる必要がある。

平成29年改訂の学習指導要領は,教育内容から資質・能力へと力のベクトルを向けて転換を図ろうとしたものだ。

「コンテンツ(教育内容)からコンピテンシー(資質・能力)へ」に関しては,以前のブログ記事でも奈須先生の文献をもとに紹介していた。

教員は,教育内容を伝達する配達業という側面が確かにある。

どんなに知識がそこかしこに存在していたとしても,それを教育内容として包んで届ける行為が伴わなければ,容易には学びに結びつかない。とりわけ年齢が若ければ若いほど,そのような教育内容の配達は重要になる。

けれども,従来の知識伝達は,学習者があんぐりと口を開けて待っているかのような想定で,口元にア〜ンしてあげるところまでお膳立てすることが知識の伝達かのように捉えらてきた。

しかし,私たちが望んでいる学習者像は,そうやって口元にやって来る知識を美味しく頬張り存分に吸収するような存在だろうか。

私たちが望んでいるのは「能動的学習者」ではなかったか。

そのような学習者を育成するために,教員は単なるコンテンツ・デリバリーを続けているわけにはいかない。いつまでも口元にア〜ンしてあげるような仕事を続けるわけにはいかない。

自分自身でフャークやナイフ,箸や蓮華を駆使して,美味しい知識を食していくことも身につけていかなくてはならない。そのための能力が,言語能力や情報活用能力,問題発見と解決能力であるなら,それを育まなくてはならない。

資質・能力(コンピテンシー)への方向は,こういうことだったはずである。

平時なら傾聴に値するかも知れないが,この緊急時に言われてもねぇ…なるほど,そんな受け留めをされるのかも知れない。

平時にも見過ごされてきた格差が,この緊急事態にさらに拡大されてしまう問題を考えると,まずは従前からの知識学力を優先して考えるという方策は,確かに選択肢として重要に思う。

ただ,問題にすべき格差は,単に学習進度や習得の多少を基準に比較するようなものの話であろうか。

結局,それとて,緊急事態が緩和され,学校が以前に近く再開された時に,学校教育を縛っているものが何一つ変わらない現実に対して,単にお口をあんぐり開けて並ぼうとしているだけではないのか。

教職は,もはや単なるコンテンツ・デリバリー業ではない。どのような事態に対しても能動的に関わるコンピテンシーを養うこともセットに届けていかなくてはならない。そのようなコンテクスト・デザイナーとしての生業を模索していくべきだろう。

私たちを悩ませるコロナ禍が,やがて日常に埋没し始めた時,日本の学校教育の日常的メンタリティが従前と比べて劇的に変化しているとは,正直なところ予想できない。

混乱に乗じて増大していくのは,既得優位性であることが多い。それが誰にとって都合がよいのかが複雑になっている分,私たちもその恩恵にあずかれることがあるのだろうが,その裏側にはそうでない人たちもいる。

教職は,この機にどうあるべきなのか。コンテンツのみならずコンテクストをも縦横無尽に動かして考えていく必要があると思う。

教育の遠さと近さ

4月7日夜に緊急事態宣言が7都道府県に対し発出されてから間もなく1ヶ月。4月16日には対象が全国に広げられていました。

学校が休校措置に関わる混乱は,2月27日の新型コロナウイルス感染症対策本部の場で示された全国一斉臨時休校の要請に始まり,いま現在も続いています。

4月30日には,5月6日までとされた緊急事態宣言の延長の考えが示され,関係方面の調整が進行しているようです。

私自身も,この状況下で,遠隔教育を実施する事態に直面し,大学が以前より契約しているGoogleクラスルームという支援システムをすべての授業科目に採用する形で授業を開始しています。

考えなければならない課題は山積したままの見切り発車ではありますし,学生達にはGoogleクラスルームを使うこと以外,各授業で違うやり方に慣れてもらう面倒をかけることになりますが,今のところ課題配布中心型が多そうだということもあって,大きなトラブルは出ていません。

一部の授業では,動画教材やzoom等のテレカンファレンス・ツールを利用した双方向授業を試みたり,私のようにスライドと音声解説を組み合わせるパターンもあるといったわりと緩い雰囲気です。

問題は,こんな形で始まった”教授”や”学習”は持続するのか,学習の目標達成を評価する段取りをどうするのかといった所。通信教育や放送教育の世界にはそれなりのノウハウや経験があるのでしょうけれど,それを私たちが共有できていない現実もあって,あるいは車輪の再発明をやっているのかも知れません。

教育を歴史・文化的に捉え返せば,そもそも家族関係のもとで形成される「家庭」における養育や教育が原初であり,近しい者との関係形成を通して生活知を学んでいくのが,そのイメージであると思います。

教育を担う責任主体が,家庭から社会へと移行するのは,社会にとって教育された人の存在がいろいろな意味で重要となり,教育を家庭だけで担うことが難しくなってきたことが背景にあります。

地域の共同体の中に,学習者を集めて教授する場(学校)が生まれ,そこからずっと対面による教育が続いてきました。

一方,学習者が遠出可能な年齢にまで成長すれば,別の都市へと移動して教えを授かることもありました。実際,大学の歴史では,専門知識を学ぶために個人や集団が都市を移動することもあったといいます。

人の動きだけではありません。知識自体もまた,人々が住む地を繋いで移動していったとされています。かつて私立専門学校が講義登録者に向けて発行したとされる講義録が,遠隔教育の教科書の走りとされています。

斯様に教育は,人々が専門知識を得るために,学び手の物理的移動をいとわず,やがて印刷物等のメディアによって知識をより広範囲に移動させていくことで,その需要を満たそうとしました。

依然として,対面による知の鍛錬は,対話や問答を通した知の獲得形態として極めて強固に支持されています。一方で,遠隔教育あるいは通信教育は,あくまでも対面が叶わない場合の補助的な位置づけであり,スクーリングといった対面の機会を可能な限り確保することが求められています。

今回の新型コロナウェルス感染に関する事態によって,対面による授業や活動が制限され,学校の場が物理的な面会に支えられていたことをあらためて確認することとなりました。

一方で,面会を果たせない事態に対して、何ら備えをしていなかったこと。つまり、その場を去れば、その関係性をほぼ失うこと(それを私たちは卒業と言ってみたりするわけですが)になることもあらためて浮き彫りにしました。

直面してしまった事態に対し,ICTの活用が必要であるとの声も多く上がり,文部科学省からの事務連絡においても,児童生徒学生の学びを保証するためICTやオンライン授業などを従来の考え方に捉われず積極的に活用するよう何度も取り上げられるに至っています。

とはいえ,日本の学校教育関係者のほとんどがICT活用を真正面から取り組むことなく過ごしてきたため,物理的面会に最適化された近接的な距離感を,オンラインやネットワーク特有の距離感に置き換えることに苦労しています。

それは,対面という近距離が持っていた遠さに慣れきって,遠隔地を結ぶメディアがもたらす妙な接触感や拘束感に無防備であること。それゆえ,ネットの世界といったものを極力排除しようとしてきたことからもわかります。

ただ,学校で長く続いてきた排除の歴史の間に,この妙な近接感と拘束感をものにしてきたのが娯楽や消費の世界です。ネットの世界に教育的なものが限られているのに比して,商業的なものは膨大なのは,単純にネット等のメディアと対峙した時間の長さの違いです。

まもなく感染確認者数が下降傾向に入り,いずれは条件付きとはいえ学校の段階的な再開も実施されると思います。

今後どのような形になろうと,児童生徒学生の学びが前進することを優先的に考えることは変わりませんが,今回の事態で経験したことを,なるべく活かす形で学校教育が変わっていくことを願います。

音声講義の収録環境

4月16日(木)に緊急事態宣言対象が全国に広げられました。

5月6日までを期間として措置が行なわれ,地域によって対応が異なるものの,公立学校の多くが休校となって,関係者が対応に追われています。

一部では,5月6日以降も事態好転は困難ではないかと予想し,休校継続の場合の在り方さえ,本格的に検討されています。これは普段からの危機管理対応体制の準備が如実に表れているため,基礎自治体によって本当に様々なようです。

私が住む徳島県は,検査による感染判明者数がゼロ(判明していた3人の感染者は回復し陰性判定済み)であるため,状況として幸いな反面,意識としての危機感や恐怖感は高まり,人に対する猜疑心でギスギスしているようです。

このような中で,私の勤務校も明日(4/20)からWebで授業開始です。

ニュースでもオンライン授業の取り組みが様々紹介されています。

テレワーク(Work from Home)での利用事例が多い事もあってか,教育分野でもZoomというビデオ会議システムを利用する試みも目立ちますし,動画教材を撮影・制作してYouTube等で配信する例もあるようです。

私も普段から授業で利用しているGoogle Classroomに動画を掲載して,オンライン授業に対応すればいいかなという程度の考えでいました。

私個人の性格もあって,環境づくりをしながら今後の作業構想を練るという段取りが得意なので,まずは手持ちの機材を確認し,どう組み合わせれば目的を達成できるのか試行錯誤を始める事にしました。

そうすると,動画収録環境を構築するという道のり途中で,音声収録環境の整備さえすれば目標達成できる部分も見つかったりします。講話中心の授業であれば,ラジオ講座のような方式でOKなのです。

すでに「ポッドキャスト」や「インターネットラジオ」の試みはしていましたので,そういうものにコンテンツを載せれば出来上がりです。

さて,音声収録環境です。

iPhone等のスマートフォンは,音声・映像処理部品の塊みたいなものなので,パソコンの下手なマイクやカメラに比べれば,はるかに性能の良いマイクとカメラで音声と映像を収録する事が可能です。

講義の音声ファイルをもっとも簡易に収録したいなら,スマートフォンと適切なアプリを組み合わせれば実現可能です。

お望みであればiPhoneアクセサリとして外部オーディオ機材を組み合わせればさらにグレードアップできます。

iPhoneアクセサリ(Apple Online Store)
https://www.apple.com/jp/shop/iphone/iphone-accessories/creativity

とはいえ,編集等の作業をするなど,パソコンで収録環境を構築したい場合があります。

今回は次のようなパソコンと機材で収録環境を構築しました。

○コンピュータ
Mac(macOS端末)
https://www.apple.com/jp/mac/
○ソフトウェア
Hindenburg Journalist(ポッドキャスト/インタビュー編集ソフト)
https://hindenburg.com/products/hindenburg-journalist
○オーディオインターフェイス
Audient evo4
http://www.allaccess.co.jp/audient/evo4/
○マイク
Shure SM58(ダイナミックマイク)
https://www.shure.com/ja-JP/products/microphones/sm58

追加の機材を導入するだけの価値があるかといわれると,これは収録した音声を聴く人の価値観によって答えが変わってくるかも知れませんが,私個人としては少しでも収録成果が良くなる事を目指しました。

iPhoneで収録した音声
macと追加機材で収録した音声

どちらも同じ環境の中で,口元とマイクの距離も似たような距離で収録し,違い過ぎてはいけないので,ノーマライゼーションという最大音量を揃える処理だけ施した結果です。

iPhoneもずいぶんクリアに収録していますが,ホワイトノイズと呼ばれるものも気付けばかなり聞こえていることが分かります。

macの方は,そもそもセッティングとしてマイク感度に合わせたレベル調整を施しているという事もあり,ホワイトノイズ系の音は抑えられていると思います。

もし長時間聴くようなことになれば,このあたりが「聴き疲れ」に関わってくるのではないかと思います。

オーディオ編集ソフト「Hindenburg Journalist」は,Apple社GarageBandをポッドキャストやインタビュー向けに洗練したようなソフトウェア。

有償ですが,音声コンテンツを扱いたい人には都合のよい機能も多く搭載しているので,関心がある人は試してみてください。

オーディオインターフェイス「evo4」を選んだのは,ダイナミックマイクのShure SM58を使いたいという希望が先行した結果です。別の候補としては「ZOOM UAC-2」という製品もありました。

実はオーディオインターフェイスには,もっと安価で手軽なものもたくさんあります。たとえば「ZOOM U-22」はコンパクトで安価なオーディオインターフェイスの一つです。それで十分な場合も確かにあります。

ただ,使うマイクによっては「マイク感度」が弱く,オーディオインターフェイスに補える性能やパワーがあるかどうかによってスペックが違ってくるわけです。安価なものの場合は試してみるまで十分かどうかが分からないということもあります。

そこで,それなりの性能を持ったオーディオインターフェイスを用意する事で,様々な特性のマイクに対応できるようにしておきたいという事がありました。上を目指すと値段にキリはありませんが…。

あるいはミキサーにオーディオインターフェイスが内蔵されたものもあります。その場合,ミキサーの性能次第ではマイク感度を様々に補える可能性があります。これもいろいろあるので確かめてみないといけないのは変わりません。

さて,マイクはShure社のSM58という定番マイクを使用しています。

マイクには,ダイナミックマイクとコンデンサーマイクの2種類に大別されるということは知られていますが,SM58はダイナミックマイク。電源が不要で感度が低いのです。

なぜ感度が低いダイナミックマイクを使うのか。

それは感度が良いと雑音を拾い過ぎるので,それを避けたいためです。

コンデンサーマイクは,電源必要ですが,その代わり感度が高いため,微妙な音を収録する際にはとても役立ちます。プロがそれなりの環境で使えば効果が発揮されるというわけです。

しかし,自宅も職場も実はあまり静粛な環境とはいえない,という一般ユーザーにとっては,感度が高いコンデンサーマイクよりも,感度が低いダイナミックマイクの方が扱いやすい事になります。(ケースバイケースですが…)

先ほどの音声サンプルでiPhoneとmacでの収録の違いをお聴きいただきましたが,まさにあれがコンデンサーマイクとダイナミックマイクの違いであると考えてもらってよいと思います。

というわけで,私の音声収録環境について雑にご紹介しました。

自宅と研究室とでは,収録環境が全く異なるため,実は機材構成もかなり異なるのですが,上記は比較的シンプルな構成をご紹介した次第です。

私の研究室は音声収録にとっては劣悪な環境で,普通に過ごしていても通電音のようなものがずっと鳴り響いていて,最初の数年は気が変になりそうになりましたが,最近は気にしない事ができるようになりました。(それでも聴いている事には変わりないので,それで疲れるんでしょうね)

人間なら気にしない事もできますが,音声収録となると話は別ですので,いろんなノイズリダクションやキャンセリングの技術を使って,なんとか聞き苦しくない音声を収録しようとしています。

とはいえ本来,音声を加工するのはご法度行為。

作品を創るという世界なら別ですが,ありのままの音をありのままに収録するというのが音響収録世界の本来の在り方ですし,そのためにそもそもの収録環境を整えるとか,機材を洗練するとか,聴きやすさの追及も原音をいかに崩さず調整できるかとか,そういう努力が積み重ねられてきた世界なわけです。

普段私たちが聞いている「いい音」は,そうしたプロの仕事のおかげで聴きやすく,疲れにくく,気持ちよく聴けるわけですが,それを自分たちでいざやってみようとすると,なかなか大変なんだという事が分かります。

それだけでなく,コンテンツとしての「音声」自体も重要です。

生まれ持った声も様々だと思いますが,少しでも聴きやすさを向上させるテクニックというものはあると思いますので,そうしたことにも意識したいなと思います。私にとっては一番頭が痛い部分ですが。

good times & bad times

前回ブログ記事からも刻一刻と状況は変わり,首都東京の感染者数の止まらない増加傾向と日本医師会の「医療危機的状況」宣言によって,私たちが本当に恐れなければならない事態が見え始めました。

厚生労働省・新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の4/1提言を踏まえて,3/24付けで出された文部科学省「新型コロナウイルス感染症に対応した臨時休業の実施に関するガイドライン」が4/1改訂されました。これにより新年度からの学校再開機運は地域の別はあれ一気に休校継続へと引き戻されていきました。

3/31の内閣府・経済財政諮問会議では,緊急経済対策とともに「デジタル・ニューディールの推進」が議題に上がり,デジタル化・リモート化の環境整備を進めることが議論されました。その中で遠隔教育やオンライン授業についても言及されました。

総務省は,家庭からのオンラインラーニングやリモートワークを後押しするために,情報通信ネットワーク整備推進の補正予算を立案や,電気通信事業者関連の団体に学生の通信環境の確保,通信費負担軽減等を要請するなど動きを見せています。

4/2の内閣府・規制改革推進会議「新型コロナウイルス感染症対策に関する特命タスクフォース」では,遠隔医療と遠隔教育に関して議論されました。このうち遠隔教育に関しては「ICT環境の早急な整備」「遠隔授業における受信側の教師設置基準の見直し」「遠隔授業における「同時双方向」要件の撤廃」「遠隔授業における単位取得数の制限緩和」「オンラインカリキュラムの整備」「オンラインでの学びに対する著作権要件の整理」といった論点が取り上げられています。

オンライン授業に関しては,著作権制限に関するハードルがありますが,これに関しては平成30年の著作権法改正で「授業目的公衆送信補償金制度」が規定され,すでにその保証金をやり取りするための窓口団体である「一般社団法人 授業目的公衆送信補償金等管理協会」(SARTRAS:サートラス)が設立されていましたが,制度をいつ始めるのかの様子を窺っていた状態でした。

休校延長や授業開始延期等の緊急事態にあたり,授業目的での著作物利用(オンライン授業での教科書等の著作物利用)に関して特別な配慮をする動き[文化庁SARTRAS文部科学省],授業目的公衆送信補償金制度の前倒し施行を求める動きなど,これまでであれば後手にされがちであった事柄が喫緊の課題として繰り上がってきたのです。文化庁は前倒しを決めたようです[共同通信]。

4/3首相官邸・未来投資会議では,論点メモの中には「学校現場におけるオーダーメイド型教育(ギガ・スクール)」という議題も含まれ,感染症の影響だけでなく,5Gといった進行中である技術革新を踏まえた今後の方向性についても同時進行的に話し合われています。

携帯通信企業3社は,先の要請の流れもあって,25歳以下のスマートフォン利用者のデータ通信料についての支援措置を打ち出しています。[NTTドコモau by KDDIソフトバンクモバイル

学校関係者(教師や児童生徒たち)によるオンラインの集合や授業が世界中で行なわれていることが一般ニュースの項目として報道され,その視聴者もまたそれに関わらなくてはならない立場に立っているという,類い稀なる事態によって,教育ICTに対する注目はかつてないほど高まっています。

しかし,多くの学校や多くの家庭が,そうした事態に初めて遭遇することでもあり,何の準備もないこと,何から取り組めばいいのか,必要なものが何なのか,そもそもそれは自分たちが取り組むべきことなのかといった様々な疑問や不安が広がっています。

昨年末から急展開していたGIGAスクール構想は,そもそも学校内のネットワーク整備と児童生徒数分の端末整備が守備範囲の施策であり,一人ひとりが自宅で学習することをフォローするものではありませんでした。今回の事態のために前倒しするといっても,あくまでオプションだった「持ち帰り利用」をメインに据えるようにデザインし直すのは大変な作業です。

学校の先生達にとっても,本年度からは新しい学習指導要領にもとづくの授業の実施が始まるため,そのことだけでも手一杯だったところに,感染症予防対策業務が発生し,さらにオンライン授業のための教育方法を突貫的に習得しながら実践しなければならないとなれば,今年度の教育活動や個々の子どもたちの教科学習的な成長について,ほとんど誰も結果を見通せないのが現実です。

先回書いたように「あの日にかえりたい」という心理がないわけではないものの,事態はすでに厳しい局面に突入しているわけで,この緊急事態の中で,できるだけ先を見通しながらもできることから地道に取り組んでいくしかないといった状況だと思います。

こうした厳しい状況下で,様々なところで様々なノウハウの共有活動も活発化しているようです。悪い時だからこそ,協力し合って良い時を作り出していこうとするのは大事なこと。

確かに,非常事態に便乗した形でしか私たちは物事を変えられないのだろうかと,少し残念な思いを感ずる時もあります。普段から協力し合えていれば,もっと備えもできていただろうにと。

とはいえ,この期に及んで何もしないというわけにはいかないわけで,危機をうまく転じて私たちの未来に繋げていける前向きさも持ち続けたいものです。今回の事態で,苦しんでいたり,哀しいことになっている人たちのことを想いながらも,自分たちの身を守りつつ,考え続け,行動できるように準備したいと思います。