復帰

長らくブログの更新が滞っていました。

11月2日と3日に,日本教育メディア学会の年次大会を徳島文理大学で開催したのです。そのための準備やら何やらですっかりご無沙汰をしていたわけです。

学会大会準備に捕らわれていたとはいえ,日常業務は淡々と進行していたわけで,そういう意味では何かが変わっていたわけではありません。それでも,慌ただしく過ごして,いろんなことを放ったらかしでした。

年次大会自体は,なんとか無事にお開きとなり,いまは残務処理をしているところ。いろんなことに少しずつ復帰しているところ。ブログ更新も再開していきたいと思います。

ポスター発表「キャッシュレス時代に対応した消費者教育教材の開発」

日本教育工学会2019秋季全国大会20190907

林向達(2019)「キャッシュレス時代に対応した消費者教育教材の開発」,日本教育工学会2019年秋季全国大会講演論文集, 239-240.

ポスター
https://www.dropbox.com/s/b25dze31dnskcfg/rin_JSET2019.pdf?dl=0

講演論文
https://www.dropbox.com/s/apcv1k711epkpi8/rin_jset201909fin.pdf?dl=0

20190903_Tue 情報教育担当者連絡会議の傍聴

この時期は毎年,全国の都道府県・政令指定都市の情報教育担当者が文部科学省に集まる「情報教育担当者連絡会議」というものがある。

来年度の国家予算について,各省庁が大まかな要求をする「概算要求」の内容が,お盆前後に上がってくるので,それに基づいて上意下達するための場がその連絡会議というわけだ。

連絡会議は,行政事務に関わることであり,しかも未確定事項を多く含んだ情報がやり取りされることもあって,一般に公表されているものではない。

しかし,次年度における情報教育等の方針が全国に伝達される重要な機会であるし,教育の情報化に関わる私たちは直接的・間接的にもこの連絡会議の内容に関わるわけで,そういう意味では,無視できない存在でもあった。

今年度,文部科学省のお仕事をする関係もあって「令和元年度情報教育担当者連絡会議」を傍聴する機会をいただいた。

会議直前の連絡で,予定調整をどうしようか悩んだものの,来年度以降に傍聴機会を得られる確証もなかったので,今回の機会を掴まえることにした。貧乏研究者だから,夜行バスで往復のゼロ泊出張である。

連絡会議は,10時から17時まで,教育の情報化の動向を始めとした話題について,現状認識や今後の方針など予算に関わる情報が伝達され,他にも関連する事項に関して様々な情報提供・事例紹介が行なわれた。

おおむね,一般にも公表されている概算要求の内容に沿った内容だが,文部科学省の担当課による細かな表現ニュアンスによって,各都道他県・政令指定都市担当者が理解を調整するといった感じで進んでいった。

国の概算要求がある程度決まってから,都道府県・政令指定都市レベルに対して伝達する順番とならざるを得ないとはいえ,タイミング的には都道府県・政令都市も自らの予算の枠組みは固まりつつあるわけで,今から新たな予算説得を始めるのは至難の業である。

その上,連絡会議に集まっているのは都道府県・政令都市の担当者であって,小学校・中学校の設置者となる基礎自治体(市町村)の担当者への伝達は,各都道府県の担当者が行なわなければならない。この伝言ゲームによって,国と基礎自治体との間に温度差が発生するのは否めない。

こうした考えれば思いつきそうな障壁課題に対し,連絡会議ではどのような工夫がなされているのかがずっと気になっていた。

しかし,特に連絡会議の場で基礎自治体への配慮がなされているわけではなく,それは(当たり前のことであるが)各都道府県の仕事として捉えられているだけで,せいぜい「早急にしっかり伝達していただきたい」といった言及に留まっていた。

いや,その前に,出席している担当者たちにすら,熱が伝わっていないのではないか。そんな心配すら感じられたのは,私の老婆心に過ぎないのだろうか。

連絡会議を初めて傍聴したのだから,もちろん私の受け留めは素人感想のようなもの。

出席していた担当者たちは,行政の第一線で仕事をしている人たちであって,連絡会議で伝達されたものについて,粛々と処理をして予算の確保なり,基礎自治体への伝達なりを執行していくだけなのだろう。

そんな流れの中で生まれる「これは何のためになるのか?」という問いへの答えに彩りを添えるお手伝いをするのが私たち関係者ということになろうか。

なんかもうちょっと遣りようがあった気がしないでもないが,それはゼロ泊出張で私の頭がふらふらだったからということにしよう。

「サーバーをもたない」時代

私たちがインターネット上で利用するサービスには,それを提供するための処理をする「サーバー」コンピュータというものが存在しています。

企業が自社のメールやWebサイトを運営したりする場合には自前で「サーバーをもつ」(オンプレミス)というのが一般的でした。大きな組織ならサーバールームという専用の部屋が確保されることもあったわけです。

学校もコンピュータネットワークを利用するようになって「ファイルサーバー」あるいは「ネットワークHDD」(NAS: Network Attached Storage)といったものをもつことがあります。みんなで使うコンピュータファイルの共有置き場所として,昭和時代の物置のような感覚で一家に一つ,自前でもつようにイメージする人が少なくありません。

この「サーバーをもつ」あるいは「サーバーをたてる」というのは,システムを設置・管理することを通して所有欲を満たしたり,万能感を抱かせる側面があります。また手元で運用することが安心感ももたらしました。

しかし時代は,「サーバーをもつ」時代から「サーバーをもたない」時代へと移りつつあります。

たとえば,物が爆発的に増えてしまった状況の物置を考えてみると,家の物置で対応するには容量が足りず,やがて外部の「貸し物置」(レンタルスペース)を利用するようになってきたことは知られています。

サーバーも,自前で管理するより外部の専門家が管理するものを利用するのが最も楽で安心。しかも外部専門家は,サーバーの提供の仕方も多様なものを用意してくれていて,私たちが商売や業務で必要とするものにフィットした形のサーバーサービスを提供してくれるのです。

というわけで,こうした流れは「サーバーレス」とも呼ばれており,クラウドというものを構成し支える一つのピースなのです。

もちろん,これはGoogleやアマゾン,マイクロソフトのような,世界中に「サーバーをもつ」クラウド企業の存在があって,それらが無償・有償でサービス提供してくれるからこそ「サーバーをもたない」でよくなっていることになります。

逆に外部に頼らないならば「サーバーをもたざるを得ない」ことも事実。

ある人はクラウドでも大規模障害が起こりうるのだから,自前で管理した方が安心だと考える向きもあるようです。どちらが安心かは,現実の設計や運用に拠るのでしょう。

とはいえ,何かを始めるために最初は「サーバーをもたない」状態から始めて,いずれ必要ならば自前の「サーバーをもつ」ことにすればよいのではないでしょうか。

最近は「クラウド・バイ・デフォルト」という言葉で,外部クラウドサービス等の利用を基本にするといった原則が再確認されています。サーバーを自前でもたずにサーバー機能を活用するスタイルが標準となっているのです。

「サーバーをもたない」時代であることの認識が高まる必要がありそうです。

ちなみに,りん研究室ではGoogleのサーバーレスソリューションである「Firebase」をいじっている最中です。

基本的にはモバイルアプリケーション開発を助けるものですが,これを使うと大掛かりな投資の必要もなく,世界的なサービスを開発して公開することが出来ます。

HTML5(html,css,javascript)を使いこなしさえすれば,自分自身で簡易なメッセージやSNSサービス等を構築することは可能です。

その具体的なやり方については機会を改めてご紹介したいと思います。

テクノロジーへの依拠と無縁

日本のインターネット利用が一般社会で始まって20数年経過しました。仮に1995年を基点と考えれば24年ということになります。

メディアの普及にかかる年数(Consumption Speeds)については,あれこれ調査研究がありますが,大概のものは30年も経過すれば普及率8割9割といった「当たり前のもの」になっているというのがこれまでの知見です。

たとえばインターネットに関しても,あと5年くらい経てば「当たり前のもの」と言える…なんてことを待つ必要がないほど,今日の私たちの社会生活はインターネット基盤の存在を前提に成り立っていることに異論を唱える人は少ないと思います。

ただ,その現実をすべての人が認識する立場にあるかと問われると,直接的にインターネット基盤と関わらなくて済む仕事もあるでしょうから,インターネットテクノロジーに対する印象が俗にいう〈ネットの世界〉といったプライベートな娯楽世界の印象に引っ張られてしまうのは致し方ないのかも知れません。

また,日本は1980年代から高度情報通信システム(INS)構想といった先行する取り組みが華々しく喧伝されながらも多くの日本人の実生活になんら届けられなかった経験をしているため,技術で何かができるという期待感よりも,サービスとして現実に提供されているものを享受する姿勢が強化されていったのだと推察されます。

サービスや消費財を介してテクノロジーの恩恵を受けることはあるけれども,テクノロジーが社会や生活をより良くしてくれているという認識があるわけではない。だから,テクノロジーが使えないことで自分の生活が成り立たないとは思っていない。ただし,具体的なサービスや消費財が利用できなくなると社会や生活で困るとは思っている。

日本人のテクノロジー観はだいたいこんなものだと見立てられます。

そういう日本人が,ある意味ではもっとも目の肥えた消費者であると世界中から思われているのもさもありなん。テクノロジーがいくら高度でも,プロダクトの完成度という点で満足できなければ消費者としての日本人は納得しない。それもまた一つの特徴なのだろうと思います。

ただ,大半の消費者日本人を守るために国が発展を続け,制度も規則も慣習も枠組みとして出来上がってしまうと,枠を超えたものを創ろうとする人々にとっては能力を発揮し難い国になったのでしょう。

あらためて,そんなことを書き留めてみたのは,蛯原健『テクノロジー思考』(ダイヤモンド社)を書店で見かけたからでした。

正直,「ナントカ思考」はもう食傷気味だったのですが,「テクノロジー思考」という言葉で技術の価値を理解する必要があるという趣旨は重要だと感じました。

日本は技術の国だというスローガンのような言葉がありましたが,そのことを超えては,日本の技術のことも,世界の技術のことも考えたり知ろうとしなかったのではないか。深く依存しながらもテクノロジーに対して思考停止という無縁状態を維持し続けてきた日本人の距離感覚がいま各所で危機的状況を招いていると思います。

巷のSociety5.0(スマート社会)の話は,4.0(情報社会)を経たうえでのお話ですが,あらためて情報通信技術がどれだけ社会生活と密接に関わっているのか,個々人のテクノロジに対する認知を高め,理解を深めることが必要なのだろうと思います。