2019年
謹賀新年
本年もどうぞよろしくお願いします。
徳島文理大学
りん研究室
2019年
謹賀新年
本年もどうぞよろしくお願いします。
徳島文理大学
りん研究室
というわけで2018年も最終日。
徳島文理大学の林向達です。この一年ご無沙汰したままの皆様もいらっしゃると思います。直接ご挨拶できず申し訳ありません。
今年も淡々と過ごした一年でした。
相変わらず思索をしながら教育と情報の世界を眺めつつ,職場では担当授業と業務との往復を繰り返していた感じです。華やかさには欠けますが,分相応かと。
りん研究室は,専門ゼミナールに所属する3年生(4名)と卒業研究に取り組む4年生(4名)という体制になった年でした。こういう風にカチッと学生たちが揃ったのは今年が初めてだったので(意外ですが…),その運営や学生支援に関しても試行錯誤な年でした。うちは各学生の関心がバラバラなので,カバーすべき範囲が幅広くなるといった事情もあります。
ああ,『情報時代の学校をデザインする』(北大路書房)は今年の2月発売でした。まだまだ絶賛発売中です。Society 5.0とかEdTechとか語りたい人にはお薦め文献です。
というわけで,今年も一年お世話になりました。
来年は,学会大会の会場をお引き受けすることにもなったので,今年とはまた違った形で活動を展開したいと考えています。
久し振りに姪っ子,甥っ子とご対面。
甥っ子は3歳になった。保育科目で子供達の成長発達過程について学んでいるときにも,学生たちが自分の周囲にいる子供達の実際の様子を思い出しながら授業内容を理解する場面があったりするが,私自身も家族や身内の子供達と接するたびに,子供達の成長の速さやら凄さを実感して知識を再確認する。
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仮説形成(アブダクション)について考えを巡らせていると,「仮説実験授業」というものがあったけれど,あれは関係するのか?といった素朴な問いにも触れる。
板倉聖宣氏による仮説実験授業は,そもそも科学教育の文脈で提案された考え方で,従来までの理科教育における実験が学習者による予想やら仮説を持たせた上で行なわれてきたわけではなく,どちらかといえば実験はショウのような位置付けでしかなかったことへの反省として出されたものである。
仮説実験授業を雑に紹介すべきではないのだが,流れとしては,予め用意された「授業書」と呼ばれる授業展開指導書のようなものに基づき,問題といくつかの仮説を示していき,学習者にはそれら仮説に基づいた予想や討論を展開させ,実験によって確かめるという一連の活動を通して科学的認識を深めさせるというものである。
仮説実験授業とアブダクションの関係を考えると,同じ「仮説」という語をまとっていてもその力点は異なっている。仮説実験授業には学習者の予想や討論を引き出すのにふさわしい複数の仮説が用意されており,その仮説の確からしさを熟考させ,検証させるという狙いがある。一方のアブダクションにおいては,確からしさを伴った仮説の形成が狙いであり,その確からしさを高めるという意味合いにおいては検証の過程も重視されている。
両者が異なる力点を持っているということは,これらを連携させて考える余地を感じさせる。プログラミング体験の考え方において仮説実験授業の考え方は参考にできる部分もあり得るだろう。もっとも板倉氏による仮説実験授業の特徴でもある「授業書」の試みに関しては具体的な方法論として受容するかどうか判断が分かれるだろうけれども。
たとえば「仮説形成授業」なんてキーワードで検索するだけでも(そのような語が使われているわけではないが),すでにアブダクションに注目した科学教育の試みについての研究成果はいくつか入手できる。こうしたものがプログラミング教育でも参考になる。
来年は,こうした議論が賑やかになるだろう。
帰省先で年末の買い物に付き合う。
Amazonで簡単に買い物ができる世の中になったが,かといって実際のものを確かめながらショッピングすることに意味がなくなったわけでもない。幸い,帰省先は少し足を伸ばした範囲にショッピングモールがある地域。車で出かけて,あれこれ物色した。
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帰省の友に米盛裕二氏の『アブダクション』(勁草書房)を持ってきたがなかなか開けず。その中で紹介されていた伊東俊太郎氏の『科学と現実』(中央公論社1981)が帰省先に届いたのでちょっと覗いた。
先日から話題にしているこの「アブダクション」(仮説形成)は,科学的発見の文脈で扱われてきたもので,いわば科学哲学の議論である。それをプログラミング教育の文脈のプログラミング的思考と重ね合わせられないかと考えてきているのだが,果たしてソフトウェア開発に関わる論理的思考を科学方法論における発見思考と同列に考えて良いものか。そこはまだ詰め切れていない部分だ。
伊東氏はパースの発見的思考に関する主張を検討するにあたって,問題とするのは科学史で取り扱われるような科学的発見のことであり,機械装置や工業製品の改良・開発をめざす創造工学的なものではない,と限定を施している。加えて,科学的発見に限っても「事実の発見」「法則の発見」「理論の発見」のどれなのかといった区分分けの必要性についても指摘しており,要するにこの手の議論はそう容易くないことを断っている。
ただ,小学校のプログラミング教育の位置付けを,知識基盤社会・情報通信社会という現代的な世界を対象とした探索発見行為を促す端緒と捉えるなら,自然界に対する科学的発見の所作と同型に考えることはあながち間違ってもいないと思われる。そういえば落合陽一氏が「デジタルネイチャー」という言葉を使っていたけれど,そのような世界に対する科学的探索発見行為を行うことと情報活用能力やプログラミング的思考は深い関係にあると描いてみてもよさそうである。
そんなモヤっとした思索を頭の片隅でしながら。
授業のない週。
クリスマスを含む連休中は,研究室の蔵書整理をしたり,我慢しきれずに映画『カメラを止めるな!』などをデジタル配信で視聴したり,のんびり過ごした。天皇の会見はあとからネットで拝見し,平成という時代が終わるのだなと感慨にふけったり。
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火曜から金曜日は,授業もないので久し振りに文献とにらめっこしていた。プログラミング的思考を論理的思考の角度から論ずる際に「アブダクション」が重要になると考えているので,あらためて米盛裕二氏の『アブダクション』(勁草書房2007)を紐解いている。
27日あたりTwitter上でプログラミング的思考に関するツイートが賑やかになっていて,それぞれの立ち位置からの認識を垣間見れる状態にあるが,結局,最初の無理がいろんな形で波及してしまった当然の展開なのかなとも思う。本来ならば,これがちゃんとした舞台の上で論争なり議論として扱われて,もともとの言い出しっぺに返っていく通路が形成されるべきなのだけれども,このままだと単なるノイズとみなされて終わりになってしまうところが,教育とICT界隈の残念な現実である。
文部科学省が「プログラミング教育プロジェクトオフィサー(非常勤職員)」を新たに1名募集しているので,こうした界隈の交通整理がしたい方は応募してみてはどうだろうか。
プログラミング的思考の育成をアブダクションによる思考方法の獲得として考えることは,問題解決学習や主体的・対話的で深い学びを指向する今後の学校教育にとって自然に受け入れられる方向性だと思われる。
ただ,学校教育にとって最大の問題は「時間」に他ならず,プログラミング教育を小学校・中学校・高等学校における体系的な取り組みとする時の「割振り」をどう描き分けるのかが,実のところ専門家にさえ見通せていないというのが実情である。
アブダクションによる思考法を獲得するには,演繹と帰納による思考方法もステップとして踏まなければならないのが筋である。だとすれば,時間の限られる小学校で一足飛びにアブダクションまでたどり着けると考える方が難しい。では,どこから手をつけるのか。そうやって割振りを見積もり始めると,小学校だけで全てが完結し得ない事態も覚悟した上で,中学校への接続を前提とした現実的落とし所を描かざるを得ない。むしろ,中学校と高等学校は大丈夫なのか?それが関係者のもっぱらの心配事である。
平成の30年間は社会のIT/ICT普及活用の時代だった。次は,人間とコンピュータとの関係を再構築する時代に入ってきている。AIはその格好の入り口だったわけで,私たちはもっと熟考を重ねてコンピュータをデザインしていく必要がある。そのデザインにアブダクティブな思考方法が不可欠だと考える。
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28日は年内出勤も区切りとなり,早々に帰省の途についた。
名古屋栄のAppleに寄って,仕事用のMacBook Proを修理に出した。バッテリーが膨らみつつあったので,深刻な事態になる前に対応したかった。事前の予約もAppleのサポートアプリからバッチリ確保して,万一のハードウェアリセットでも困らないようにバックアップも済ませた。基本的に「預けるだけ」「返ってくるの黙って待ち続けるだけ」にするとAppleの対応はシンプルで気持ちがいい。店先でごちゃごちゃする余地を残すと具合が悪くなる。
伝票を見たら「日本NCR」の文字。おそらくグループ会社のグローバルソリューションサービスが修理を引き受けているのかもしれない。長くAppleの修理プロバイダーをやっている企業である。それも安心材料。
というわけで年末年始はiPad Proのみで過ごす。