20181108_Thu

保育原理はプロジェクト活動の発表共有。

ジグソー法を参考に,エキスパートグループのメンバーが分散して新たなグループでジグソー活動を行なった。クロストーク活動までは時間内では難しかったので,次回以降ということに。

個別の調べ活動を経ているので,発表のスタイルは様々だったが,ジグソー活動が成立しないということはなくてホッとしている。強いて困ったといえば欠席者部分のフォローだが,それも快く買って出てくれる学生たちのお陰で大事にはならなかった。

プロジェクト活動はさらに次のステップへと進めて,得たものを活かしてもらうように促していきたい。

ゼミ4年生の卒業研究は地道に前に進んでいる。どこまで到達できるかも気になるが,ともかく立ち止まらないことが今は1番大事。

20181107_Wed

米国の中間選挙に関するニュースを横目に過ごした。

米国のメディアが発信している開票速報のインフォグラフィックを表現方法として楽しみながら,共和党と民主党の勢力争いの行方を見ていた。

最近はフェイクニュースについて触れた番組などを見ることも多くなったし,2年前の大統領選を振り返って,どのように情報がフィルタリングされているのかを考える報道も多くなっている。

フィルタバブルやエコーチェンバーといった問題と向き合うことがとても重要になってきたものの,この問題が生じさせている事態の全体像を想像したり,見抜いたりすることが技術的に困難になっていることは,情報教育にとっても大きな脅威のように思われる。

人間社会は神話と虚構の存在によって大きく複雑になってきたとハラリは論じていたけれど,その虚構で社会が滅びるのも道理のうちなのか。

中間選挙の結果は,上院で共和党が優勢,下院で民主党が優勢となった。中間選挙のセオリー通りの展開だと考える人々もいるし,トランプ大統領への厳しい評価の結果だと見る人々もいる。

もっとも,これからはアメリカという国家より,中国という国家が台頭する世界へとシフトすることについて,もっと真剣に考えなければならないのかも知れない。世界の枠組みがガラッと変わりつつある。

20181106_Tue

議論や対話の場を仕掛けるのは難しい。

特に東京にいる人たちがやろうとすると,私が皮肉めいて表現する「東京ローカル」な結果になりやすい。集うにはいい都市ではあるが,それが返って,集いやすい人たちの内輪事と映りやすくなる場所でもある。

教育劣位社会』(岩波書店2016)は,教育政策と教育世論の実相について意識調査結果をもとに議論を展開している。日本においては,医療や介護といった社会保障世論に比して,特に高等教育などの教育世論の優先順位が劣位にあるというのが調査結果の明示するところだという。

そうした教育世論に影響するものとは何か。

「優先して税金を投入すべき領域」等の意識を調査するにあたり,質問テーマに関する情報提供によってどれくらい意識変化に影響するかを分析したところ,ほとんど影響がなかったことが判明する。しかし,分析を進めると,テーマが自らに関係したり,リスクが及ぶことがわかると意見に変化がみられる場合もあったという。日本人の世論に影響を与えるものは「当事者性」ということになり,こうした特性が根強いようだ。

この一説を援用したとき,ここでいう「東京ローカル」な状況が,その外側の人々の当事者性を駆動できていない可能性は十分考えられ得る。場合によっては,冷めた目を増長しさえするのではないか。そうした難しさがあることも覚悟が必要だと思う。

教育に関する情報提供が世論の意見変化に影響しづらいという指摘は,議論や対話によって教育に関する情報への認知を高めることが大事だと考えている私のような人間にはショックな話である。

しかし,議論や対話を通して当事者性を喚起しながら巻き込むことには可能性が見えるわけで,そうしたことを実現するため丁寧にアレンジしていくことが大事なのだということは,経験的にも納得いくことである。

教育と歴史研究の資料整理に助っ人登場。

内定が決まって余裕のできた4年生でExcelの勉強がしたいという学生に,データ入力のアルバイトをお願いしたところ快く引き受けてくれた。「NEW教育とマイコン」誌の目次情報を電子化する作業が一歩前進。

頼み下手な私にしては珍しい出来事である。

20181105_Mon

月曜1限の授業。

週の初めの授業ではあるものの,だからなのか,あっという間に終わる。今回は学習指導要領改訂の変遷を追っかけ,臨時教育審議会のところで時間切れとなった。

研究室で雑務処理。

東京で11月4日と5日に教育イノベーション協議会主催の「Edvation x Summit 2018」という催事があったようだ。

教育界隈という言葉で,教育に関わる人々のコミュニティを表してみても,そのコミュニティやメンバーは多様で,「教育」に関わっているからといって全員が繋がり合っているわけではない。それは「学会」や「学術」の世界に関わっているからといって研究者が全員繋がり合っているわけではないのと同じだ。

そんなわけで,私なりに20年くらいは教育界隈に携わっているが,「Edvation x Summit 2018」のような催事には依然として近寄り難さを感じたりする。

やっていることは素晴らしいと思う。

観客に撤すれば,催事の内容も活躍している個々人も魅力的だと思う。午後には経済産業省とボストンコンサルティンググループによる「「未来の教室」実証事業 中間報告会」がFacebook上で映像配信をしていたので,そこでのディスカッションを興味深く拝聴もした。それは観客の私にとっては楽しくはあった。

けれども,教育界隈に関わる人間として受け止めようとするとき,どこか突き抜けることを要求される空気感が漂い,そうした空気を共有する「内輪」へ加わることを余儀なくされそうでハードルを感じてしまうのだ。

所詮,どんなコミュニティも内輪になるのだから,ハードルや抵抗を感ずるのはお門違いとも言える。だから,本当の問題は,外部に対してどれだけ意識を向けたり配慮したりできているか,と言い換えられるかも知れない。

その基準に照らすと,こうした取り組みが「過去」あるいは「従来」に対して意図的に断絶を作り出そうとしていることが,どうしても距離感となって映るのだろうと思う。

チェンジメイカーを生み育む教育イノベーションを目指すことは,生きる力をもつ個人を生み育む教育改革を目指してきたことと,何がそんなに違うのか。

そのことをいつでも外部に対して説明する努力を怠らないようにしないと,いつまでも東京ローカルな内輪感が抜けないように思う。

20181103_Sat

文化の日。

せっかくなのでお出かけをして映画を見ることにした。以前から話題となっていた「カメラを止めるな!」が未見だった。幸い,ネタバレに触れることもなく映画に関する事前知識はほぼ無い状態だったし,近場の映画館が毎夜1回上映を続けていたので,これはチャンスだった。

もちろん楽しんだ。

このブログもネタバレしては申し訳ないので内容について詳しくは語れない。ただ一つだけ言えるのは,どの映画でもそうではあるけど,「どんな映画か分からなかったのを観て楽しむ映画」だということ。

全然関係ないが「コンフィデンスマンJP」が観たくなってしまった。映画版楽しみ。