20181102_Fri

卒業研究の指導など。

算数ドリルWebアプリケーションの開発に挑戦しているゼミ生たちが,研究室にやって来て開発作業に取り組んでいる。

といっても数カ月前からHTML5やらWeb開発やらを取り組み始めたばかりだから,とにかく見様見真似状態で試行錯誤が続く。初めてプログラミングに取りかかろうというのだから,エディタソフトの選定やら,開発と実行環境の違いやら,そういうところの理解をするのもなかなかのハードルであった。

HTML5でWebアプリを組むといっても,HTML, CSS, JavaScriptは当然として,JQueryやBootstrapといったものライブラリの利用が混ざったサンプルなんかも出てくるから,それを紐解くだけでも大変である。さて,どこまで実現できるかは彼らの努力次第といったところ。

私もせっかくだからGoogle App Scriptを勉強がてらいじってみることにした。昨今は参考書として『詳解! Google Apps Script完全入門 ~Google Apps & G Suiteの最新プログラミングガイド~』や『Google Apps Script Webアプリ開発 超入門』といったものが発刊されたので取り組むのに良い機会だ。

専門ゼミナールでは,3年生達と卒業研究の話。

そろそろテーマについて考え始める頃となった。どんなことに関心があるのかを出したもらって,絞り出したり絞り込んだりしよう。

20181101_Thu

授業は発表準備。

グループごとに個々の調べ成果を持ち寄って発表内容について共有する。次回はジグソー形式で他のグループと内容を共有する予定である。

授業を終えて県内出張。

徳島県三好郡東みよし町にある足代小学校へと向った。かつて総務省フューチャースクール推進事業と文部科学省学びのイノベーション事業の実証校として関わった学校である。もう「かつて」なんて言葉で振り返る出来事になってしまった。

お世話になっている足代小学校の先生から,同じくお世話になっているICTスクールの先生が来徳されて子どもたちや先生方にmicro:bit等をレクチャーをするので手伝いに来ませんかとお誘いを受けた。

事業が終わって以来,すっかりご無沙汰してしまって,学校に広い駐車場ができたことや新しい端末など変わったところに驚きつつも,学校の雰囲気やいくつか当時の機材が残っているところなど,懐かしい気持ちにも浸った。

レクチャーと研修は興味深かった。定まった答えがあるわけではない考えさせる問いというものは,あれこれと議論を積み重ねられるので面白い。

実はお世話になっているお二方はどちらも教育情報化コーディネーター1級の方。その資格を取得するのは難しく,全国でまだ5人しかいない。そういうお二方とご一緒しながら,その夜はスナックで教育ICT談義。

フューチャースクール推進事業を振り返り,校内のインターネット接続環境整備とICT支援員の重要性が事業によって明確になったことを確認し合ったりした。まだまだ当時の成果をちゃんと振り返れば,そこから今に活かせる教訓やヒントやらがいっぱい出てくるはずなのだが,それができていないことをあらためて反省。

関わった者として,もう一度ちゃんと掘り返さないといけないなと思った。

20181031_Wed

小学校でプログラミングをどう取り組めばいいか。

プログラミング体験が必修事項となったとはいえ,初めての先生方にとっては何から手を付ければいいのか分からないのが実際です。

この日も出張先の会議で素朴に問われました。何から読めばいいでしょうかと。

文部科学省は新たな学習指導要領に併せて「小学校プログラミング教育の手引」(2018年11月6日に第二版)を公表し,プログラミング体験を導入した経緯や考え方等について解説しています。その内容をパンフレット化した「「小学校プログラミング教育必修化に向けて」パンフレット」が未来の学びコンソーシアムによって製作されています。またICT CONNECT21からは「小学校プログラミング教育導入支援ハンドブック2018」というパンフレットも出されています。

公益財団法人・中央教育研究所が「小学校プログラミング教育ガイド」というパンフレットを作成しており,裏面にあたる「プログラミング教育 実践事例+教材紹介」で様々な事例を手軽に一望できるようにしています。

巷には『間違えないプログラミング教育』(小学館)という先生たちの心理に付け込んだタイトルではありますが情報満載なガイドブックも登場していますし,『先生のための小学校プログラミング教育がよくわかる本』(翔泳社)といったその名もずばりの本も発刊されています。

先生向けではありませんが,保護者向けに『図解 プログラミング教育がよくわかる本』や『プログラミングってなに?親が知りたい45のギモン』といった本や,様々な子育て・家庭教育雑誌の情報発信も世間の空気を煽っているという点で気にしておいてもいいかも知れません。

プログラミングにいろんな学習の要素や意義があることはわかったけれども,現実的問題としてプログラミング体験事項を厳しい時間進行の中にどう取り込むべきか。

その問いに直接答えることは難しいですが,プログラミング体験を誘発させたり発展させやすくする下準備に何をすればよいかは答えられます。それは,先生が普段からプログラミングを道具として活用している姿を見せ続けることです。

たとえば,パソコンの画面上でアニメーションも作成できるプログラミングツールがありますが,それらを利用して教科の提示物を作成してしまうことです。

また,ボタンやセンサーが備わったプログラミングできる小さな電子機器も様々登場していますが,それらを使って,授業中の提示スライドの表示や順送り操作をすることです。

こういうプログラミングツールや電子機器を,そのものを勉強するために用いるのではなく,普段の授業や学習のために使いこなすということを先生たちが楽しんで挑戦している様子を見せることが大事だと思います。

学習指導要領における例示を踏まえて,算数や理科の新・教科書でプログラミング体験がどのように記述がなされるのか。そんなことばかりを気にしていても,プログラミング体験をうまく溶け込ませることはできません。

先生方がプログラミングの成果を実利用・活用しているその姿を見せることが関心を喚起する出発点になりえますし,そこから学習指導要領の例示を越えた様々なプログラミング体験を生み出せるかも知れません。これは,子どもたちが自らプログラミング体験を生み出すことも含まれます。

そうなったら,プログラミング体験という学習事項を時間進行のどこに位置づけるかという問題は,また違った見え方をするのではないでしょうか。

20181030_Tue

Appleが新しいMacBook Air、Mac mini、iPad Proを発表しました。

英語で「All-new design」とか「Redesign」とか表現されると、筐体を「真新しくデザインした」フルモデルチェンジと思ってしまいがちですが、今回のMacはどちらかと言えば、筐体デザインは大して変えずに「真新しく設計し直した」モデルといったもの。

見た目のインパクト勝負の時代はとうの昔に終わり、確立した製品カテゴリーを持続的に提供するための裏側の取り組みが粛々と続けられていることを印象づけるものでした。それは今回のMacが100%再生アルミニウムで製造されているといったことにも象徴されていると思います。Airとminiというモデル名が残されたのも、末永く使うものだというメッセージを込めているのではないかと思います。

MacというAppleにとってのパーソナルコンピューター・カテゴリーは、決して終わりを迎えるわけではないものの、そこからまったく新しい何かを始めるということはなく、その時代時代の技術トレンドを取り込むというリフレッシュは行いながらも、基本的にはメンテナンスフェーズにあるという気がします。

では、何か新しいが始まるのはどこかと言えば、それはiOSデバイスのカテゴリーということになります。

今回のiPad Proはフルモデルチェンジと言ってよいと思います。

また先に発売されたiPhone Xシリーズも新しいモデルフェーズに入った製品です。

昨年のiPhone XとiOS 11と組み合わせで先行して姿を現しましたが、いわゆる「ホームボタン廃止後」の新しいモバイルオペレーティングシステムの形は、今回の新しいiPad ProとiOS 12の組み合わせによって本格的に始まるわけです。さらに今後は64ビット対応アプリのみが動作する環境へと完全に移行させていくので、iOSの系譜的にもいよいよ新しい段階へ突入したと見なすことができます。

そうした足回り(OSやAPI、独自CPU等)を組み立て固めていく作業過程に、私たちは長いこと付き合わされてきたわけですが、ここにきてようやく一段落付いた感じだと思います。

新しいiPad Pro自体は、ホームボタンが排除されベゼルが細くなり、コネクタがUSB-C規格になったり、Apple Pencilが第2世代へとモデルチェンジしたりと、期待された改良が施されて文句なく買いだと思います。ただし、それだけのフラッグシップ製品であるだけに、価格もそれなりの金額となってしまうのが痛し痒し。

個人的には初代iPad Proを愛用していますが、私の使い方だとパフォーマンス的に不満は少なく、今すぐに買い換えをする必然性がないので、新しいiPad Proは様子見です。今後、アプリが多機能化などして処理速度の要求度が高くなったり、端末自体が不調になって買い換えニーズが発生したときに検討するのでも十分かなと思っています。

先日のブログで中学校の教育用パソコンのOS種別比率をご紹介しました。

比率は公立学校(小中高特別支援等)に範囲を広げた場合でも似たようなもので、要するにWindows一色なのです。ただ、Windowsのバージョン分断が鮮明で、依然多く残るWindows 7に関しては2020年1月14日に延長サポートが打ち切られるため、新バージョンか別のOSへの移行が求められているところです。

それで、学校で利用するOSは、そもそも何を選んだらよいのだろう、という素朴な疑問に、今ならなんと答えるのが妥当なのか。皆さんは自身の答えをお持ちでしょうか。

問いが厳密でないという問題もあるし、答えるための前提はいろいろ考えられるため、答えのコンセンサスが成立しているとはいえない質問です。

理想的なことを申せば「代表的なOSの機器はすべて導入すべき」なのです。

それぞれのOSや機器毎に特性や独自機能があるのですから、要求に合致するOSや機器を使い分けられるように環境を整えるのが学校であってもいいはずです。図書館の国語辞典がたった一種類しかない状態は貧弱な蔵書状況だといえますが、パソコン機種においても同様に考えてもおかしくはないはずです。

とはいえ、現実的にはそう考える人の方が少なく、パソコン導入となると一つの種類に統一するのが正しいと信じられています。

一つに絞るときの答えは「今どきOSは何を選んでもいい」となります。

ただ、この答えにはいくつもの条件が付きます。まずはインターネット接続を前提とすること,Webサービスなどのクラウド利用を前提とすること等です。

Windows 7が発売されたのは2009年ですが、このあたりから時代はモバイル端末への比重移行を本格的に始めていきます。クラウドのサービスが使い物になったのは2014年や2015年頃で、ほんの少し前のことです。そこでようやくWebブラウザがプラットフォームの役目を担い始めます。

そうなると、Webブラウザが安定して動作すればよいという話になってきますから、Webブラウザが動けばOSは何でもよいということになります。何年か前までは「マイクロソフトOfficeが動かないと…」なんて懸念も流布していましたが、いまやそんな呪文を唱えるの人は極少数です。

実際には管理作業やコストの要素が選択の判断材料になることにはなります。私個人は,OSアップデートに伴うバタバタが少ないのでリンゴマークの機器を好んで使っていますし,ブラウザベースのOSも仕事では使います。

そういうわけで,何を選んでもいいという時ほど,好みがないと選び難い時代とも言えるかも知れません。

20181029_Mon

デジタルに対してどう向かい合うべきか。

このところの機器や技術がもたらす事態を眺めていると,その進化あるいは未熟さのどちらをも要因として,私たちの認識をこれまで以上に惑わし,危険水準に連れ込もうとしているように感じられる。

アナログとデジタルの境が見えなくなって,私たちの意識や文化に大きな影響を与えてしまうのではないかという問題意識は,目新しいどころか今では使い古されたもののように聞こえる。けれども,デジタルが表現するものの影響力が一段と強くなってきた昨今だからこそ,今一度,問い直すことが必要な気がする。

分かりやすいところでいえば,デジタル画像・映像処理。

先週,米国でAdobe MAXというアドビ社のイベントが開催された。ユーザーとの交流や製品・技術情報提供の場として毎年催されている。そこで披露された開発中の技術は,アドビ社が手がける画像や映像等分野の先進的な処理技術であり,ディープラーニングの成果を応用して元データから魅力的なコンテンツを引き出す技術だった。

しかし,そこで生み出されたコンテンツは,元データから生成されたとはいえ,どこからかはリアルを離れてフェイクを抱え込んだものになっている。そして,その分水嶺がどこにあるのかを確固として言及することが,今まで以上に難しくなっていることを感じた。

この問題に私が最初に触れたのは『リコンフィギュアード・アイ』(アスキー1994)であった。原著が執筆された当時1992年はPhotoshop2.0時代で,高解像度のデジタル画像を扱うのは難しかった時代である。そのためこの本では,当時まだまだ主役であった(アナログ)写真における視覚受容の文化的な意味を議論するところから掘り下げられており,「意図と人為性」の章では,写真が誇ってきた信憑性について様々な手法事例を通して疑問を投げかけていた。

アナログ時代にもある種の意図と巧みな編集によってフェイクなものはあった。それでもそこには微かな綻びや痕跡が残されていて見抜けるものもあった。しかし,デジタルになったらどうだろう。デジタル処理を人間がする分にはまだ痕跡は残るかも知れないが,その処理を膨大な学習をしたAIが担ったら。

何をもってオリジナルやコピーと見做すべきか。

そもそも原初がデジタルで始まったものに囲まれた世界で,私たちが認識可能な分水嶺を残すべきであるのか,残るものなのか,もはや存在するものなのか。問いかけ自体が変容を迫られ始めて,もはや問いさえ見失いかねない気がした。