カリキュラム論2018

夏の集中講義二つ目は椙山女学園大学「カリキュラム論」でした。

教職課程の授業科目であり,主に家庭科教員や栄養教諭などを目指している学生が受講してくれています。15回の授業を4日間連続で消化するので,一度始まればジェットコースターの如く展開します。

教育課程に関する理解と学習指導要領の変遷はもちろんのこと,教育評価にも意識を向けてもらうため評価規準表の作成にも取り組んでもらうのが定番のメニュです。

平成29年と平成30年に学習指導要領が改訂したばかりなので,そこで目指された方向性を,公的資料も読み解きながら紹介していきました。

なにしろ伝えるべきことが多い科目なので,評価規準表や授業指導案の作成作業も確保しながら,怒濤の一方向講義,しゃべりっ放しの4日間でした。アクティブ・ラーニング型を指向する今日では完全にアウトな講義だと思われそうですが,そこはこちらもプロとして脳みそフル回転していますから,あの手この手で受講生の脳みそも巻き込んでました。

残念ながら,一つ一つのトピックスを深く掘り下げるところまではいきません。むしろ,今までどこかで学んできたことを繋げていく作業をしていました。繋げ方の一例を提示して,そこから派生的に学びを広げてもらおうというアプローチだったともいえます。

「別の授業で学んだことが出てきて,より詳しく理解できた」というコメントもたくさんもらいましたが,既有知識の関連構造を見直す機会がどこかで必要だとすれば,この夏の集中講義がよいタイミングだったのでしょう。

不思議と講義中は「カリキュラム」という言葉はほとんど使いませんでした。「カリキュラム・マネジメント」という言葉も注目を集めていますが,こちらの言葉は結果的に何も触れずに終わったように思います。

最終日の講義でようやく「カリキュラムとは何か」を考えました。

ご承知のように「学習指導要領改訂の方向性」で示されたように「何を学ぶか」だけでなく「何ができるようになるか」「どのように学ぶか」が求められるようになりました。

学習指導要領がその部分までカバーすべきかどうかの是否は問われるべきですが,カリキュラムという範疇で考えれば,これらを踏まえることは重要なことだといえます。さらに各教科の「見方・考え方」をあらためて考え直してみる,明確にし直してみるという方向性も,今後は学習指導要領の教科構成の在り方自体を見直す議論へとつながっていくべきと思います。

デューイは,カリキュラムとは学習経験の総体だと述べました。

学校教育は,その一部分に関われるだけですが,人が得た経験の繋ぎ方を組み換える術を紡ぐことに関われるのだとすれば,それはなかなか興味深くチャレンジングな仕事ではないかと思います。

4日間の講義は「あっという間に終わった」そうで,当初は猛暑の夏休みに授業を受けなければならない状況に意欲喪失していたそうですが「意外と楽しかった」のだとか。

今年も悪くない印象でカリキュラム論を終えられたようです。

現代授業メディア論2018

本務校の授業と試験が終わると,次は夏の集中講義でした。

一つ目は鳴門教育大学で「現代授業メディア論」という講義を担当しました。2年毎1回開講です。

大学院の講義でもあるので,主題の「現代における授業とメディア」について受講者とともに考えるというスタンスで取り組んでいました。

「メディアとは何か」「授業とは何か」「現代における授業にとってのメディアとは何か」などと螺旋的に考えながら,その過程で授業で使えそうなメディア・ツールを紹介していました。

この講義の記録として利用するために毎度紹介しているのがRealtimeBoardです。HTML5ベースのコラボレーティブ・ホワイトボードサービスで,共同編集できる広大なデジタルホワイトボードを提供してくれます。

共同編集ホワイトボードのようなツールは,協働学習に使えそうだという「ほのかな期待」をよく寄せられますが,正直なところ,授業の中で使うには向きません。というのも,複数の人間が編集可能な状態にあるボードというのは,個々人が全体の現況を把握することが難しくなるという問題点があるからです。情報を集約して整理する場所を提供してくれるツールとしては有用ですが,学習を個に返していくためにどう活用できるか考えずに利用すると,単なる覚書ツールの域を出ることができず,その覚書も忘れられて終わりがちです。

そのような弱点はあれど,大学の講義の中でのやりとりを記録して共有するツールとしては便利な側面もありますし,情報を掌握している限りではグループの情報整理や成果を披露するツールとして有用なので,この手のサービスがまるっきり使えないわけではありません。

今回紹介したRealtimeBoardの他にも,A Web WhiteboardBeeCanvasといったサービスが独立系の企業としてサービスを提供しています(この手のサービスは他にもいろいろありそうです)。いずれもWebベースのサービスとして開発されており,Webブラウザがあれば利用可能です。

大手プラットフォームもコラボレーションツールには力を入れているため,Microsoft社はMicrosoft Whiteboardを,Google社はJamboardを提供しています。

ちなみに日本発のサービスとしてはコラボノートschoolTaktが知られています。その他にも授業支援システムを提供しているサービスの中には,同様な機能を有しているものがいろいろあります。

この方にもいくつかのツールをご紹介する中で,公衆インターネットへの接続を前提としたクラウドサービスが使える場合はよいけれども,強くフィルタリングされてクラウドサービスを自由に使えない状況にある公立学校ではどうすればよいのかといった問題を議論したり,ツールとメディアは何が違うのかといったことなどを議論をしました。

授業スタイルのことや,発達心理学や認知心理学の知見を踏まえたり,ソサエティ5.0や人工知能などによってもたらされる世界における人間の感受性をどう考えるかといった受講生同士の議論は大変興味深いものでした。人間的なものを大事にしたいと考えたときの私たちが考える「人間的」とは何なのか。場合によっては人形に対しても人間的なものを投影できる私たちの感覚機能なら,人工知能やロボットに対しても何ら違和感を抱かなくなる,そういう世代が主役の時代がいずれ来ることも十分あり得るのではないか。

ちょうど「トランセンデンス」という映画を見たタイミングでもありましたし,少し前には海外ドラマ「ウエスト・ワールド」(シーズン1)を見たことが,いろいろ頭の中で駆け巡ったりしました。

現代授業メディア論の主題からはだいぶ離れてしまう話題ではありましたが,授業でのメディアが何を媒介するものであるのかを考えるときには,こうした近未来的な世界に対する感覚を想像することも大事なのかも知れません。

未来に向けて,教師の役割がどう変わっていくのか。

さらには,その役割を担保する関係性を児童生徒学生との間に保つことは可能なのか。

逆に宿題をもらった集中講義でした。

プログラミング体験の入口へ

 先日,徳島新聞に学生たちの活動が紹介されました。5月に附属小学校の児童を対象として行なったプログラミングたいけん教室のことです。私も手伝った教員としてコメントを掲載していただきました。

 徳島新聞の教育関係連載の一つなので,記事自体は,プログラミングを学校教育で扱うことは決まったが疑問点も多く準備が始まったばかり,という内容です。その中でも,一部の前向きな学生たちは積極的に取り組み始めているという事例としてご紹介いただいたと思います。

 徳島県内では,県西にある三好市で学校外活動ではありますが,「コーダー道場 三好」(CoderDojo Miyoshi)というプログラミングを学ぶ場が先駆けて活動を始めており,中学生が道場主であることでも注目を集めました。

20180312「プログラム道場、先生は中学生 徳島・三好で四国初開設」(徳島新聞)

 徳島県の県政や商業関係はICT関係を常に意識した取り組みをしており,この分野への関心が薄いというわけではないのです。ただ,先頭集団が新しいことにキャッチアップを続けているのを,一般県民などは遠くで様子見しているという構図が長く続いてしまって,温度差が固定化したのだと思います。

 とはいえ,いよいよ小学校でのプログラミング体験も始まりますので,慌ただしく準備が始まるでしょうし,学校の先生方は今後気長に付き合っていくことになるでしょうから,まずはいろいろ体験してみることから始めて,徐々に蓄積を増やしていくことが重要になります。

 体験して理解するなら集中的に取り組んで数ヶ月もあれば十分ですが,これを学校で扱っていくノウハウを溜めるには,少なくとも10年は先を見据えて,最初の5年間を長期的な教材研究期間だと考えていく覚悟が必要です。

 さて,私たちも秋に向けてまた仕込みをしなければ。

経済産業省「学びと社会の連携促進事業」

かつて学校教育とインターネットが関わり始めた1994年頃に「ネットワーク利用環境提供事業」(通称「100校プロジェクト」)が実施されました。通商産業省に文部省が協力した取り組みでした。

その後,2004年頃には「教育情報化推進協議会」という組織の設立などに経済産業省として名を連ねましたが,その後,IT専門人材に関して所管しつつも,教育の情報化関連で経済産業省が表立って動くことはありませんでした。

それが2018年初めに「未来の教室」とEdTech研究会の活動が始まり,経済産業省が教育情報化分野の活動を再開した形になっています。

正式には「学びと社会の連携促進事業」と呼称され,予算関連は次のようになっています。

2017年度補正予算にて平成30年度当初予算として…

EdTechの活用やリカレント教育等による多様な人材の育成
• ITを活用し個人の習熟度に応じた適切な指導や創造力育成を学校で実証、就職氷河期世代を含めた社会人への社会人基礎力やIT等専門分野に係る研修の実施等【補正】25億

が組まれ,このうちの5億円が学びと社会の連携促進事業に充てられたようです。

ちなみに,2018年度概算要求では…

公教育における民間事業者の活用、ITを利用した教育手法(Edtech)の導入促進
● 小学校におけるプログラミング教育を官民で推進する「未来の学びコンソーシアム」を活用し、2020年の「小学校でのプログラミング教育の義務化」に向けて、関係省庁と連携し、指導人材の育成・拡充を行う。
○ EdTechや民間サービス活用の先進事例を創出し、学校教育における民間サービス等の普及に向けた標準や認証、評価手法等の創設を検討。
– 学びと社会の連携促進事業【5億(新規)】

と説明されています。

また,7/26には「「未来の教室」プラットフォームキックオフイベント」が開催され,Facebookライブでの配信記録で様子を視聴できます。

かつて通商産業省として教育情報化に関わったのは,情報処理振興事業協会(IPA)を所管する「機械情報産業局 情報処理振興課」という部署でした。現在でいうところの商務情報政策局 情報技術利用促進課です。つまり,情報処理分野としての扱いでした。

一方,今回の「未来の教室」やEdTechを担当しているのは「商務情報政策局 商務サービスグループ サービス政策課」の教育産業室です。こちらはサービス産業としての扱いになります。

概算要求における説明でもわかるように,最終ゴールは,サービスビジネスとしての産業活性化に繋がることであり,その過程で日本の教育にもイノベーションが起こればいいなという建て付けです。

もちろん,日本の教育を変えていかないことには,サービスビジネスを展開する地盤自体が衰退してしまうことになる危機感は本物でしょうから,本気で「どちらも目指す」ことを訴えています。

おかげで,キックオフイベントを拝見すると,いろんなプレイヤーが一堂に会している様子がうかがえ,今後もいろんな立場の人達が関わり合うという意味で,面白そうではあります。

私も常々,EdTechの収益サイクルをどう健全に維持するか,その仕組みが確立しないと学校教育にEdTechが持続的に提供されないのではないかと考えて「教育・文化ジャンル特化型のネット広告配信」システムが必要ではないかと提案していますが,それを実証事業化して応募するのも面白いかなと思います。もっとも,余力がなくて具現化までいけないのが残念ですが。

学校教育における情報化と,「未来の教室」& EdTechの取り組みは,同じ教育分野とはいえ,かなり異なるものです。なので,これらを変に混同したりしないよう,一般の皆さんに注意を喚起する必要もあると思います。

どのような形にしても,学校教育によい影響がもたらされるのであれば,過度に否定的になるよりも,程よい距離から応援するくらいがちょうどいいように思われます。

Society5.0にたどり着く前に

ブログを一休みしている間にも,世にはたくさんの言葉が投げ込まれては宙に浮かんでいます。

たとえば,「Society 5.0」という言葉が今年初めから政府広報で発信されています。もともとは2016年1月22日に閣議決定された「第5期科学技術基本計画」の中で取り上げられた言葉です。日本語では「超スマート社会」と呼称されています。

このための議論は2014年末から始まった「総合科学技術・イノベーション会議 基本計画専門調査会」で行なわれ,諸外国の事例も参照しながら「デジタル・ソサエティ」や「超スマート社会」という言葉を交わしていく中で,計画がまとめられていきました。

国家の科学技術に関する基本計画ですから,高みを目指した目標を掲げることは必然です。

その分には,「超スマート社会」という言葉や「Society 5.0」という言葉を操作的に定義して,様々な施策の新規性を明確にすることも問題ないと考えます。

しかし,異なる文脈に持ち込もうとする際には,用心が必要だと思うのです。文脈が違えば,新しいものが持ち込まれると混乱が生まれる可能性もあるからです。

たとえば文部科学省と経済産業省が次のような報告書や提言を出しました。

20180605「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」(文部科学省)

20180625「「未来の教室」とEdTech研究会 第1次提言」(経済産業省)

これらは,先の科学技術基本計画,つまり国策の流れに沿うものとして,それぞれの省庁から出されました。いずれも教育にかかわるものなので,両省の関係者は裏で調整をしながら,国が志向する新たな社会における教育の姿を描写しようと努力したわけです。国の仕事としては順当な流れです。

しかし,教育の分野は,新しい社会の新しい教育の姿を描く以前に,現行制度が目指しているものを維持することすら難しい局面に立たされています。平成29年と平成30年に改訂された学習指導要領は,現行制度のもと可能な範囲で変革しつづける社会に対応すべく大胆な見直しが行われましたが,それを担うには現実が追いついていないというのが大方の認識ではないかと思われます。

つまり,私たちは現行制度内での改革に立ち向かっている途上にあって,Society5.0時代の教育や「未来の教室」について新たに語っているという構図の中にいるのです。

これらを別々のものと考えるか,同じ延長線上のものとして考えるのか,論者によって様々です。

一般の人々にはどちらの話も十分伝わってないのではないか,という根本問題があることも加味しなくてはなりません。ブラック部活やエアコン問題でさえ,議論は混沌としたままであることを思うと,Society 5.0と投げかけられても「何それ,おいしいの?」という反応だってあり得ます。

そういう意味では「未来の教室」というフレーズを使い「Society5.0」を用いなかった経済産業省は一枚も二枚も上手といえるかも知れません。ただ「50センチ革命」を推すあたりは,いかにもビジネス書水準を感じさせます。

一般的に研究者は,新しい言葉を用いる際,その必然性・必要性について厳しく自問します。

新しい概念を指し示すために,新たな言葉を用いたい場面は多々ありますが,それが単に新しさを醸し出したいだけで用いられると,いずれ言葉が廃れるだけでなく,廃れた言葉が議論を混乱させる原因にもなってしまいます。

もちろん,あえて新しさを強調することで人々の注目を集めることを目的とする場合もあります。

政府方針や施策を知らしめる場面は,これにあたるのかも知れません。

その意図を汲み取るなら,ここに出てくる新しい言葉に目くじらを立てるような対応をする必要はないだろうとは思います。「Society5.0」の前に「Society4.0」はどうなったのかとか,なぜ「50センチ」なのか,「30センチ」じゃまずいのかを問い詰めたところで,さしたる根拠は出てこないだろうからです。

とはいえ,ときどきは宙に投げ出されて漂っている言葉の交通整理は必要かも知れません。

もう少し様子を眺めてからあらためて考えてみたいと思います。