20181121_Wed

調べものと卒業研究指導。

学生たちが研究室で過ごす時間が増えてきた。現在の部屋に引っ越してきた時点で,そうした利用を想定していたので,ようやくそんな姿が増えてきて嬉しく思う。もっとも卒業研究自体はもっとピッチを上げてもらわないと困るけれど。

そんなこともあって,研究室の椅子を新調することにした。

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ベンチタイプは変わらないが,背もたれ付きのものに変更。今までは板の上に薄いクッションを敷いて座ってもらっていたが,座面もクッション式になり,ぐっと快適度が増した。これで来客に対しても優しい研究室になった。

長時間座ってパソコンや資料を見ていると疲れるが,伸びをするにしても休憩するにしても背もたれがあると大変楽だ。小さな環境改善だが,これで学習や研究がはかどってくれれば言うことはない。早くも横になって寝たがっている学生もいたけれど。

幼児教育や保育の世界では「環境を通して」ということが共通認識になっているところがあるし,大学教育においても「ラーニング・コモンズ」の重要性がますます大きくなっている。先日も各国の初等学校の教室配置と授業スタイルが異なることを話題としたWeb記事が紹介されていた(20181116「「国民性は小学校の教室から作られている」5カ国の小学校を渡り歩いた女性が語る日本の可能性とは?」AERA)。

また,メイカームーブメント(自作&ものづくり)でも,「メイカースペース」といった実験や工作等を自由に試行錯誤できる(ティンカリングできる)空間が重視されている。

学習空間をどのようにデザインするかは,単に居心地という次元を越えて,学習活動の行方を大きく左右する条件のひとつになっている。

逆に言えば,空間の制約によって私たち人間の行動や思考も制約が課されていると考えられるわけで,それが変わらないところに新たな課題や道具が降ろされたとしても,柔軟な対応を求めることは簡単ではないかも知れない。

私立や一部の公立学校では,オープンな雰囲気を備えた校舎や学校空間を持ったところが出てきている。もちろん新しい校舎で洒落た設計が為されただけで,活用に柔軟性がなければ意味がないけれど,もっと多くの学校空間の居心地や利用経験が柔らかいものになるといいなと思う。

20181120_Tue

授業と会議。

卒業研究には,「教育玩具」をテーマとしたWebサイトを構築するというものもある。サイト自体はこれから構築作業をするのだが,事前調査は進めてきており,その歴史的な流れについて調べてもらっているところである。

教育玩具の近代』(世織書房)は,教育玩具に関する数少ない文献の中の貴重な一冊だが,日本において「教育玩具」がどのように生まれ受容されてきたかをまとめている。そこには明治期における内外の博覧会への出品に関わって展開する,幼児教育にとって意義ある玩具を具現化しようとした試みと失敗,ビジネスチャンスを生み出した商才とそこへの便乗,そして教育関係者による玩具の改善といった歴史がある。

そのような歴史の中の,教育博物館(現在の国立科学博物館)の存在や,百貨店の三越による児童博覧会や児童用品研究会の設置は興味深い。(時間差を伴いながらも)産官学の連携が教育玩具の世界でも成立していたということだろうか。

個人的には高島平三郎が作成した「年齢別の発達段階に適応した玩具分類表」や関寛之が作成した「玩具の科学的な分類表」を機会があれば探して見てみたいなと思う。

この本の後半は幼稚園教育と教育玩具としての積木を軸に論じられていて,これはこれで担当している授業にも関わるので興味深い。フレーベルの「恩物」が外来玩具として持ち込まれ,日本の幼稚園教育の形成とともにどう受け止められたのか。またじっくり読んでみたい。

20181119_Mon

気になる本『敵とのコラボレーション』(英治出版)を読んだ。

日頃,外部の人とやりとりする機会が少なく,議論する相手も身近にはいないので,独り思索を巡らすことで考えを深めることがほとんどである。本来であれば,他者とのやりとりで議論を膨らまし,認識を深めるのが理想的なのだが,相手がいない以上,文献資料を土台として,テーマを多角的に検討するしかない。

独りで議論を展開する場合,批判対象(仮想敵)を設定した方が思索を活性化しやすい。

他者の主張に同調してみるだけでなく,主張を批判的に捉え直すことで,見えなかったものが見えてくるかも知れない。そうやって考えを深めたりするのだが,これをやり過ぎるとこの本で言うところの「敵化」(enemyfying)をする心的傾向が強くなってしまう。敵化症候群だ。

筆者の言うことには,従来型コラボレーションでは窮屈であり,敵化症候群を生じさせやすい。そこで本書が提示するのが「ストレッチ・コラボレーション」である。「対立とつながりを受容すること」「進むべき道を実験すること」「ゲームに足を踏み入れること」の三つのストレッチを含んだものとされる。

決して目から鱗の方法というわけではなく,全てをコントロールしようと思わず,名前の通り柔軟に押し引きを当事者として継続しましょうという提案である。付かず離れずの距離感を構築・維持できれば光明がさすと言った感じだ。

やはり当事者の立ち位置にどうやって至るのかという問題は残る。その辺が読後感として物足りなかった。

プログラミング的思考と論理的思考

2018年11月6日に「小学校プログラミング教育の手引(第二版)」が公開されました。

学生向けの教員採用試験対策講座の担当が回ってきたこともあり,せっかくの機会なので小学校学習指導要領に記載されたプログラミング体験に関して,最新の「手引」を解説するかたちで知ってもらうことにしました。

小学校におけるプログラミング教育のねらい

①「プログラミング的思考」を育むこと
②プログラムの働きやよさ、情報社会がコンピュータ等の情報技術によって支えられていることなどに気付くことができるようにするとともに、コンピュータ等を上手に活用して身近な問題を解決したり、よりよい社会を築いたりしようとする態度を育むこと
③各教科等の内容を指導する中で実施する場合には、各教科等での学びをより確実なものとすること

これら「手引」に書かれたことをベースに,資質・能力の三つの柱について触れたり,「小学校段階のプログラミングに関する学習活動の分類」など,採用試験でも出てきそうな部分を概説しました。

学生たちには情報処理の時間でScratchに触れてもらったこともあったので,久し振りにScratchの画面を見せて,正三角形を描くプログラムを即興で組んで見せ,私の身体アクションも交えてグラフィカルな環境によるブロックプログラミングを思い出してもらったりもしました。

また,当ブログでは,いつもなら『「プログラミング的思考」なるもの』と距離を置いて批判的に扱っている「プログラミング的思考」という言葉も,さすがに採用試験対策の文脈では批判的に扱い過ぎても何らメリットがないので,程よい距離感で紹介しました。

さて,「プログラミング的思考」とは何か。

「学習指導要領」を初めてみる人には不思議に思えるかも知れませんが,「プログラミング的思考」という言葉は小学校学習指導要領そのものには記載されていません。

代わりに,「学習指導要領 解説」(総則編)の50-51頁(印刷版)にある情報活用能力の解説箇所で「プログラミング的思考」が初登場します。

それを解説する文章は85頁まで進むと出てきます。長いですが丸ごと引いてみます。

また,子供たちが将来どのような職業に就くとしても時代を越えて普遍的に求められる「プログラミング的思考」(自分が意図する一連の活動を実現するために,どのような動きの組合せが必要であり,一つ一つの動きに対応した記号を,どのように組み合わせたらいいのか,記号の組合せをどのように改善していけば,より意図した活動に近づくのか,といったことを論理的に考えていく力)を育むため,小学校においては,児童がプログラミングを体験しながら,コンピュータに意図した処理を行わせるために必要な論理的思考力を身に付けるための学習活動を計画的に実施することとしている。その際,小学校段階において学習活動としてプログラミングに取り組むねらいは,プログラミング言語を覚えたり,プログラミングの技能を習得したりといったことではなく,論理的思考力を育むとともに,プログラムの働きやよさ,情報社会がコンピュータをはじめとする情報技術によって支えられていることなどに気付き,身近な問題の解決に主体的に取り組む態度やコンピュータ等を上手に活用してよりよい社会を築いていこうとする態度などを育むこと,さらに,教科等で学ぶ知識及び技能等をより確実に身に付けさせることにある。したがって,教科等における学習上の必要性や学習内容と関連付けながら計画的かつ無理なく確実に実施されるものであることに留意する必要があることを踏まえ,小学校においては,教育課程全体を見渡し,プログラミングを実施する単元を位置付けていく学年や教科等を決定する必要がある。なお,小学校学習指導要領では,算数科,理科,総合的な学習の時間において,児童がプログラミングを体験しながら,論理的思考力を身に付けるための学習活動を取り上げる内容やその取扱いについて例示しているが(第2章第3節算数 第3の2(2)及び同第4節理科 第3の2(2),第5章総合的な学習の時間 第3の2(2)),例示以外の内容や教科等においても,プログラミングを学習活動として実施することが可能であり,プログラミングに取り組むねらいを踏まえつつ,学校の教育目標や児童の実情等に応じて工夫して取り入れていくことが求められる。
また,こうした学習活動を実施するに当たっては,地域や民間等と連携し,それらの教育資源を効果的に活用していくことも重要である。

めまいがしそうな文章ですが,この解説文を解説するのが「小学校プログラミング教育の手引」ということになります。

その手引によれば「プログラミング的思考」とは,コンピュータに意図した処理を行なわせるために必要な「論理的思考力」と概説され,学習の基盤となる資質・能力のひとつ「情報活用能力」に含まれるものだとも書かれています。

プログラミング的思考とは,情報活用能力に含まれるプログラミングに関わる論理的思考力である。

これが圧縮した定義となりそうです。

面接試験時に「プログラミング的思考が論理的思考力であるなら,ただの論理的思考と何が違うのでしょうか?」と問われたら,なんと答えればよいでしょう?

第一の相違点は,論理的思考が対象を限定していないとすれば,プログラミング的思考はコンピュータに関わる領域に対象を限定している点です。

ただし,この指摘に賛同しない立場もあります。プログラミング的思考は汎用性のある思考法であると主張する人もいます。ちなみにComputational ThinkingについてWing氏の論稿で「すべての人にとっての基本的な技能」と紹介しているので,これをプログラミング的思考と混同しようとする流れもあるようです。

第二の相違点は,「思考過程」と「結論/結果」(意図する一連の活動)の位置付けです。

論理的思考が根拠等の要素の関係を注意深く結びつけることによって結論を導き出すもの(思考過程が静的で結論が動的)であるのに対し,プログラミング的思考は精緻に設定された結果を達成するために必要な要素を選択して結びつけるもの(思考過程が動的で結果が静的)と位置づけることが出来ます。

ただし,論理的思考は,意図した結論に適合する思考過程を生成することも包含し得ます。一方,プログラミング的思考は,意図した結果の方を変える場面もあり得ますが,今回の「解説」や「手引」の範囲では意図の変更までは想定していないようです。

ここでは以上の2点をプログラミング的思考と論理的思考の違いとして述べるに留めたいと思います。

ただ,プログラミング的思考が「意図した一連の活動」そのものを考え直す契機を含んだものとして語られていないというのは,非常に興味深い論点になると思います。

そもそも「論理的思考」に関して,学習指導要領上で「算数,数学科」の数量的思考の中で触れられてきた流れや,「国語科」での論理的思考力を養う話題・教材の選定や論理的理解に配慮した表現力,論理的な見方・考え方をする態度育成という記載の流転を鑑みても,それが何なのかをはっきり明示できているとはいえません。

おそらく戦後の学習指導要領の大テーマである「問題解決学習」と併せて考えなければならないのだろうとは思います。

問題解決に際して,帰納的思考を展開するのか,演繹的思考を展開するのか。そういう観点からプログラミング的思考と論理的思考を位置づけて論じることも出来るかも知れません。

またプログラミング的思考を,Computational Thinking(コンピュテーショナル思考)との違いで考えてみたり,クリティカル思考やシステム思考,デザイン思考といったものと比較検討することも面白いかも知れません。

これから教員採用試験を受験しようとする皆さんは,正解を追い求めるだけでなく,こうした曖昧とした用語同士の関係性を自分なりに描いてみる訓練も大事になると思います。

20181116_Fri

来客対応と授業と対策講座。

午前は来客対応。学生指導の難しさを痛感しながら。

午後は研究室で,卒業研究指導と金曜日なので専門ゼミナールを。やはり学生指導の難しさを痛感しながら。

専門ゼミで文献講読。

しかし,発表担当だった学生が準備不足を理由に発表できないと直前に連絡。

2週間以上前から予定は共有していたので,発表当日までの期間には十分余裕があったはずだった。とはいえ,発表準備する余裕がなかったのだと言われれば,何かしらの理由でそういう事態も起こりえるかも知れない。百歩譲って「代わりに何をするのか考えておいてください」と返した。

いざゼミが始まり,本日の発表担当学生に進行を振った。

学生は,とある動画をみんなで観て話し合いたいと切り出した。何かしら日頃の問題意識をもとに議論したいらしい。まずは動画を観てみることになった。

男性が独り語りする30〜40分くらいの動画だった。語りのテンションが高く,観るだけで疲れた。

しばらく発表担当学生の問いに寄り添いながらゼミ生同士で意見を披露し合った。それが一巡した後,他の人の意見を受けて質問者本人がどう思ったのかを聞いてみても,あまりはっきりとした受け答えになっていなかった。動画の独り語りに感化されたような意見は述べるのだけれども,異なる意見が対峙するとすぐに立ち止まってしまった。

「動画を観た感想が聞きたい」となった。最初の質問なら発せられても違和感はないが,困った末に逃げ込んだ質問がこれではいただけない。

結局,本来やるべき発表準備をしなかったことで,それを無理やり埋め合わせようとしても無理が生ずるし,全体の進度が遅れて他人に迷惑をかけることになるのだ。もちろん,埋め合わせが上手くいくこともあるだろうから,そうなれば怪我の功名として喜んでも良かったとは思う。でも今回は駄目だった。

発表準備をしなかったことを叱った。あとは,本人がやるかやらないかを選び直すだけ。

・正しいことが出来るように気づき考えて欲しい

・人に寄り添って欲しい

・異なること,特に反対のことについても考えて欲しい

この場合,自分が正しいと思うことをやっていたとしても,人に寄り添えていなかったし,自分とは異なる考えについて気を配ることが出来ていなかった。

今回上手くいかなかったとしても,次回上手くいくように立て直せばいいと思う。