20190203_Sun インターネットラジオ開局準備

インターネットラジオ配信局を準備中。

日本教育メディア学会年次大会を11月2日, 3日に徳島文理大学で開催するが、その便乗企画としてインターネットラジオ配信を使った学会情報の発信をしようと考えたためである。

ネットを使った情報発信なら、動画配信サイトに学会チャンネルをつくるという方法がある。たとえば情報処理学会がニコニコ動画サイトにチャンネルを持っているのは一例だ。動画配信自体の敷居もかなり下がっていて,難しいことはない。

ただし,見せる動画配信をつくるのは難しい。

区切られた画面とはいえ,写り込むものをコントロールしデザインするのは,技能やセンスを必要とする。ある種の勢いで乗り越えるとしても,持続可能とは言い難い。

そこで,視覚要素を取っ払ったところから挑戦できる音声メディアに注目した次第である。

音響だけだから,気にすべき要素が少なく始めやすい。視覚的に変なものが写り込むという心配事がなくなるだけでも,素人には安心感もある。

もちろん一方で,コンテンツを音や声だけで成立させなければならないという難しさもある。場合によっては,動画の方が見た目で手っ取早くコンテンツを成立させられる点で優位かも知れない。

動画と音響のどちらにもメリット・デメリットや難しさがある中で,あらためて「ラジオ」というメディアの存在に思いを馳せて,それをインターネットラジオとして挑戦してみようと思ったのである。

詳細は随時ご報告する。技術的な見通しは立っているので,いろいろ検証しているところである。

20190201_Fri 近江八幡市へ出張

滋賀県の近江八幡市へ。

ICT教育推進リーダー部会が開催されるので助言者として参加した。新年度から稼働する新しいICT環境・校務システムに関して慌ただしく準備が進む。

近江八幡市とのご縁は、文部科学省のICT教育アドバイザー事業にアドバイザーとして所属していたとき,担当を受け持ったことに始まる。その際、あまりに教育委員会事務の皆さんと意気投合したので、ほとんど駆け落ちみたいに国のアドバイザーを辞めて、近江八幡市に通い続けることになった。

あれから4年ほど過ぎて、この春から新しいICT環境が動き出す。

やけに時間がかかったと端からは見えるかも知れない。まぁアドバイザーに入った私に助言能力が無いからでは?という推察を,否定はしない。でも私からすると,近江八幡市の皆さんがより良い環境整備のために誠実・慎重に物事を見極めながら事を進め,また、そうした真剣な取り組みと並行して起こる地方政治の諸事情に向いながら、その結果として、ある意味かかるべくしてかかった時間だと思っている。

新年度からは校務と授業で利用できるシステムが整備され、児童生徒の部分はそれ以降の計画となった。一緒にできなかったのは残念な部分であるけれど、順番は悪くない。

その日は、年度末の慌ただしさの中で、各校のリーダー先生達によって、現在の学校サーバー内のデータを来年度の新環境でどう扱うのかが話し合われた。私は整備される環境の特徴をうまく使いこなして環境のお引っ越しを成功させて欲しいとお話しした。

それにしても校務システムのようなものを導入する際、「これから買って使い始めようとするものがどういうものなのかわからない」買い物が常態化しているのはいかがなものか。

展示会などに行ったり、お願いすると、デモが実演されて動作している様子を見ることができるが、あとから細かいところを知りたくなっても、その要望に応える情報提供の努力があまりに足りない。整備し終わっていざ使い始めて蓋を開けないと、実際の使い勝手が分からない、そんな理不尽な買い物が全国各地で当たり前に展開している。

本当は、そういう変な習慣こそ正すようなアドバイザー活動をすべきなのだが、そういうことを考える人間は相手にされなくなるので、気をつけたい。あなたが国のお仕事を担いたいと思うなら特に。

近江八幡市とのお仕事も今年度はこれでお終い。

来年度、お邪魔するかどうかは分からない。また、ご縁があれば呼ばれるし、そうでなければ心の片隅でエールを送るだけである。

この4年間、滋賀通いは楽しかった。

20190112_Sat 真夜中の映画

午後から出勤。

卒業論文の執筆のために4年生も来研したり,研究室では皆がいつものように文献と端末に向かって過ごしていた。

連休初日ということもあり,私自身は夜も居残りをして,研究室のテレビで映画と放送番組を観て過ごすことになった。

観ていた映画は「Mommy」であった。

3年生が卒業論文の題材の一つとして考えたいということだったので,私も紹介されるがまま観賞することにした。

映画紹介文に,架空のカナダでとある法案が可決され,この法律で運命を大きく左右される登場人物…という架空の物語設定がある。確かにそういうシチュエーション前提の物語なのだが,その設定自体はあまり気にせず忘れて,ドラマに見入る方がよかったかもしれない。

内容を乱暴に紹介すれば,発達障がいをもつ息子とその母親との物語である。母子の愛情と苦悩と周りの人々との関わりを描いている。画角とそれに合わせた構成に興味深さも感じられる作品だ。登場人物の印象は最初はビックリするが,温かく見守りながら観賞してもいいのではないかと思う。

紹介してくれた学生が,この映画のどんなところを掴まえて考えたいのか,観終わってあれこれ考えていた。というか,どこまで腹を割って問題意識を語ってもらえるだろうか。そちらの方が不安になってきた。真剣に考えるに値する題材とは思うので,他にも選びたい映画や素材と併せて,せっかくなら深く取り組んでもらいたいなと思う。

20190101_Tue テクノロジーのための思索を

新しい年となりました。

4月30日の天皇陛下譲位と翌日の改元によって,平成という時代が区切りを迎えます。1985年がコンピュータ教育元年であるとする教育と情報の歴史にとっては,平成という時代にほとんどの出来事が展開して今に至っているわけです。

昭和時代は,技術開発や製品・サービス化等の敷居は必ずしも低くありませんでした。それが平成時代は,技術開発と製品・サービス化の敷居が徐々に低くなり,両者を行き交うサイクルも加速したと考えられます。

それが高度化して第四次産業革命であるとか,それを内包する社会をソサエティ5.0(超スマート社会)とでも呼称して,よりスマートに展開する社会の将来像を描いているのはご存知の通りです。我が国の「科学技術基本計画」はその基本文書と言えます。

2017〜2018年に「EdTech」というキーワードで教育分野を対象としてイノベーションを持ち込もうとする動きが話題になったのは,この流れの一環です。

技術開発によってもたらされる可能性を,いち早く製品・サービス化することによって持ち込み,教育や学習の分野に変革をもたらしたいという衝動は理解できます。なぜなら,教育や学習の領域には変革を必要と感じさせるほど課題が山積しているからです。

そのような衝動を是としつつも,ハイパースマートなテクノロジー駆動型の教育・学習活動を支える理念的・哲学的な知見をもっと醸成する必要性があることも私たちは同時に認識していかなければならないと考えます。

ある種の可能性が実現すると,私たちの選択の幅は広がるように思われますが,実のところ選択の幅が狭まってしまう事態をも招き得ます。

特に,選択の幅の維持がコスト負担を強いると考えられる場合などは,コスト軽減を理由に選択の幅が捨てられてしまうのは容易に想像がつきます。

たとえば技術的可能性が教育や学習に変革をもたらすという場合,懸念されることは,そうした技術的方法が低コストを一つの特質として社会的課題の解決に導入されようとすることです。課題解決にとってプラスであることは明白ですが,裏返せば教育や学習にコストをかけることへのインセンティブが薄まっていくことになり,そのような事態が私たちが望むものかは,全く別の話であると言えます。

よって,EdTech等の動向を尊重しつつも,ある程度の距離感を保ったところで,私たちは何を目指すべきなのかという議論を歴史的な視野と日本に住む人間としてのあり方を踏まえて展開しなければならないと思います。

今年もいろいろ思索を深められれば。