20181231_Mon 大晦日

というわけで2018年も最終日。

徳島文理大学の林向達です。この一年ご無沙汰したままの皆様もいらっしゃると思います。直接ご挨拶できず申し訳ありません。

今年も淡々と過ごした一年でした。

相変わらず思索をしながら教育と情報の世界を眺めつつ,職場では担当授業と業務との往復を繰り返していた感じです。華やかさには欠けますが,分相応かと。

りん研究室は,専門ゼミナールに所属する3年生(4名)と卒業研究に取り組む4年生(4名)という体制になった年でした。こういう風にカチッと学生たちが揃ったのは今年が初めてだったので(意外ですが…),その運営や学生支援に関しても試行錯誤な年でした。うちは各学生の関心がバラバラなので,カバーすべき範囲が幅広くなるといった事情もあります。

ああ,『情報時代の学校をデザインする』(北大路書房)は今年の2月発売でした。まだまだ絶賛発売中です。Society 5.0とかEdTechとか語りたい人にはお薦め文献です。

というわけで,今年も一年お世話になりました。

来年は,学会大会の会場をお引き受けすることにもなったので,今年とはまた違った形で活動を展開したいと考えています。

20181230_Sun

久し振りに姪っ子,甥っ子とご対面。

甥っ子は3歳になった。保育科目で子供達の成長発達過程について学んでいるときにも,学生たちが自分の周囲にいる子供達の実際の様子を思い出しながら授業内容を理解する場面があったりするが,私自身も家族や身内の子供達と接するたびに,子供達の成長の速さやら凄さを実感して知識を再確認する。

仮説形成(アブダクション)について考えを巡らせていると,「仮説実験授業」というものがあったけれど,あれは関係するのか?といった素朴な問いにも触れる。

板倉聖宣氏による仮説実験授業は,そもそも科学教育の文脈で提案された考え方で,従来までの理科教育における実験が学習者による予想やら仮説を持たせた上で行なわれてきたわけではなく,どちらかといえば実験はショウのような位置付けでしかなかったことへの反省として出されたものである。

仮説実験授業を雑に紹介すべきではないのだが,流れとしては,予め用意された「授業書」と呼ばれる授業展開指導書のようなものに基づき,問題といくつかの仮説を示していき,学習者にはそれら仮説に基づいた予想や討論を展開させ,実験によって確かめるという一連の活動を通して科学的認識を深めさせるというものである。

仮説実験授業とアブダクションの関係を考えると,同じ「仮説」という語をまとっていてもその力点は異なっている。仮説実験授業には学習者の予想や討論を引き出すのにふさわしい複数の仮説が用意されており,その仮説の確からしさを熟考させ,検証させるという狙いがある。一方のアブダクションにおいては,確からしさを伴った仮説の形成が狙いであり,その確からしさを高めるという意味合いにおいては検証の過程も重視されている。

両者が異なる力点を持っているということは,これらを連携させて考える余地を感じさせる。プログラミング体験の考え方において仮説実験授業の考え方は参考にできる部分もあり得るだろう。もっとも板倉氏による仮説実験授業の特徴でもある「授業書」の試みに関しては具体的な方法論として受容するかどうか判断が分かれるだろうけれども。

たとえば「仮説形成授業」なんてキーワードで検索するだけでも(そのような語が使われているわけではないが),すでにアブダクションに注目した科学教育の試みについての研究成果はいくつか入手できる。こうしたものがプログラミング教育でも参考になる。

来年は,こうした議論が賑やかになるだろう。

ユニバーサルデザインとICT

やたなか小中一貫校にて講話。

ユニバーサルデザインとICTに関するお話をしました。

ユニバーサルデザインのそもそもと,それを教育領域に応用する先が「授業」なのか「学習」なのかによって方向性がかなり異なることを紹介しました。(詳細はまた後日追記を)

「教育クラウド活用と今後の展望」

岡山県教育センター主催のタブレット端末の授業活用研修講座に招かれました。公開授業の参観と講演を依頼された形です。

今回は教育センターにとって出張(サテライト)研修という扱いになるようで,岡山県立林野高等学校を会場として借りての開催でした。場所は岡山県美作市(みまさか市)。岡山三名湯のひとつ「湯郷温泉」があるところです。

岡山県立林野高等学校は,生徒数379名,教職員数64名という規模の普通科高校ですが,2年次生以降は「特進〈Ⅰ〉」「特進〈Ⅱ〉」「特進〈Ⅲ〉」「スポーツ探究」「地域創造」という5類型から選択して学びを深めていく特色を持っています。平成29年度後半には,生徒各自がChromebookを所有した上でアクティブ・ラーニングに取り組んでいて,タブレット端末研修にはうってつけの会場というわけです。

今回の研修対象は小中高・中等教育学校・特別支援学校の先生方。実際には中学校の先生方の参加が多かったそうです。先進的な取り組みの概要を聞いたり,実際にタブレット端末(Chromebook)操作体験し,活用している授業を参観しながら理解を深め,最後に私の話を聞くという構成でした。

お題の「教育クラウド活用と今後の展望」で話したこと。

徳島からやって来たので,徳島のことをお話することにしました。上勝町の「葉っぱビジネス」でタブレットを活用するおばあちゃんたちの話。神山町の「サテライトオフィス」でブロードバンド回線を利用した遠隔業務をしている人々の話。Society 5.0とか言われる前から行なわれていた取り組みの方が,わりと話としては伝わりやすいように思いました。

そして定番として,クラウド活用に至るまでの技術進歩の歴史をお話しながら,その特徴を1人マルチアカウント時代だとご紹介するあたりも,いろんなサービスやアプリの利用に伴って登録している情報を考えてもらうことで理解していただけたのではないかと思います。

デバイスの活用がすべてではないという観点で,最近あちこちで話題になる「タキソノミー」についても触れました。タキソノミーそのものというよりも,たとえばマーク・プレンスキー『ディジタルネイティヴのための近未来教室』(共立出版)で触れられている「動詞スキル」と「名詞ツール」といった考え方に表れた,(行動)目標を分解して動詞的に理解する捉え方について紹介しました。

あとは,実際に私自身がG Suite for Educationでどのようなどのような活用をしているかをご紹介してました。たとえば完全にクラウドで何でもやるというよりも,一歩手前のアナログ的な活用との組み合わせについてご紹介。たとえばスマホのカメラや書類スキャナーを使って,紙のワークシートも利用しながら情報をデジタル化する方法などです。

最近,サービスがリニューアルされた「Plickers」も実際にコードを配布して体験してもらいながらご紹介しました。児童生徒の1人1台環境がすぐに構築されないとしても,先生側のツール活用次第で面白いこともできるということをご紹介するためです。やってみたくなればしめたもの。

最後は「わかる」とは分かっているもの動詞が結びつくことであるという話と,さらに様々なものがデジタル化されていくことをご紹介しながら,まだまだこれからたくさんの失敗や試行錯誤を繰り返して,情報時代.デジタル時代の学校教育を積み上げていかなくてはなりませんねと締めました。

日本教育工学会3日目

日本教育工学会3日目(最終日)でした。

一般研究発表(口頭発表)とSIGセッションが予定されていたので,関心の持てるところにお邪魔して,プログラミング教育に関わる発表もあったので聞いていたりしました。

それで,またかと思われるかも知れませんが「プログラミング的思考」なる言葉にまつわって考えたことがあるので書いておきます。

まずは毎度の説明を。

ご承知の通り,2020年に本格実施となる小学校学習指導要領からプログラミング体験が求められるようになりました。端的にはIT人材育成を見据えた政府の方針に刺激されて実現した教育項目です。

しかし,教科ではないので,同時期に生まれた「外国語」のように独立した授業時間を設けられたわけではありません。小学校学習指導要領の目次にはプログラミングとも情報とも書かれた章題はないのです。

そのため必然的に,既存の教科の中に溶け込ませてプログラミングを体験させるという取り組みになります。溶け込ませる教科における指導例として算数や理科,総合的な学習の時間が示されていますが,それら教科に限定されているわけではありません。

捉え難いプログラミング体験を,理解してもらえるよう教員向けに解説し,学習活動の分類を提示しているのが『小学校プログラミング教育の手引(第一版)』です。

既存教科の中に溶け込ませながら展開するプログラミング体験の意義が,溶けて消されないように掲げられたのが「プログラミング的思考」なる言葉といえます。

手引において,プログラミング教育のねらいを「『プログラミング的思考』を育む」と表記していることもあって,この表記を引用する言説が流布しています。

「プログラミング的思考」なる言葉が,官製用語として,施策浸透を促進する目的に用いられる分には,目くじらを立てることはないかも知れません。

しかし,それを学術の文脈上で吟味するため俎上に載せる場合は,行政・公的文書類の言うままに受容するわけにはいきません。少なくとも,どのような背景で生み出され用いられ始めたのかを確かめなければならない。

少なくとも私が調べた範囲で,プログラミング的思考なる言葉が「いわゆる「コンピュテーショナル・シンキング」の考え方を踏まえつつ、プログラミングと論理的思考との関係を整理しながら提言された定義」と注釈された説明を事実とするものであると納得できる資料は開示されてはいません。

「プログラミング的思考」なる言葉は正体不明のまま,プログラミング教育導入の状況にあてはめられながら外形的に定義が与えられている可能性があるのです。

学術の文脈で用いるのであれば,こうした可能性があることを踏まえて,かなり丁寧な操作のもとで定義なりする必要があります。

けれども,今回の学会発表で「プログラミング的思考」なる言葉を用いている発表のほとんどが,行政・公的文書類の記述をそのまま引用し,その定義や説明を所与のものとして扱っていました。

もちろん行政・公的文書類の内容を前提に研究を展開することは可能であるし,そうすることが間違いであるとはいえません。どの前提を採用するかは個々の研究者の判断であるし,それが方法的に深刻な問題を引き起こさないならば,一つの研究や主張として成り立ちます。

ただ,方法的に不十分な点があれば,それは問題を引き起こしますし,問題を抱えたまま屋上屋を重ねてしまうと,あとで取り返しがつかなくなってしまい,結果や考察が歪められてしまう原因にもなります。

繰り返しますが,プログラミング体験等の取り組みを推進したり,普及させようとするような文脈で「プログラミング的思考」なる言葉を用いる分には,その言葉が厳密にどんな言葉であるかは,大した問題ではありません。個々人が腑に落ちる形で理解していく余地を残すことも大事かも知れないからです。

しかし,学術研究の文脈で用いるのであれば,細心の注意を払って扱う覚悟が必要です。異なる文脈が交差していることを理由に扱い分けを怠ってしまうと,ご本人たちにとっては問題がなくとも,学術的知見の共有という段になったときに,他の参照者が困るかもしれないのです。

最近,上野千鶴子さんが『情報生産者になる』(ちくま新書)という分厚い新書を出しました。前半部分で学問を「知の共有材」と表現されているところがあります。どのような仮説を立てようとも,それが検証可能であることが求められ,他者が納得できるように提示されて初めて共有できるのです。操作的定義だからって,どんな操作をして定義したのか明示しないと,それは自分の都合のいいように操作しただけじゃないのかと勘ぐられても文句は言えません。

もうちょっとそういうことに配慮して欲しいなと思いながら研究発表を聞いていた,日本教育工学会最終日でした。

もっとも私自身もreview essay程度の研究作業しかできてないことを反省しつつ,それでもそれらを積み上げて形にする方向で精進しなければならないなと感じている日々です。