形成され、開発され、評価され、修正される場

「国の予算ってどういう流れでつくられるか知っていますか?」

講義のネタとして、池上彰氏がテレビで使っていた解説ネタをずっと拝借しています。

国の予算スケジュールの説明に「学校3学期制」を先行オーガナイザーとして利用する…というネタです。

1学期(4〜7月)に次年度の予算を構想し、夏休み(8月)に概算要求としてまとめ、2学期(9月〜12月)の間で財務省と折衝して、冬休み前(12月下旬)に予算案をまとめ、3学期(1〜3月)に予算成立を目指す…というのが国の予算のスケジュールだという解説です。

そんなわけで、今年も次年度(令和6年度)の概算要求が公表されました。

科学技術関係はちょっと置いておくとして、文教関係予算だけだと4兆3,759億円と金額未定の事項要求を上乗せして要求される予定です。

この要求を組み上げるため1学期中にいろんな動きが展開していたわけで、たとえば毎年示される「骨太方針」と呼ばれるものに予算組み入れ根拠となる文言を書く書かないといったせめぎ合いもその一つです。実際には、そのずっと前からの働きかけの結果次第ではありますが。

一方で、個々の施策などが報道されると、どこか違和感や”これ違う”感が表明されることも珍しくありません。もっと根本的なところを変えて欲しいと考えられている論点においては特に批判的な意見は出やすいです。

たとえば教員の働き方の問題は、学校教育法等で規定されている学校の枠組みそのものが現代的な学校を構成するのに相応しいものとは言えなくなっているにも関わらず、そこを変えていくための議論も手段も乏しいために、現行枠組みに継ぎはぎパッチを施す程度の妥協策しか策定できないジレンマの中で展開しています。

この先、一体どこの誰が「学校教育法 ver2.0」への改正に腰を上げるのか。その実現は、こまめなアップデートの集積で可能なバージョンアップなのか、あいはフルモデルチェンジをほどこすプロジェクトを別途立ち上げて議論すべきなのか。そのことすら、誰もコンセンサスをつくってはいないと思います。

あるいは今後、日本の公教育が管理委託制度や指定管理者制度のような制度を導入して、教員は教育団体や事業者のもとでちゃんとした福利厚生や研修・研究環境を確保することを条件にするような時代が来るとしたら、いま私たちが備えなければならないことは何なのか。

もっとそういう荒唐無稽な話も含めて議論を展開する場も確保しておかなくてはならないと思います。国の審議会みたいなところが議論の場では無い以上、他の場で何かしらオーソライズされた形で展開されていなければならないのですが、催事系は多いものの閉じたものが多く、学会や研究会といったものも波及効果がなかなか高まっていないということは大きな課題だと思います。

概算要求が固まったところで、再び審議会や有識者会議などが動き始めています。

次期学習指導要領の方向性を議論する「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」も第7回(20230901)が開催され、委員同士の発表と質疑のフェーズに入っています。

学習指導要領の方向性自体は平成29,30年改訂もよかったけれども、それが学校現場に行き届いていないのではないかという問題の方が大きいということが委員間の共通理解といったところ。

それについて、学習指導要領自体もより分かりやすくなるべきだし、伝え方にもさらなる改善が必要だし、何よりも教員の働き方改革なくしては受け取ろうにも受け取れないという課題など、学習指導要領と学校との距離や関係性をどのようなアプローチで変えていくのかが、現時点の主題のようです。

この問題に関係する、記述された教育課程と教育実践の関係性に関する議論は、私のもともとの専門でした。

いま思い出して検索したみたら没にした論文「媒介的カリキュラム観と非線形記述様式の考察」というものが出てきました。いまの未熟さに輪をかけたように浅はかな論旨ですが、教育課程自体はもっと共有されるようになるにはどうしたらよいのかを考える問題意識は今も通ずるのかなとは思います。

私自身はこうした思索の末に情報の分野に近寄り、教育工学といった世界に迷い込んで、いまは教育と情報の領域を眺める市井の人という立ち位置へ移行中。今年度最後の記念に学校DX戦略アドバイザー(旧ICT活用教育アドバイザー)は拝命しましたが、名前だけの活動実績はゼロなので、かなり部外者です。

そういう部外者や一般の人々にとっては、文部科学省での議論はほとんど届いていません。

エコーチェンバーの内側にいる人々には、そういう届かなさが信じられないか、知ろうとしていないだけでは?と疑ったりするしかできないと思います。そこが厄介なところでもあります。

「形成され、開発され、評価され、修正されていく場」にもっと多くの人々を誘う努力をしなければならないというのが没論文のモチーフだったと思いますが、それが可能な内側に人々がその問題意識のもとで大胆に動いてもらうことが難しい…というところだと思います。

長い帰省をしていました。そろそろ職場復帰して、研究室を撤収します。

夏の集中講義

毎夏は愛知県で「カリキュラム論」の集中講義を担当させてもらっている。

免許法(教職課程コアカリキュラム)での位置付けとしては「教育課程の意義及び編成の方法(カリキュラム・マネジメントを含む。)」に相当する科目になる。

皆さんもそうかも知れないが、学生達もほとんどが最初は「カリキュラム論って何?」状態だ。

カリキュラム・マネジメントも、文部科学省的な説明だと「「社会に開かれた教育課程」の理念の実現に向けて、学校教育に関わる様々な取組を、教育課程を中心に据えながら、組織的かつ計画的に実施し、教育活動の質の向上につなげていくこと」とされているけれども、マジックワード的な扱われ方をされているのはよく知られたことである。

というわけで、今年は「カリキュラム論は総合格闘技みたいなもの」という説明に落ち着いて、ここまで学んできた学校教育に関わる知識を総動員して授業づくりをしていくっていう恒例の展開に相成った。

コロナ禍は完全な遠隔講義のときもあった。昨年から対面と配信の両対応。

Webカメラとマイクを用意してノートパソコンからYouTube限定配信を行なった。

学習指導案と評価規準表の作成を主課題として、その作業に必要な知見を縦横無尽に振り返っていく4日間の集中講義である。

今年は生成AIの話題も追加された形だが、そうでなくても盛りだくさんな内容をジェットコースターのごとく駆け抜けていった。さすがに4日目になると受講生達にも疲労が見えるが、今年もみんなで走りきった。

今年の受講生は元気でユニークな人達も多かった。いくつか続く集中講義を楽しく過ごすためか、隣りの教室に食材や調理器具を持ち込んで仲間内で料理が振る舞われたり、期間中にカラオケを徹夜で興じて講義に出席する強者もいた。最終日には私も鍋をご馳走になった。初めてのことだ。

とにかく、今年も夏の集中講義が終わった。来年はどうなるかな。

コミック雑誌なんかいらない

大宅壮一文庫に初めて訪問した。

その存在は学生時代から耳にしていたように思う。東京のマスコミの人は、何か情報を得たいときに、そこで雑誌を検索して情報収集するのだと、どこかで知った。

地方の人間には遥か縁のない場所の一つだと刷り込んだまま、東京に出入りするようになってからも、その場所に足を運ぶことがなかった。

ところが先日(2023年7月18日)、大宅壮一文庫の雑誌検索システムが巨費を投じてリニューアルされたとニュースが流れてきた。

ちょうど東京滞在が控えていたので、この機会に大宅壮一文庫に訪れてみようと思った。

かつての神秘的な受け止めも、Webサイトの情報発信やYouTubeで利用方法のレクチャー動画が用意されているおかげもあって、実際に利用できる場所なのだという確信になった。

コンピュータと教育に関する雑誌の記事があるかどうかをラフに調べに行くことにした。


建物などの雰囲気は開放的な街の小さな文化会館か、開業医の病院か。

入館して、まずはトイレで手洗いをするというルールさえ知っておけば、あとは大変親切に案内もしてくれるので怖れることはない。

私は動画で予習したつもりだったが、女性の利用者想定の動画だったから、女性トイレに突進していたことを現地で気がついた。男性トイレは入口すぐ右手だ。

国立国会図書館を利用した経験があれば、雑誌専門図書館である大宅壮一文庫も、ほぼ似たような段取りで閉架図書を借りて閲覧及び複写願ができる。

私設図書館ということもあり、入館料や閲覧冊数の制限と追加料金、複写料金など、特有の設定である。

とはいえ、入館料ワンコイン500円で好きなだけ大宅壮一文庫の貴重な雑誌検索システム「Web OYA-bunko」を利用できる。(個人契約するにはな高額なサービスなのは仕方ない)

「コンピュータ 教育」というキーワードで検索をして、500件弱の検索結果が出てきた。

入館料の範囲で15冊までは閲覧させてもらえる(追加100円毎にプラス10冊)。

週刊朝日や朝日ジャーナル、週刊ポストなど、いわゆる大衆誌に掲載されていた記事をピックアップして、当時の世間一般に「コンピュータ 教育」の話題がどのように報道されていたのか知るため閲覧した。

閲覧申請と受け取りは2階。そこで、表紙がラミネート加工された過去の雑誌たちを受け取り閲覧する。

閲覧しながら複写したいものをチョイスして、返却と同時に複写をお願いする。複写は1階で受け取り支払い。

もちろん何度も往復してよい。支払いは一番最後まで待ってくれる。

検索で一番古い記事としてヒットしたのは昭和44年の週刊朝日に掲載された「NHK『コンピューター講座』を買った70万人」という世相記事。伝説のNHK講座番組「コンピューター講座」のテキストがサラリーマン達にバカ売れして一か月あまりで70万冊に達したという話題であった。

半世紀を経て、ChatGPT特集を買うビジネスマン諸氏の姿をみるにつけ、歴史は繰り返すというか、私たちの行動枠組みがほとんど変化していないことを再確認できる。

そして、コンピュータと教育にかかわる大衆誌の記事のリストを眺めていると、この分野がことごとく理解を得るための情報発信に成功していないことを痛感するのであった。

確かに大衆誌には大衆誌の解釈枠組みや編集枠組みがあって、そっちが変わりようがないので、いつまで経ってもすれ違いの扱われ方しかしないのかも知れない。最近はWeb媒体で異なる展開もあるので、かってに比べればだいぶまともな取材とまともな情報の発信も増えてはいるけれども、それが大衆誌のカバーしていた世間というものと同一範囲で届いているのかは検討の余地がある。

ある程度にプロパーな人がいる場所には届けられていても、魑魅魍魎とした大衆誌の周辺の世間には、実のところ全然届けられていないのではないかと思ったりもする。

ようするにこの頃は、新聞社にも雑誌社にも、ある程度に教育が分かるような人が居るようになったので、教育記事が少しまともに扱われるようになったが、そうでないところは相変わらずダメということなのだろう。

とはいえ、そんな憂いをしていても、印刷雑誌という媒体はどんどんと失われていく流れにあり、大衆誌というジャンルでカバーするような読者集団というものの存在自体が雲散霧消しつつあるのでどうしようもない。

印刷書籍を呪う小説が話題になっているご時世だ。

東京の片隅に行かないと閲覧するのが難しい状況を神格的に扱って喜びを見いだしたところで、後の世代にとっては大きな迷惑でしかないのかも知れない。まぁ、時代時代の違いとは思う。

誰かの何かで済むとき済まないとき

とある教職教科書の執筆にお呼ばれをして、プログラミング教育に関する部分を書きました。

依頼を受けたのは1年以上前でしたが、それ以来、何を取り上げてどう書けば良いだろうか、という宿題が頭の中でずっと渦巻き続け、先日やっと提出し終えたところです。

苦労しました。今年に入って生成系AIの騒がれ振りを目の当たりにしたことで、一旦提出した原稿のアップデートを願い出たりもしました。編者の方にも賛同いただき見直し書き直し。

紙数の制約上、いろんな基礎的情報を端折り(たとえば特定のプログラミング言語の言及が皆無)、一方で、撲滅したかった「プログラミング的思考」という表記を幾度か出すという苦渋の選択もありました。もともと執筆依頼のキーワードだったことや文部科学省文書を扱わざるを得ない手前、仕方なし。

それでも、ずっと海外のプログラミング教育やCS教育の文献資料を漁る中で拾った知見に触れたりして、諸外国のプログラミング教育、コンピュータサイエンス(CS)教育と通じ合うための要素も少しは盛り込むことができたのではないかと思います。

もっとも「プログラミング教育」という窮屈な枠組みはオワコンだという雰囲気もありますが。

これまで、日本のプログラミング教育の言説は、ほとんどが国の審議や報告書、行政文書の中で紡がれた文言が発祥のものばかりでした。

確かに日本の学校教育はそうしたものに大きく規定されながら運営されているので、それらを無視するわけにはいかないのですが、教職教科書といえども、それを語るときの距離感や姿勢には注意を払わなければなりません。他者の言説を無批判になぞるのは望ましくありません。

今回の原稿は、執筆コンセプトに学習科学や教育工学的な観点が求められていたので、国発信の「手引」の二番煎じをしても意味はなく、その次のステップの糸口を提供できる内容を模索しなければなりませんでした。

その試みが成功したのかどうかは、世に出たときに読んで判断していただければと思います。

今回、かなり執筆の時間的猶予を与えていただいたにも関わらず、やはり土壇場まで悩み続けていたことを振り返るにつけ、自分は、すでに誰かが語ったことをどう扱うかについての葛藤を解決するのが上手くないのだなと思い知らされます。

どんなに自らの言葉や考えに昇華したとしても、それを開陳する時点で真似や伝言ゲームをしているだけじゃないかと思えてしまい、ならば原典に当たってもらった方がマシなんじゃないかと思ってしまうからです。

その辺を妥協して、自分なりの言及を付すことで意味ある形に落とし込めればラッキーだし、上手くいかなかったら所詮は横を縦にするコピペ職人なんだろうなと気持ち凹んで過ごすというわけです。

これはつまり、そろそろ私自身の知の貯蓄も尽きてきたといったところかも知れません。

理不尽な状況にほとんどの人々が冷めた状態で接することを余儀なくされて、力なく願いだけが積み重ねられていく様子を見せられると、思いを語る意義さえ見失われます。あるいは躊躇われてしまう。

社会全体でこういう無気力の学習が展開していて、あとはオーソライズされた言葉を違和感なく組み合わせていくだけで何かをまとめた気分になるだけ。そこに人を魅了する熱意や欲望みたいなものはないし、いつも待っているのはこんなはずじゃなかった感のある結末。

切り替えていくことに取り組まなければならない。そう思うこの頃です。

AIに「訊いて応えて」ワーク

今年度、大学で担当している「教育の方法及び技術(情報通信技術の活用含む)」は、教育と情報・ICTに関する内容を主軸に据えて始まりました。

そして、このタイミングならChatGPTなどのAIチャットを導入しない手はないので、毎回の講義の中でAIチャットを前提とした課題を設けることにしたわけです。

課題名は「訊いて応えて」。

AIやネットに「訊いて」みて、得られた結果について学生本人の意見やコメントで「応えて」いく、という枠組みの連続課題です。

教職を目指している大学生たちがAIチャットを未体験なままに百出している議論を眺めるのではなく、自分たちで使いながらAIのいま現在を見極められるようにしようという趣旨です。

利用環境面

初回、パソコン教室で46名の受講者が一斉にChatGPTにサインアップやログインを試みたところトラブりました。

初回は何人かの学生がこの制限を受けたものの、次週は大丈夫だろうと高を括った2回目もログインすらできない学生が続出。

緊急避難的にChatGPTからPerplexity AIに逃そうとしたものの、しばらくするとそちらも利用のリミットに引っかかって、またお手上げ状態でした。

第3回も失敗すると学生の興味関心が極端に薄れてしまう懸念があったため、chatbot-uiをどこかのサーバーに独自に立ち上げて、そこを避難所にする対策をしました。

課題内容面

これまでの「訊いて応えて」ワークは以下の通り。

〈01〉教科書のキーワードを訊いて応えて
〈02〉ニュース記事の数値整理を訊いて応えて
〈03〉対象の比較を箇条書きで訊いて応えて

〈01〉は教科書に掲載されているキーワードから3つほど選んで、AIチャットに訊いてみて、自身のコメントで応える課題でした。

パソコン操作を思い出してもらうことや、ワークの取り組み方を説明するため、課題内容自体は月並みなキーワード調べものです。提出ワークシートはGoogleドキュメントで配布したシートなので、実質作業はコピペ。

それでも、学生達の画面には、「クラスルーム」「授業専用Web資料」「ワークのGoogleドキュメント」「AIチャット」という4種類のウインドウが最低限表示されることになり、これに課題内容によって指定されたリソースがプラスされると、慣れてない学生にとって操作は難解レベルに突入します。

初めのうちは、その状態に慣れてもらうことも織り込んで課題について支援していきます。

ChatGPTなどからのコピペは、単純コピペだとちょっとグレイがかった背景も一緒にペーストされるので、初めのうちはそれを許容しつつ、次第に書式なしペーストなども使えるようになって欲しいという方針です。

それから、自身のコメントで応えていく部分についても、初めは言葉少なですし、賢い学生はAIの出力をそこに貼り付けるといったことも起きますが、そういう取り組みは評価が高くないことも強調して伝えます。結果的にこちらが騙されるレベルに達しているなら、まぁそれはそれでよしとします。

〈02〉はニュース記事を使った課題で、文章で紹介された統計数値を表形式にするタスクです。

ちょうど徳島県の人口について紹介したコンパクトなNHKニュースが配信されていたので、この文章をAIチャットに渡して、表形式に変換して見せてくれたら、AIの威力についても感じてもらえるのではないかと思って設定しました。

題材順序として「表形式への変換」は早過ぎでは?とも思いましたが、よい素材と遭遇しましたし、コピペ・テクニックを垣間見せる意味でも、悪くない課題だと判断しました。

導入のプロンプトとして

次の文章の中の数値を表形式に整理してください:

と入力してもらい、あとは数値が含まれている部分のニュース記事をコピペするだけ。記事をもとにした表が出力される様子を目撃することになります。

しかし、多人数でやっていることで、同じ質問文を入れて同じコピペをしたのに、出力される表の形式が違っていたりすることも見えてくるわけです。さらに、出来上がってくる表も正確性が怪しい。

こうして、AIチャットが常に同じ動作をするわけではないことや、正解を生成するものでもないことを体験して理解していくことになるわけです。最終的には人間の確認も必要だと。

そうした各自が遭遇した事態に応じて、学生自身のコメントを書いてもらうことで課題が完結します。

また、表のコピペも、貼り付けた先でセルの高さが異様に大きいことや背景の色などの諸々を修正していくことが必要になり、細かな修正作業のコツを身につけたり、あるいは表計算アプリ経由でスマートにやる方法へと辿り着く学生がいたりと、多様なパスを支援していく感じになります。

〈03〉では、ここまでバタバタと取り組んできたものを一旦立ち止まって振りかえることに注力するため、課題内容自体は、対象の比較を箇条書きにまとめさせたものへ自身のコメントを加えるものにしました。

訊いてコピペして応えていく単純作業。

ただし、「箇条書き」という指定をすることで、どんな出力がなされるのか知って欲しいということ。比較の箇条書きが比較対象個別に出てきたり、比較して分かることをまとめて箇条書きしてくれたり、箇条書きの個数が多すぎたり、といろいろであることを体験し、必要に応じて再回答を指定したり、箇条書きの個数を絞ったりするなど追加の依頼ができるようになることを期待しています。

実際の授業では、前回の表のコピペが思いの外難しかったようなので、そちらを丁寧にフォローすることに時間が割かれました。そのため箇条書きの文章コピペという今回の課題分量は良かったようです。

学生達も、作業段取りについてようやく理解が深まったようで、学生コメントからも今回は自信を持って取り組めた様子が伝わってきました。

また、単にコピペ作業に終わるわけではなく、AIチャットに訊いたことを自身のコメントで応える作業を通して、AIチャットの出力に自分では届かない側面からの視点があって勉強になったという場面もあったようです。作業的な負荷がある程度落ち着けば、課題内容にフォーカスして吟味したり考えたりする余裕が生まれるということなのでしょう。


こんな形でまだ3回しかやっていませんが、AIチャット利用を前提とした「訊いて応えて」ワークを進めているところです。

ワーク課題の作成については自転車操業的にやっているので、この時点でご披露できる将来計画のようなものは残念ながらありませんが、教職志望者がメインの授業ですから、問題作成側の用途に関わるネタも当然入ってくるのかなとは思っています。

今回の授業の技術的条件整備などのお話は、あらためて別のところに書いてみようかと思います。