JSET「プログラミング教育」リベンジシンポジウムのこと

2018年3月3日に東京・創価大学で日本教育メディア学会(JAEMS)と日本教育工学会(JSET)の研究会がありました。今回はJSET側の研究会テーマが「プログラミング教育・LA(ラーニングアナリティクス)」で多数の発表や関連シンポジウムがあったので参加してきました。

各発表のプログラミングに対する斬り口は様々ですが,いまは多様性を充実させる時期かも知れません。率直な感想は「プログラミング」を前提とした大車輪は回り始めて止まらない感じがしています。個人的には「プログラム」あるいは「ソフトウェア」あたりから入るべきだったのではないかと思いますが。

さて,2017年9月17日の日本教育工学会全国大会で開催が予定されていながら,台風の影響のため中止されたシンポジウム「プログラミング的思考力をどのように捉え,いかに育むか?」が,今回の研究会を機にリベンジ開催されることになりました。

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登壇メンバーは昨秋に予定されていたメンバーに1人加えられた5人となりました。

阿部和広さんは,Scratchの日本の伝道師とも言うべき方です。様々なワークショップや活動の場で接してきた子供たちの様子を踏まえて,自由に試行錯誤できる環境を与えられれば子供たちは自らプログラミングを「楽しみ」ながらその世界を会得していくことを指摘されました。

平井聡一郎さんは,学校教師の経験と教育委員会でICT環境整備などを主導してきた経験を踏まえて,いまは全国を飛び回りプログラミング体験・学習の講演をなされています。今回も移行期間で教師が現実的に始められる取り組み段階を紹介されていました。

高橋純さんは,東京学芸大学の教員で,国の有識者会議やワーキンググループの委員を務めています。今回の小学校におけるプログラミング体験に関する位置付けを一部の「必修化」という誤解を正しながら解説し,学習指導要領や教員養成カリキュラムに関連事項を入れ込むことがどれだけ大変な事だったかを紹介されました。3月10日にJSET産学協同セミナーがあるため,おそらくそこでも似た話を聞けるだろうと思います。

御園真史さんは,島根大学の教員で,数学教育に携わられています。数学の条件式やシグマの数列和などにもすでにアルゴリズム的・プログラミング的な処理の仕方が含まれているという話から始まり,しかしながら,教科の中でのプログラミングが教科の目的を達成するものとして意味を持つためには,教科教育における研究とそのための教師育成が必要であると指摘されました。

久保田義彦さんは,宇都宮大学の教員で,理科教育を専門にされています。算数と同様にプログラミングが例示された理科の立場からお話をされるにあたって、関わられている雑誌『理科の教育』の特集の紹介と,ご自身が講演などでわかりやすく示すための「調理の最適化」というお話でコンピュテーショナルシンキングの思考活動を説明されました。

各登壇者15分程度の発表後,フロアに対して横並びで質疑応答に移りました。

私はてっきり,司会者がテキパキと進行を采配しながら展開していくと思ったのですが,特別そういった形式はとらずに,登壇者とフロアとの緩やかなやりとりで進みました。

ふわぁっとフロアへ質問の振りが行なわれましたが,多くの方が様子見姿勢だったので,私から高橋先生へ質問をしました。

高橋純先生は発表で,今回の「プログラミング」は,総理大臣や一部の会議内での発言が「必修化」という言葉を使っているため,まるでプログラミングという授業が必修化されたように受け止められているけれども,現実には必修化という文言は使われていないし,学習指導要領の中で「プログラミング」は配慮事項として加えられたに過ぎないと冷静に解説されました。

また,おそらくそれは,プログラミング等をもっと積極的にやるべきと考えている人々にとっては,100求めたいところの1でしかないと映るかも知れないが,0から1になっただけでも大変なことであり,次(10年後)の学習指導要領でそれが少しでも増えるために,いまは盛り込めた「1」について大事に受け止めてしっかり成果を出していくことが肝要であると提言されました。

その解説はもっともで,大変大事な指摘なので,もっと広く周知されて,理解されるべきと思いました。

そして,その解説の際に,いかにプログラミング等の文言をあちこちに入れ込むことについて周囲からの抵抗があって,いま残せたものさえ危うかったか,敵の多さや入れ込むのに孤軍奮闘した苦労を多少冗談めかす形で語りつつ,参考にするものがあるとすれば英語教育の活動ではないか,それに比べ情報関係は20年遅れたとも言われたのです。

それで,フロアからの質問がすぐには出そうになかったので,「英語教育に比べ遅れた20年の原因について,先生の見立ては?」という質問を投げかけました。

シンプルな返答は「保護者や一般の人々への情報のイメージが英語に比べて良くなかった」というもの。これは情報のイメージがネガティブというよりは,英語の方が役に立つイメージが強かったという意味だと思います。高橋先生は「英語の教材等が豊富に用意され・充実したこともある」といったことも付け加えました。

とにかく,今回の学習指導要領で書き込まれた配慮事項が,実際の教科書でどのように書き込まれるかを注視し,丁寧に実践する事例と成果を積み上げる必要性があることを繰り返し説かれました。

その質疑の後は,現場の先生や教育委員会,大学で教員養成に関わる方からの質問に対して,登壇者が順にコメントしていく形が続き,シンポジウムの全体的な雰囲気はわりとふんわりとしたまま,時間となって終わりました。

刺激的なディスカッションが好きな私としては,テキパキとした司会進行のない今回のシンポジウムは,ちょっと物足りなかったというか,登壇者同士の対話や鼎談部分が薄かったかなぁと感じました。

阿部先生や平井先生は,どちらかといえば積極的にプログラミングに関わることをご自身の活動の中で推進している立場。高橋先生は,国の動きの中で起こっている現実を引き受けている立場。御園先生と久保田先生は教科教育における受け止めの中で語られる立場。この立場の違いをシンポジウムとしてもう少し面白く調理することができたはずなのですが,残念ながら,それぞれの味を引き出すというところには至らなかったのではないかと思います。

そのため,現実を引き受けている高橋先生の話のトーンがシンポジウム全体を染めてしまい,現実の中でどうするかを語り合う,探り合うといった,微妙な雰囲気に終始してしまいました。

当たり前のことですが,学習指導要領が告示されてしまった後なので,夢や理想のようなものを語るフェーズではありません。プログラミング体験やプログラミング学習に関して,その前提を問うという原理的あるいは理念的な議論をする部分については私自身積極的なのですが,学習指導要領に関わる部分について語る場合,あまり議論として盛り上がるものはないと考えています。

なので,100を求めちゃいけないよ,0が1になったことを大事にしなきゃいけないよ話は,本当のことではありますが,議論としてはあまり盛り上がらないし,微妙な感じになりがちです。さらに微妙さがあるとすれば,国の会議や審議会の場における様々な抵抗勢力話や孤軍奮闘話をあとから聞かされるという体験かも知れません。

もし,抵抗勢力や孤軍奮闘の苦しさがあるなら,その真っ最中に,多くの学会員に協力を求めたり,ロビー活動を要請するといった関係者の連携を模索してくれるべきなのですが,そういった国の会議や審議会の内部情報はほとんどクローズドになっているためか,結局一部の人たちが抱え込んで苦労しているのです。

そんな苦労を「大変だった…」とか「誤解が多くて…」とか「敵が多くて…」とか「猛抵抗にあって…」とか,場を盛り上げるリップサービスとして口にされているのだとは思いますが,それを聞かされる側は,手を貸さなかったかのような微妙な気分にもなってしまいます。

学会のシンポジウムには,いろいろ見せ方があるとは思いますが,今回のような旬なテーマの場合は,一種のプロレスみたいなものとして見せてもいいんじゃないかと思っています。

そのためには,司会者あるいはコーディネーターがある程度は場を操って,様々な立場や意見を交錯させて化学反応を引き起こすことが必要です。

今回のシンポジウムはその見せ方を取らなかったというだけですが,それぞれの登壇者の主張が平行したままフロアに投げかけられて終わったため,それも微妙な感じを残したのかも知れません。

現実路線は構わないのですが,議論に巻き込んで味方を増やすということをしないと,あと10年経っても周囲から抵抗や攻撃を受ける弱い立場が変わらないんじゃないか,そう思ったシンポジウムでした。

プログラミング的思考 -4

今年度も残りわずかになってきました。この時期はあれこれ催事が開かれますが、プログラミング教育関係をテーマにしたものも多いです。(カレンダー

20180223-24「こどものプログラミング教育を考える2018 ~2020年度を見据えた地域の教育実践例~」(オープンソースカンファレンス)
20180224「第3回こどもプログラミング・サミット2018 in Tokyo
20180224「Microsoft Education Day 2018 〜2040年に生きる子どものための学びのニューモデル〜
20180227「Webの未来を語ろう 2018 プログラミング教育編
20180227「セミナー「ICT活用を教える現職教員の対応力強化策」
20180303-04「Raspberry Jam Big Birthday Weekend 2018 in TOKYO
20180303「教育工学会研究会 プログラミング教育・LA/一般
20180308「プログラミング教育とICT利活用人材
20180308「総務省「若年層に対するプログラミング教育の普及推進」事業 成果発表会
20180308「Bett報告会 ブリティッシュパブでイギリス発教育サミットbettを語る夜
20180310「新学習指導要領でのプログラミング教育の実現に向けて 教育工学の立場からプログラミング教育を考える
20180312「「プログラミング教育が変える子どもの未来」出版記念セミナーイベントin東京〜プログラミング教育の名の下に世界で何が起きているのか、未来は本当に見通せているのか?〜
20180313「子ども達に,いま必要なマナビ:プログラミング的思考や読解力の必要性と教育のあり方は? 〜データなどの確かな根拠に裏付けされた実態と展望〜」(情報処理学会全国大会)
20180313「次世代の教育情報化推進事業「情報教育の推進等に関する調査研究」成果報告会」(文部科学省)
20180325「第4回 お茶の水女子大学附属学校園ICTフォーラム「プログラミング教育の現状と課題」

これだけの機会、プログラミング教育やプログラミング的思考なるものについて情報が交わされるわけです。なかなか興味深い展開ですが、これらの内容を知ることも、議論を接合することも、重複参加しているような人々でないと難しいのが困ったところです。

いまは、それぞれのテリトリーで課題に対する解決策を追いかけることで精一杯であり、それらをオープンにすることやコネクトしていくことにエネルギーを割いている余裕がないというのが実際のところだと思います。

「プログラミング的思考」に関してこれまで、「有識者会議の定義」「様々な論者の記述」「英訳を考える」といったアプローチで描写してきました。

その後、海外の文献なども取り寄せながら様子を見ていたのですが、ある論文に「Algorithmic Thinking」という言葉が用いられていることを見つけて、これが「プログラミング的思考」という言葉を使いたい人たちの考えに近い英訳ではないかと思えたのです。(論文「Algorithmic Thinking: The Key for Understanding Computer Science」)

あとからいろいろ調べてみると、すでに『コンピュテーショナル・シンキング』という本で、「アルゴリズミック・シンキング」という言葉が20世紀中庸に用いられていたことが紹介されており、そのことを指摘した論文「Beyond Computational thinking」が『Communication to the ACM』誌に掲載されていると書かれていました。

あえて古い言葉「アルゴリズミック・シンキング」の方が「プログラミング的思考」の英訳として適していると感じるのは、有識者会議の議論のまとめが、コンピュータでのコーディングよりも論理的思考の方に重きを置いたような印象を与えるからです。海外の人たちへ紹介するときの英訳としても、その方が理解や納得を得やすいのかなと想像していますが、これは実際に使ってみないとわかりません。

学習指導要領が本格実施されるときのプログラミング体験・学習が、どのような姿に落ち着いているのかは、今のところまだわかりません。

ScratchやViscuit等を用いるスタイルはもちろん生き残るとして、プログラマブルロボットやmicro:bitのような工作・メイカーキットの活用が加速するのか、あるいはアンプラグドと呼ばれる取り組みが教科との多様な連携を見せるのか。正解がない以上は、あれこれ試してみてはダメ出しや改善をしながら切磋琢磨して紡ぎ出すしかないと思います。

たとえば、Webデザイン(情報デザイン)やゲームデザイン、AIシナリオデザインといったものも、プログラミング体験や学習の範疇に取り入れる可能性についても、「あえて」取り組んでみる必要があるかもしれません。そうしたときに教科の横断や連携といった試みも必要性のもとに浮かび上がるかもしれません。

以前「プログラマー「を」育てる教育を」という雑文を書きました。

プログラマーを「特定の職業ではなく、数理系に偏るものではなく、高度な情報活用能力の体現者」という風に考えてみてはどうだろうか、というのが雑文の趣旨でした。

正直なところ、いま起こっている物事の全てが、「プログラミング」という言葉を所与のものとして前提したまま展開していることが、このややこしさの出発点だと思っています。そのうえ、学習指導要領には長い年月積み残した宿題(問題)が放置されたままであり、私たちはその上に新しいことを継ぎ足そうとしていることも、事を難しくしています。

「プログラマーを」育てるという言い方は、もちろん、多少の釣り要素が込められた言い方ですが、それがいまいち腑に落ちないのであれば、「能動的なユーザーを」育てると言ってもいいし、「情報時代に生きる市民を」育てると言ってもよいと思います。

この時期、あちこちの催事で語られるプログラミング教育やプログラミング的思考なるものに関する議論で、それらがどのように描かれていくのか。議論する私たちも、もっとたくさん学ばなければならないのだと思います。

映画「Hidden Figures」から知るコンピュータの歴史

日本では「ドリーム」という邦題で上映された映画「Hidden Figures」がデジタル配信を始めたので,見逃していた私は購入して観賞しました(Wired)。

原題「Hidden Figures」は,二重,三重の意味がかかったネーミングのため,邦題を「ドリーム」とあやふやにするのは致し方ないのですが,コンピュータやプログラミングに関わる人ならば,歴史を知るきっかけとして見るべき映画と思えるので,邦題の弱さはちょっと残念な気もします。

いくらかの脚色がなされているとはいえ,史実をもとにした映画です。

1960年代初頭のコンピュータの受け入れられ方が描かれていて,当時は「計算手」とよばれる人々が計算業務を行なっていたこと,それを機械にやらせようと大型機器が導入されるのだけれども,機械計算の結果を人間が検算していたということ等がわかります。

もちろん,映画が描くのは,計算手のほとんどが女性であったという事実,そして物語の核は黒人女性グループの活躍です。彼女たち計算係のことを英語で「computer(コンピュータ)」と呼んでいたこと。NASAが導入したIBMコンピュータのプログラミングにおいても女性たちが先駆的活躍をしていたこと。

コンピュータの歴史という角度に限っても,実に興味深く見ることができます。もちろん人文社会的には人種差別や女性解放運動などの時代的な社会問題を振り返り考えるきっかけにもなります。

教育と情報の歴史を取り組み始めてから,まずは日本の学校教育の情報化の歴史を一通り掴まえようと文献資料などを集め続けています。

しかし,学校でのプログラミング体験・教育の話題が盛り上がる中で,そもそもコンピュータやプログラミングとは何なのかを紐解きたくなる機会も増えたこともあって,あらためてコンピュータの歴史を学び始めています。

それから先日は『Programmed Inequality』という本を知りました。副題は「How Britain Discarded Women Technologists and Lost Its Edge in Computing」(いかにして英国が女性技術者を見捨てて,コンピューティングの最前線でなくなったか)という大変興味深いフレーズ。実際のところ,映画が描いていたように米国でも女性技術者が活躍していたという事実がどこかに葬り去られたことは,私たちの無知が示している通りです。

(20211208追記:すでに休刊している日本のコンピュータ科学雑誌「bit」が電子復刻され,Amazonから個人購入できるようになりました。創刊号[1969年3月号]を開くと,巻頭写真ページは「現代の横顔:ある女性アナリスト」でした。あくまでもプロフェッショナルとして純粋にその人個人を取り上げた企画ですが,業界のジェンダーバランスを気にするようになった現代から振り返って見てみると,なんだか新鮮に映ります。)

コンピュータの歴史そのものを知るには『コンピュータって』が一般書として最も手に入りやすく,読みやすいと思います。ただ,この本に書いてあることを味わうには,やはり類書やコンピュータのしくみ入門書を平行して読むのがよさそうです。パソコンブーム時代を知っている人ならば『パーソナルコンピュータ博物史』もいい入口かも知れません。

これから,情報教育がもっと学校教育に浸透するようになれば,単にコンピュータを利活用するというだけでなく,その歴史を知る必要性が増します。教育に携わる人間ならば,その分野の問いに備えるために,なおのこと学ぶ必要性があります。

日本もコンピュータの歴史には大きな影響を与え,また与えられ続けてきたわけですから,この国に住んで引き受けようとする者として,そういう歴史についても学ぶ機会を持つことは意義のあることではないかと思います。

たとえば,日本のことを書いた本としては『コンピュータが計算機と呼ばれた時代』や『計算機屋かく戦えり』などがあります。

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とはいえ,手を広げ過ぎてしまうと大変なことになるので,私自身は,日本における教育と情報の歴史を追いかけることを軸にしようかと思っています。先日は,かつて刊行されていた雑誌『NEW 教育とマイコン』(学習研究社)の創刊について,当時の編集や執筆の方々にお集まりいただき座談会「NEW』誌と時代を振り返る」を開いたりしました。

30年前の日本のことを追いかけつつも,映画「Hidden Figures」の原作本『ドリーム』も読んでみようかなと思っている今日この頃です。

前提変化をどう広めるか

昨年(2017年)9月からNHKスペシャルで「人体神秘の巨大ネットワーク」というシリーズが放映されています。この年末年始に再放送もあり、私もあらためて録画したところです。

NHKの「人体」という番組名を聞くと、教育と情報界隈の人々の中であるものを思い出す人たちがいます。それは、1997年に発売されたマルチメディア教材の「マルチメディア人体」です。

新シリーズのプロローグ回でも紹介されていましたが、28年前にも同種のテーマ「驚異の小宇宙 人体」という番組が放映されていました。その当時の番組で製作されたCG映像素材などを利用して開発された教材が「マルチメディア人体」で、様々な賞もとり、マルチメディア教材の歴史を振り返る時に取り上げられたりします(参考資料:「デジタル教材の系譜・学びを支えるテクノロジー2回「人と森林」「マルチメディア人体」」/東京大学BEAT)。

1994年頃は「マルチメディア元年」と称されたことや、Windows95もリリースされ、当時CD-ROMで様々なインタラクティブコンテンツが登場しては話題になっていました。教育向けのものは「エデュテイメントソフト」なんて呼ばわり方もされていました。

現在はネット配信時代ですから、NHKの番組サイト「人体神秘の巨大ネットワーク」にアクセスすれば、様々なコンテンツを閲覧することができます。

それでも、マルチメディア教材について振り返ってみる、よい機会ではないかと思います。

それで、話はNHKスペシャルの新シリーズ。

28年も経過して新たなシリーズが製作されれば、当然のことながら28年間に分かってきた最新情報をもとに番組内容が構成されます。

今回の目玉は、28年前に考えられてきた「脳が他の臓器や細胞を一極制御する」という人体の仕組みイメージが、研究の成果で「あらゆる臓器や細胞が対等に情報をやりとりする巨大ネットワーク」という人体の仕組みイメージに置き換わったこと。

こうしたパラダイムシフトで分かった新たな人体イメージを伝えるのがこの番組の内容です。

しかし、研究の成果とはいえ、28年前に放映したり、マルチメディア教材にまでした内容の前提が、こんなにガラッと変わってしまったわけで、素朴に考えると大変なことです。

当時は決して間違っていたわけではないけれど、今にしてみれば十分でないと分かったという前提変化。

番組は28年前の進行役であるタモリさんを再起用して、同じ人が最新知識を学ぶという演出で、これを馴染ませていこうとしているわけですが、さて、人体イメージが世間的にも「巨大ネットワーク」へと変わるのは、どんな閾値の超え方をした時だろうかと、ちょっと思いを巡らしてしまいます。

というのも、学校教育の文脈でも、19,20世紀的な「伝達的知識習得」イメージに固執しない21世紀的な「協働的知識創造」イメージの浸透が求められているわけで、なんだか人体の仕組みと似ているような似ていない様なという気になったからです。

先生という専門職の人々でさえ、そのイメージを理解したり、馴染んだりするのに苦労していることを考えると、前提変化をどう広めるのかという点で、今回のNHKスペシャルの受け止められ方が気になるところです。

360度カメラで授業撮影

以前よりは少なくなりましたが、公開授業にお邪魔することがあります。その時、授業の写真撮影をすること事があります。

授業の撮影は、学校や機会毎に条件が異なるため確認する必要があります。個人情報に関わる配慮をすることが求められるので、外部公開に条件がつくのが基本です。

助言のお仕事で授業参観するときは、講演で使う目的のために特別に撮影をお許しいただくこともありますし、そうでない場合も外部に公開しないことを条件に備忘録として撮影させていただくこともあります。あちこちの授業を拝見していると、記憶が混乱してしまうので、やはり撮影させていただけると助かります。

撮影で使う機材は、いまやすっかりスマートフォンがメインになりました。もちろん全体としてはデジカメを使われる方もたくさんいらっしゃいますが、私の場合は、講演用スライドに写真を利用するときにスマホだと作業しやすいこともあって、すっかりスマホ派です。写真管理もその方がやりやすいこともあります。

以前は、スマホだとシャッター音が消せず、授業に迷惑をかけやすかったですが、最近は消音アプリの利用やiPhoneだとLivePhoto機能用の小さな音にできるようになり、だいぶ利用しやすくなったことも理由です。

今年に入ってからは、360度カメラを使って撮影をするようにもなりました。

今のところ360度カメラ撮影は、純粋に記録用としての利用になります。先に書いたように備忘用としての撮影には、なるべく当日の授業の様子や雰囲気が甦るような写真が撮れると有難いわけで、その目的に360度カメラは向いてるからです。

まだ撮影のコツを掴み切れているわけではありませんが、板書や児童生徒の姿などを同時に抑えられるポジションで撮影できると、教室の後ろから普通に撮影する写真とはまったく違う構図の興味深い写真が残せます。

カメラ本体の形状や撮影するときの撮影者の動作が、これまでのカメラ撮影と異なるので、わりと不思議な視線を受けます。その視線も撮影されていたりするので、それはそれで面白いです。まだ見慣れない撮影スタイルなので、児童生徒や先生方も構えない自然な雰囲気で写ってくれます。たぶん、ある人達にはウルトラマンに変身しようとしているように見えるかも知れません。

すでにVRを取り入れる試みの授業では360度カメラも登場していますので、徐々に珍しいものではなくなっていくと思います。画質の良さを求めるとまだまだ高価ですが、それも数年で手に入りやすくなる価格帯に降りてくるはずです。

問題は閲覧する方法がまだまだ柔軟ではないので、それがもっと進化して扱いやすくなるといいかなと思います。