人工知能時代に必要な小学校段階の学習事項とは何なのか

平成29年3月告示の学習指導要領が示した、小学校段階におけるプログラミング体験について考えています。

文部科学省「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」は、小学校段階にもプログラミングに関わる教育を持ち込むことを諮るための会議であった以上、その議論の取りまとめから「プログラミング」を取り除くことができない宿命にありました。

組み込むべきパーツが状況的に決められ用意された状態の中、それらを求められている形に組み上げていく作業が大変であったことは、長くなりがちになっている文章を見ても分かります。加えて、私たちのようなしがらみのない部外者から、本来はこうだああだと批判あるいは非難されることも必至である仕事です。そのことを労う文脈が無いことは残念ですが、こればかりは仕方ないことだと思います。

無礼は承知で、部外者は部外者なりの役割を演じさせていただくことにします。(その分野の関係者として、純粋に部外者といえるのか、あるいはお前は足を引っ張る側にまわるべきなのか、という批判もあり得ると思いますが、自由に論じさせていただくことも大事かなと考えています。)

やはり、少し巻き戻したところから出発しましょう。

目指しているものを実現するために、必ずしも「プログラミング」に縛られなくてよいとすれば(とはいえ離れ過ぎないところで)、どんな議論の可能性があったのか。

平成29年3月告示の学習指導要領、そのための中央教育審議会への諮問と出てきた答申には、社会の変化について、何かしらの前提が描かれていました。[記事「何を想い,諮問し答申するのか」]

答申には「第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来」と記され、そうした世の中で生きていく子供たちは、おそらくもっと「知識・情報・技術」について強くならないといけない。そう多くの人々が考えていることが反映されています。

端的にはIT人材の人口を増やしたいという願いになって表れ、先の有識者会議の設置へと繋がったことはご承知の通りです。

しかし、今回の話がIT人材の増強という単純な話でないことは明らかです。

「第4次産業革命」つまり昨今見られるような人工知能技術の前進(ディープラーニング)を踏まえた時代というのは、IT産業やIT人材とは何かの捉えに関しても、明らかにステージが変わっており、その新しいステージで通用するように子供たちを育んでいかなくてはならないということが書かれています。

人工知能技術(ディープラーニング)によって、一体何が変わったのか。

私たちが使う道具の挙動が予測困難になったということに他なりません。

従来、私たちは使う道具の挙動を把握して、道具を利活用します。道具の使い方がわからなければ道具は使えないし、少なくとも使い方を学び把握することで(場合によっては自分で創造して把握することで)道具を使います。

道具が複雑な場合、確かにその挙動は予測が困難ですが、その場合でも私たちは道具の「仕組み」を理解することで、なんとか道具の挙動を把握して利用します。

しかし、人工知能技術が生かされた道具は違います。

人工知能技術を生かした道具は、機械学習を行ない、その成果を踏まえた挙動をします。その挙動は、私たちが想定した範囲に収まる場合もありますが、そうでない場合の可能性についても否定できません。

そのような道具を把握し利用する場合、道具が学習するという「仕組み」を理解するだけでは足りないのです。どのように学習するのかという「学習のさせ方」を汲み取らなくては、道具を想定的にあるいは効果的に利用することができません。しかし実のところ、学習のさせ方が分かっても、もはや「学習の成果」を予測することは困難です。

挙動の予測が困難な道具が、私たちの社会生活にどんどん応用されようとしている。

この事実を踏まえる必要があります。

誤解のないようにあらかじめ断っておきますが、私はシンギラリティが到来して、人工知能が人間の能力を上回って、いろいろ悲劇的なことが起こるということを肯定したいわけではありません。

シンギラリティ云々については、来ようが来まいが、私たちの議論にはあまり大きな影響はないと考えています。扱うものがどんどん大げさになっていくという大変さはあり得ると思いますが。

挙動の予測が困難な道具が私たちの生活を支える社会

こうした社会では、プログラミング技術あるいは能力があるに越したことはないし、そういう道具やシステムで構成された社会を維持する人材としてIT人材のすそ野が広がることには意味があります。

しかし、プログラミングという「データ」や「アルゴリズム」や「コーディング」といった諸々の仕組みを扱う能力が身に付いたところで、道具の挙動を予測することが困難であることには変わりありません。

それはせいぜい「人工知能の学習をデザインできる技術を持っている人」になれるだけで、「挙動の予測が困難な道具を上手に使って社会に役立てる人」になることにはならないのです。

これは良き「作り手」が良き「使い手」とイコールではない、という有りがちな話を踏まえているようでいて、やはりまったく異なるステージの話なのです。

従来の道具は、作り手が道具の挙動を意図して生み出してきました。その意図を使い手が汲み取って、道具を利用します。それは「作り手→使い手」(一方向)という関係で完結します。

しかし、人工知能技術を生かした道具は、作り手が学習のさせ方を意図することはできますが、学習の成果を掌握することは論理的に難しいはずです。使い手は、(作り手によって意図された)道具の挙動を予測して従来の道具のように利用しますが、やがて挙動が変化していく事態に直面し、それがポジティブな範疇に留まっている限り「便利さ」を享受することになりますが、そうでない場合には道具の学習による「困難さ」を被ることになります。とすれば、使い手は作り手のデザインした学習について遡ることを余儀なくされ「作り手←→使い手」(双方向)の関係を織り込まなくてはなりません。

(従来の道具の場合であっても、双方向の関係を想定することができるではないか、という指摘もあり得ると思います。もちろんそうすることは可能ですが、表面上の関係性に違いの根拠があるわけではないので、このお話は、もう少し別の説明の仕方を試みた方がよいかも知れません。)

使い手が、道具の作り手へと遡るからこそ、プログラミング体験・学習を通してプログラミング的思考なる論理的思考や、ITリテラシー、情報活用能力を身に付けるべきなんだ、という見解はあってもよいと思います。

ただ、そうしたところで「挙動の予測が困難な道具を使う社会」になることを見失っては、単なるIT人材育成話に留まるだけだと私は考えます。

どんどん進歩し続けている人工知能技術が、私たちの生活をどのように明るく彩り、どのようにトラブルを引き起こし、また、どのように人工知能の学習をデザインし、どのように調整していくのか。そういった事柄はすべて、私たちの描き方次第で、如何様にも変わり得る、まさに予測が困難な状況にあります。

そう考えたとき、小学校段階で必要な学習事項として新たに加えるものの一つが「プログラミング的思考」といった「仕組み」にフォーカスするようなものでよいのかどうか。他の教科との横断的な関係と中学校・高等学校との体系的な捉えの中で、もっと考えを深めてもよいのではないかと思います。

そうすると、意外とシンプルな実践と、もっとディープに記号や命令をいじる実践が組み合わさった形のカリキュラムが子供たちにとって必要になるかも知れません(これは単なる直感です)。

文部科学省の有識者会議の議論の取りまとめは、 第4次産業革命や人工知能について、社会に大きな変化をもたらすものであるという認識は持ちつつも、それを括弧に入れてしまい、激変する社会に対応するために求められる資質・能力とは何かを問うてしまいました。

しかし、人工知能という「人間とは異なる、学習をするもの」が、いよいよ括弧に入れられなくなって、相手をしなければならなくなったことが、いま足を踏み入れようとしている時代やその社会のはずです。

人間の意図によって制御される社会という世界観から、人間の意図を託した学習の成果によって制御される社会という世界観への転換を明示しない限り、「第4次産業革命ともいわれる、進化した人工知能が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代の到来」を見据えた学校教育をつくり出していくことは、遠いままかも知れません。

とはいえ、私たちや子供たちは、否応なくそういう時代に突入しています。お忘れなく。

プログラミング体験・学習について鳥瞰する

公立学校で「プログラミング教育」なるものが必須になると話題です。

平成29年3月告示の学習指導要領に至るまでの「プログラミング教育」にまつわる事象と、学習指導要領とその解説で示されたプログラミングに関わる記述について、本当に様々な事柄が語られる対象となり、いろんな解釈と見解を人々が発信しています。

議論することが必要で大事であると日頃から考えている手前、立場に応じて提示される事実認識や考え方、取り組みや主張について、初めから斬って捨てることはないと考えています。

私がこれから書くことさえ、私個人の一認識でしかないのですから、まずは論じてみて、どのくらい妥当かどうかを闘わせてみるしかないと思います。

そう前置きしつつ、この「プログラミング教育」にまつわる話題が混沌としているとしたら、その理由は何なのか書いてみたいと思います。

まず「プログラミング教育」という用語について、この文章ではこれ以降「プログラミング体験・学習」という表記を使おうと思います。

理由は簡単で、小学校がプログラミングの体験を重視し、中高ではプログラミングを通した学習が展開するという、新しい学習指導要領が示した初等中等教育におけるプログラミングの体系的な位置付けを、まずは明示的に共有したいからです。

【議論の混沌要因】の一つは、学校段階(小学校・中学校・高等学校)毎に分けて論じるべきプログラミングの扱いが、「プログラミング教育」という体系的な呼称で一括りに論じられてしまうことにあります。

乱暴かも知れませんが、プログラミング体験(小学校段階)とプログラミング学習(中学校・高等学校段階)として、分けて呼称できるように「プログラミング体験・学習」を使ってみようと思います。

【議論の混沌要因】の二つ目は、国の学習指導要領と学校の教育課程との関係について、その従属関係をどう捉えるかによって議論が難しくなることです。

すでに小学校段階におけるプログラミング体験に関して、「関係する有識者会議は何を言っているのか」、「中央教育審議会は審議をどうまとめたのか」、「学習指導要領と解説にはどんな文言が記されているのか」、それらが内に含んでいる意図に最も沿う考え方とは何か、といった引用・解釈合戦が賑やかです。

学習指導要領は(検定教科書という同伴とともに)、学校現場にとって絶対的な存在として君臨し続けてきた歴史があります。文言としては創造的な学校の教育課程を編成しなさいとは言い続けてきたものの、多くの教育委員会や学校にとってはそうでなかった過去が積み重なっています。

新しい学習指導要領(平成29年3月告示)は、とりわけ学校の教育課程に関して挑発的な言葉が並びます。「社会に開かれた教育課程」の実現を目指すよう促し、「カリキュラム・マネジメント」の実現も求めます。学習指導要領は「学びの地図」であると一歩引いては見せるものの、示された到達すべき地点は膨大です。

より増長したダブル・バインド状況に立ち向かうために与えられたリソースは少なく、当然のことながら、少しでも効率的で、省力的で、手離れがよいものに逃れたい衝動に駆られます。正解探しが終わらないという皮肉な再生産です。

【議論の混沌要因】の三つ目は、プログラミング体験・学習を学校教育に盛り込んだ側の人々が、その盛り込み方について分からないこと、思い通りにならなかったことがあり過ぎのまま、見切り発車的に決定を重ねた(重ねざるを得なかった)ことです。

小学校英語と比較すれば分かりやすいですが、その準備にかけた時間もステップも、すべてが少なく短過ぎました。たとえば、英語教育の必要不要を扱う書籍と小学校プログラミング教育の必要不要を扱う書籍の数の違いは(あくまで傍証でしかありませんが)議論の少なさ短さの証明です。

つまり、プログラミング体験・学習が学校教育に必要であることが直感的に分かっていたとしても、それを言葉として説得的に積み上げていく助走作業やそのための時間がなかったことを意味します。

その結果、新たな造語「プログラミング的思考」が、有識者会議という場で生み出され、学習指導要領の解説に示されたことが、議論をさらに複雑なものにしているのです。

「プログラミング的思考」について、[1]有識者会議の議論のまとめから[2]各所各者言及から[3]英訳検討から、議論の素材を集めていましたが、明確にしようとすればするほど言葉を重ねなければならない事態を招いていて、つまり用語としての明快さに疑念が生じています。

端的に、この語を生み出した人々自身が、中身を分かって用いたのではなく、生み出す必要性に駆られて用いたと理解した方が、むしろ話は分かりやすくなります。

プログラミング的に表現すれば、汎用型変数の宣言あるいはクラスを定義したに過ぎません。

「プログラミング的思考」に実体があるかのように論じても、それは各論者が好き好きに論じているにすぎず、有識者会議のまとめがこれを縛るための規約として、沿っているかどうかのチェックに利用される。そういう形だと理解すると現状をうまく捉えられるように思います。

すみません。何を書いているのか分からない方々もいらっしゃると思います。

「プログラミング的思考」という言葉は、生まれたときからバズワードであり、そうである以上、文脈に依存するため、議論する者同士がその文脈を共有しないと、この言葉を要にして議論することはできないのです。

【議論の混沌要因】の四つ目は、役者(アクター)の配置が複雑になっていることです。

ここでいう「役者(アクター)」というのは、省庁や関係団体(産官学)、政治家や事業家や研究者、教育者、保護者、子ども、関心を持つ一般人など関わっている人々をまとめて呼ぶための言葉です。ステークホルダーという言い方もあります。

アクターが多様で複雑なのは、どんな物事にでも当たり前にあることですが、プログラミングに関してはアクター毎の知識や認識・理解も様々で、それゆえプログラミング体験・学習に対するイメージについて共有していることはとても少ないことが特徴です。

そのうえ、プログラミング体験・学習に関わっていこう、提供していこうとする人々も一枚岩ではない以上、非常に多様なものが発信されているため、それらを整理することがなにより重要なことになっています。

対象読者を絞ったガイドブックが少しずつ出始めていますが、これも増え過ぎれば、あちらはああ言う、こちらはこう言う、どちらが私に合っているのかを判断するのが難しくなってくるかも知れません。

(ちなみに堅いことを言わなければ、保護者向けと思われる『図解・プログラミング教育がよくわかる本』は、時節を捉えた内容でイラストとレイアウトなども上手に編集された無難な一冊と思います。)

プログラミングということでいえば、学校教育を管轄する文部科学省だけでなく、情報通信政策を管轄する総務省、そして情報通信産業を管轄する経済産業省が関わってくるテーマだけに、業界団体も巻き込んで、それぞれの思惑が交差していることも複雑さの一因です。

知らないうちに私たちが、この三つの省の代理戦争をしている状況さえ起きています。

他にもたくさんのアクターがいるわけで、その分の文脈が増えれば、議論が混沌としないはずがありません。

【議論の混沌要因】の五つ目は、教育の情報化(学校教育のIT対応化)がネガティブなイメージを払拭できずに、長らく足踏みしていたことです。

ゆえに混沌要因の三つ目(議論の少なさ短さ)が引き起こされたともいえますが、日本では、教育の情報化の取り組みが仕組み的に難しくなっている現実があって、それを放置したまま今日に到っているのです。

平成元(1989)年の学習指導要領の改訂時、「情報基礎」という領域が中学校の技術・家庭科に新設され話題となりました。

公立学校に大量の教育用パソコンが必要になる!と業界が湧いたことをご記憶の方もいらっしゃるかも知れません。当時、主流であった「NEC PC-9801シリーズ」が採用されるのか、それとも海外から入ってきたIBM PCを日本向けに規格化した「AX規格パソコン」が採用されるのか、あるいは国産OSとして通産省も期待をした「トロン規格」が採用されるのか。

いまはJAPET(日本教育情報化振興会)へと合併しましたが、CEC(コンピュータ教育開発センター)という組織が学校の教育用パソコンの規格を策定して、それを導入機器のガイドラインにしてもらおうと動いていたことが知られています。1990年7月に「学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書 CEC仕様’90」が出されました。

しかし、その裏側では、様々な思惑の衝突と、貿易問題としてのアメリカからの圧力などで業界の勢いは削がれ、CECを中心とした教育用パソコンの普及計画は事実上消えてしまいました。あとは、パソコン各社それぞれ入札案件を取りに行く形で導入が進められましたが、入札疑惑、入札談合、入札収賄と事件が続き、導入しても宝の持ち腐れ論もかまびすしく、パソコン導入に関する世間のイメージはすっかりダークに染まったのでした。

そこから四半世紀近く、日本の学校の情報化(IT対応化)は極めてネガティブな空気感を伴ってしか、展開されてこなかったのです。たとえば、情報モラル教育が危険性を強調することでしか存在をアピールしてこなかったことは象徴的です。ある種の情報が人を喜ばせ、生活を豊かにするといった明るい方向性のモラルはほとんど語られてこなかったのではないかと思います。聞こえがいいこと言うのは宣伝ばかりだったともいえます。

その反動か、平成29年3月改訂の新しい学習指導要領やその関連文書には、環境整備の必要性を読み取らせ整備を迫る文言があちこち巧妙(?)に編み込まれており、呪縛を解こうと案じた様子が見えてきます。

ツケが大きくなり過ぎたことのケリをどうつけるのか。

Raspberry PiやIchigoJam、micro:bitといった比較的安価な選択肢が目の前にあっても、これをすべての子どもに配布するといった大胆な選択をとれない日本の現実こそ、本当は何とかすべきですが、すでに話が大きくなり議論の混沌を引き起こしているのは、これでお分かりいただけると思います。

十分な検討を経ず、徒然に書いたプログラミング体験・学習の議論に関する5つの混沌要因。

5つはもっと整理できるかも知れないし、5つだけではない他の要因もあり得るし、そもそもこの要因がわかったところで本来の議論に貢献できるとはいえないかも知れず、そういう意味でこの主張も、異論反論を必要としているものだと思います。

もう少しいろいろ考えて書ければと思いますし、もっと具体的に特定の論考を相手に議論を闘わせることもしてみたいと思います。

学校は知識リソースにアクセスできているのか

物事を調べるには,手始めにインターネット上で情報検索(探索)をします。

Wikipediaはもちろんですが,Twitterを検索すると注目度の高い情報を見つけられます。ネットワーク上にすべての情報が存在するわけではありませんし,偏りがあるかも知れませんから,検索結果で立ち止まることはできません。それでも手がかりを得るにはネット検索という方法は強力です。

位置付けは変わってきていますが,印刷媒体の重要性は今も昔も変わりません。

教育機関にとって図書施設・部門が最も重要であるという認識も変わっていないはずです。分類された豊富な文献資料に接する(アクセスできる)ことは,人の権利であり,私たちが市民として,またそれぞれ属する分野の専門家として,生きていくために必要不可欠な活動です。

最近懸念していることは,提供されている教育関連の知識リソースの少なさです。

またそれ以上に,教育関係者による知識リソースへのアクセス機会の乏しさを憂います。

論理的思考力のたくましさによってカバーできる部分があるとしても,思考対象となる素材に不用意な制約があることは,必ずしも望ましい状態とはいえません。

たとえば学校に,教職員が利用することを前提とした文献資料を十分備えた施設はあるのか。

学校図書館(学校図書室)」として知られている施設は,児童生徒と教員が利用することを前提にしています。しかし,施設や図書の充実度は学校や地域によって様々で,ましてや教員が利用することを視野に入れた目録が充実させられているところは大変限られていると思われます。

先の学習指導要領の改訂に伴って,答申解説書,学習指導要領新旧対象解説書,各教科毎の解説書,さらに研究書や先行実践事例書などが市販されますが,それらを各教員のために取り揃えてくれたり支給してくれる学校や自治体があるなんて話を,私は聞いたことがありません。

つまり,学校の先生方が職場から与えられるのは教科書と教師用教科書など最低限のリソース。それ以外は先生方の自費で購入しているのです。

先生が教育図書を自費購入することは,ビジネスマンがビジネス書を自費購入するようなものだと考えるかも知れません。しかし,本当にそうでしょうか。

その役目が伝達であろうが支援であろうが先生は,知識を媒介して学習者の成長に関わる職業です。その仕事の本丸とも言うべき知識リソースへのアクセスが保証されない条件で,複雑高度化する社会に応える教育活動をどうやって実現するのか。

ビジネスマンに商材がない商売をしろと言うに等しい,実に滑稽な話です。

校内研修や授業準備検討会の場で,先生達が机の上に広げる資料の数がどのくらいか想像したことはあるでしょうか。その場にパソコンやタブレット端末があって利用されていると思われるでしょうか。

すべてのケースがわかっているわけではありません。

しかし,関連図書を積み上げてあれこれ参照したり,パソコンでネット検索をしながら検討会をしているという様子が主流になっていないことはわかります。

場合によっては,教師用教科書のみを囲んで授業内容を考えていたりします。経験がカバーするから,それで十分だとされるのです。

ただ,少なくとも平成29年3月告示の学習指導要領のもとでは,知識リソースへの乏しいアクセスと経験によるカバーだけでは通用しないと,私は考えます。

そのためにも,教職員にとってリッチな知識リソースへのアクセスが保証されなければなりません。

余談ですが,教育の情報化や教育ICTに関わる事柄で,私が大変不満に思っていることは,官製情報による寡占状態が起こっていることです。

もちろん,新しい学習指導要領が成立する過程で行なわれた議論の内容や示された方針などを全国の学校関係者,および世間一般の人々に周知していくためには,統制された官製情報を強力に発信していく必要があります。

発信される情報が不統一で説明の度に食い違いが起これば,周知どころか誤解と混乱を招くことになります。その点で,官製情報が正確に流布することは大変重要なことです。

その上で,官製情報だけでなく,学術情報を始めとした多様な知識に触れることで知的活動が豊かになったり,健全な議論の土壌が生成できるはずです。

しかし,このところは官製情報を参照することから抜け出せていないリソースばかりが目に付きます。官製情報のまとめやキュレーションといった感じです。

困ったことは,研究者などの有識者によって書かれたり語られたりした情報リソースも,有識者自身が官製情報の生成に関与していたり,国家行政に関わっている人であることが多いため,結果的には官製情報発信の一部になっていることです。

たくさんあるようでいて結局は同じ内容でしかない知識リソースと,いろいろな事情があるにしても結果的には乏しいアクセス。

本当にこれでよいのでしょうか。あるいは,もっと巻き戻して考えていくべきことがあるのかも知れません。

プログラミング的思考 -1

今回は小学校段階へのプログラミング体験導入のために議論された「プログラミング的思考」について,情報収集から始めてみたいと思います。

【ポイント】

「プログラミング的思考」とは

○有識者会議による造語(新語)である。
○プログラミングと論理的思考の関係を整理して提言したものである。
○コンピュテーショナル・シンキング(Computational Thinking)の考え方を踏まえつつも,別のものである。
○言語能力の育成に向けた国語教育等の改善・充実を前提としている。
○コーディング学習から距離を置く意図が含まれている。
○各教科等で育まれる論理的・創造的な思考力と大きく関係する捉え方である。
○小学校におけるプログラミング教育が目指していることの一部である。

  • 「子供たちが、コンピュータに意図した処理を行うよう指示することができるということを体験しながら、身近な生活でコンピュータが活用されていること」
  • 「問題の解決には必要な手順があることに気付くこと」
  • 「各教科等で育まれる思考力を基盤としながら基礎的な「プログラミング的思考」を身に付けること」
  • 「コンピュータの働きを自分の生活に生かそうとする態度を身に付けること」

○「学習指導要領」では用いられず、「学習指導要領解説」で用いられている。

【定義】

自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力

【参照資料】

20160616「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)」[PDF](文部科学省)小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議

 

プログラミング教育とは、子供たちに、コンピュータに意図した処理を行うよう指示することができるということを体験させながら、将来どのような職業に就くとしても、時代を超えて普遍的に求められる力としての「プログラミング的思考」などを育むことであり、コーディングを覚えることが目的ではない。

 

国語教育等において、語彙を豊かにすること、情報と情報の関係性を論理的に捉えるなど情報を多角的・多面的に精査し、構造化する力などが、発達の段階に即して系統的に育成されるよう、小・中・高等学校を見通して教育内容の充実を図ることが検討されている。プログラミング教育を含む全ての教育の前提として、こうした言語能力の育成に向けた国語教育等の改善・充実を図っていくことが不可欠である。

 

○こうした「プログラミング的思考」は、急速な技術革新の中でプログラミングや情報技術の在り方がどのように変化していっても、普遍的に求められる力であると考えられる。また、特定のコーディングを学ぶことではなく、「プログラミング的思考」を身に付けることは、情報技術が人間の生活にますます身近なものとなる中で、それらのサービスを受け身で享受するだけではなく、その働きを理解して、自分が設定した目的のために使いこなし、よりよい人生や社会づくりに生かしていくために必要である。言い換えれば、「プログラミング的思考」は、プログラミングに携わる職業を目指す子供たちだけではなく、どのような進路を選択しどのような職業に就くとしても、これからの時代において共通に求められる力であると言える。

 

○また、「プログラミング的思考」には、各教科等で育まれる論理的・創造的な思考力が大きく関係している。各教科等で育む思考力を基盤としながら「プログラミング的思考」が育まれ、「プログラミング的思考」の育成により各教科等における思考の論理性も明確となっていくという関係を考え、アナログ感覚を大事にしていくことの重要性等も踏まえながら、教育課程全体での位置付けを考えていく必要がある。

 

「プログラミング的思考」(自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力)[5]

[脚注5]いわゆる「コンピュテーショナル・シンキング」の考え方を踏まえつつ、プログラミングと論理的思考との関係を整理しながら提言された定義である。

 

小・中・高等学校を見通した充実が図られる中で、小学校においては、身近な生活の中での気付きを促したり、各教科等で身に付いた思考力を「プログラミング的思考」につなげたりする段階であることを踏まえた、小学校教育の特質に即した在り方が必要となる。

 

○小学校におけるプログラミング教育が目指すのは、前述のように、子供たちが、コンピュータに意図した処理を行うよう指示することができるということを体験しながら、身近な生活でコンピュータが活用されていることや、問題の解決には必要な手順があることに気付くこと、各教科等で育まれる思考力を基盤としながら基礎的な「プログラミング的思考」を身に付けること、コンピュータの働きを自分の生活に生かそうとする態度を身に付けることである。

○中学校や高等学校の段階では、簡単なプログラムの作成や、コンピュータの働きの科学的な理解などを目指し、技術・家庭科や情報科において構造化された内容を体系的に学んでいくことが必要となる。一方で、小学校におけるプログラミング教育が目指す、身近な生活の中での気付きを促したり、各教科等で身に付いた思考力を「プログラミング的思考」につなげたり、コンピュータの働きが身近な様々な場面で役立っていることを実感しながら自分の生活に生かそうとしたりするためには、学級担任制のメリットを生かしながら、教育課程全体を見渡した中で、プログラミング教育を行う単元を各学校が適切に位置付け、実施していくことが効果的であると考えられる。

 

[脚注8]順次、分岐、反復といったプログラムの構造を支える要素についても、それを知識として身に付けることは中学校教育の指導内容に盛り込まれている。小学校教育では体験の中で触れるということで十分であり、それ自体を教え込んだり、知識として身に付けることを指導のねらいとしたりする段階ではないと考えられる。一方で、小学校での学習を通じてプログラミングに興味を持ち、プログラムの構造を支える要素についても詳しく知りたいという知的欲求を抱いた子供たちが発展的に学ぶことのできるよう、民間とも連携して多様な学習機会を整えていくことが求められる。

 

【算数】

(中略)
・しかしながら、私たちが計算するときには、プログラミングで表現しなくても、人間の文明が生み出した遺産である「筆算」で計算することができる。小学校で筆算を学習するということは、計算の手続を一つ一つのステップに分解し、記憶し反復し、それぞれの過程を確実にこなしていくということであり、これは、プログラミングの一つ一つの要素に対応する[12]。つまり、筆算の学習は、プログラミング的思考の素地(そじ)を体験していることであり、プログラミングを用いずに計算を行うことが、プログラミング的思考につながっていく。

・算数において、プログラミングの体験をどこに位置付けていくかについては、こうしたことを踏まえながら、効果的な場面を考えていかなければならない。例えば、図の作成等において、プログラミングを体験しながら考え、プログラミング的思考と数学的な思考の関係やそれらのよさに気付く学びを取り入れていくことなどが考えられる。
(後略)

[脚注12]コンピュータ科学等でも用いられる「アルゴリズム」とは、筆算といった計算の手続も含む、問題を解決する手順を定式化して表したものを指す。筆算は数学の歴史の中で初期から存在したものではなく、長い年月をかけて人類が生み出したアルゴリズムであり、そうしたものを生み出す人間の数学的な思考が、人工知能の動きや働きなどを支えるおおもととなっている。これからの算数では、筆算が所与のものではなく、こうした意義を持つものであることなどを学ばせることも重要ではないかと考えられる。

 

○また、プログラミング教育を行う単元に最大限の効果を発揮させるには、「プログラミング的思考」が国語[14]や算数等で身に付ける論理的な思考力とつながっていることや、社会科における社会の情報化に関する学習など、各教科等における学びとのつながりを教員自身が認識し有機的につなげていけるようにすることが求められる。新しい教育課程の議論の中で、こうしたプログラミング教育と、それにつながる各教科等の学びとの関係性が分かりやすく示されていくことを期待したい。

[脚注14]説明文を読んでその構造を捉えることなどは、フローチャートの作成につながる力であり、こうしたつながりを意識することが重要である。一方で、国語においては、自らの頭脳を使って思考し表現する言語活動を通じて、情報を多角的・多面的に精査し、構造化する力等を育むことが重要であり、こうした国語の本質的な学びとして、プログラミングを体験することを位置付けていくことは、言語能力の確かな育成の観点からも、慎重に考える必要がある。

 —

  

ビデオ会議システムのある学校生活

滋賀県近江八幡市に出かけてきました。2つの小学校の校内研修の講師役。

一つの学校では,学年毎に授業づくりを検討する前に全体に対してしゃべる機会をいただきましたが,なるべく具体的なお話をするつもりで過去の写真など見せながら話していたのに,なぜか大きな話に繋がっていっちゃう悪い癖を出してました。

自分の話はそこそこに,学年毎のグループに入り込んでお話を聞く時間をもっと確保すべきだったなといつも思います。なるべく考えを聴いて引き出す方がいい。次こそは。

もう一つの学校では,WEB会議システム(ビデオ会議システム/ビデオチャット)を利用した学校間の交流学習に関する取り組みについて助言することに。

へき地学校と他校を結ぶためにビデオ会議システムを活用するという取り組みは,徐々に広がりつつあります。最近では,NTT西日本の企業CM「つながる教室」で紹介された「SmoothSpace」(NEC)のようなビデオ会議システムで,臨場感豊かに映像を結ぶことも技術的にはできるようになってきました。

そもそもスマートフォンにはビデオチャットアプリが標準で搭載されていますし,必要ならばSkypeといったソフトを導入することで,簡単にビデオ会議を実施できる時代になっています。

さて,4つの学校が連携してビデオ会議システムを使った交流授業を秋に予定しているが,そんなビデオ会議システムを学校で有効活用するにはどうしたらよいのか。そういうご相談です。

ところが,4校で利用するビデオ会議システムは予約制。

ビデオ会議をする日程をあらかじめ決定しておき,その日時を県の担当者の方に伝えて,ビデオ会議の枠を設定してもらい,専用のパスワードを発行してもらうという段取りなのです。

ビデオ会議を段取るだけで関係する先生方の予定調整作業負担は増えます。

それに加えて,全体の交流授業デザインは,秋に設定された交流授業に向けて準備を進め,当日ビデオ会議システムで交流することを目指した,いわゆる「打ち上げ花火型」のデザイン。その型がダメではないのですが,その型は本当にやりたいことなのだろうかと問うたとき,違うように思えるのです。

ビデオ会議システムを学校に導入して学校間を結ぶのであれば,極端な話,24時間繋ぎっ放しにしておくことが重要です。

24時間常時接続が難しいのであれば,定期的な接続スケジュールを設定し,必要があろうがなかろうが,利用がされようがされなかろうが,ビデオ会議システムで学校間が繋がっている時間を日常ルーチンに埋込んでしまうことです。

授業時間帯かつ授業で意図的に利用するという設定にするのか,朝の会や帰りの会といった時間帯で定期的に交流するのか,休憩時間や放課後に繋げておいて比較的自由に交流することができるようにするのか。接続シチュエーションのデザインはいろいろ考えられます。

そのデザインはいろいろあるにしても,定期的に接続する,理想をいえば常時接続しておくことで,教員同士はもちろん,子供たち同士が「○○学校の△△ちゃん」といった形で他校の友達を日常的に意識する状況を生み出すことが重要なのではないかと考えます。

つまり,交流授業当日だけ単発的にビデオ会議接続をして,それぞれの学校の子供たちが取り組んできた学習成果を披露し合うという活動を成功させることが,私たちの本当の願いなどではないということ。

むしろ,ビデオ会議システムを日常利用して,他校の子供たちと日頃から生活や学習の進捗について対話を積み重ねて,関係性を育む中で,相手をより厚みのある形で意識しながら学習成果を交換し合うという活動を達成してくれることが,本当に願っていることではないかなと思うのです。

繰り返しますが,ビデオ会議は簡単にできる時代になりました。

残る問題は互いの予定調整ですが,これは定期的に接続するというルールによって習慣化することで解決できる問題です。毎回が,いつでも濃いやりとりになる必要はありません。何も扱う案件がなくて,挨拶だけで終わる回だってあり得ます。話が脱線して,グダグダになる回もあり得ます。それでも定期的に接続し続けるという中で,「あ,今度のビデオ会議のときに,これ投げかけてみよう」とか「○○学校の△△さんに聴いてみよう」という場面を生まれれば,それがビデオ会議システムのある学校生活なのです。

もちろん,トラブルがないとは言いません。

そう考えれば,最初から子供たちに自由に使わせるといった放ったらかし利用では,うまくいかないことは明白です。何かしらのコーディネーションやシチュエーションデザイン,より良い利用を誘発するような仕掛けを準備しておくことになると思います。

もっとも,学校のインターネット回線では,ビデオ会議システムをフィルタリングで停止している自治体もあるため,自由に学校間を接続することができない場合も少なくありません。その場合,先生方の個人所有のスマートフォンで接続した方が楽という状況を生んでいます。

そういう本末転倒な状況を生んでいる自治体は,いずれ根本的な見直しが求められる時期がくるでしょう。セキュリティポリシーをガイドライン通りに厳しく策定するだけで,利用者の利便性を配慮する仕組みを入れないままでは,そもそも何のためのネットワークなのか,根本が問われてしまいます。

ビデオ会議システムのある学校生活は,すべての学校に必要だということではありませんが,それを必要としている学校がストレスなく日常利用できるように仕向けていくことは大事だと思います。