炎上という注目喚起

注目を集めたいという目標や心理は様々な場面で生起します。

インストラクショナル・デザインの理論として知られる「9教授事象」に「学習者の注意を喚起」という教師の働きかけが含まれていることからも分かるように,教育の世界でも意識を向けさせることが学習の重要な出発点であると考えられているのです。

学校教育が割り当てられた時間と場所に従って用意された授業という形態を利用して学習者の注意をこちらに向けさせる術を持っているのに対して,広告業界は仕切りのない日常という世界の中で,ルール無用の注意喚起を繰り広げて勝ち抜き合戦を展開しています。

あらゆる手を尽くして広告を打つ努力は,街角の巨大広告や新聞の一面広告といったシンプルに目立たせる方法から,どんどん高度化複雑化して,もはや倫理的な壁も越えてしまいつつあるようです。正確に書くならば,もう越えてしまっているのでしょう。

人々の目を引くための広告は,芸術や文化として見ることも可能である一方,人々の意識に働きかける広告は,倫理や規範に強く影響を与えるものとなります。

最近,いくつかのPR動画や広告動画に対して批判的な意見がネット上で広がり,いわゆる「炎上」していたようです。

動画に女性が登場し,性的な連想を抱かせる演出になっていたこと。

それら動画を閲覧した少なくない人々が違和感や嫌悪感を抱き,騒ぎになったようです。そして広告発注したクライアントに対してクレームが届き,何らかの形の釈明が行なわれたという流れになります。

広告にクレームが付くことは目新しい話ではなく,それがネットの時代に届きやすくなったということにすぎません。広告に対する違和感や不快感の程度は,社会通念的なものだけでなく個人的なものも存在するため,ここで議論する範疇を越えますが,人々の意識に働きかける機能が広告に備わっていることを考えると,慎重な検討が必要になるでしょう。

ただ,すでに私たちは,広告がわざと私たちの違和感・不快感を惹起させることで注目を集めていることを知っています。「炎上マーケティング」と呼ばれる手法です。今回問題となった動画も,それを意図的に狙ったものではないかという指摘がなされており,それを批判するネット記事も書かれています。

不快感を抱かせる広告自体が問題なのではなく,それをあえて公開して炎上を生むことで注目度を上げようとする意図が問題なのだと。

ところが,すでに私たちは,この炎上マーケティングに対する批判さえも,より広い範囲の人々に問題広告の存在を知らしめる働きをして,結果的には共犯関係に陥っていることを知っています。しかも,炎上マーケティング批判記事自体がネット広告収入のために自らのアクセス数を稼ぎたがっているわけですから,ある意味では便乗商法的です。

そのような,結局全員まるっとグルだった,という状況を私たちは知りながら,話題の入れ替わるスパンが短くなっているネットワークの世界の中で一つ一つを忘却に追いやって,次くる炎上ネタをこなしているという構図になっているのだと思います。

炎上の可能性がある広告であっても,公開の規模やタイミング,クライアントの格や広告の力の入れ具合など,批判側解釈の匙加減一つで,そうなるものとそうならないものも出てきます。

たとえば(と書くことでこのブログも共犯関係に位置づきますが…),サントリー社のビール製品広告とUHA味覚糖社のグミ製品広告を比較することは興味深いと考えています。

また,サントリー社のビール製品広告にとっては,タイミング的にハイネケンビールのコンセプトCMが話題になっていたこともあり,それとの対比も炎上に与したのかも知れません。

私はすっかり見逃してしまいましたが(関係者による事前の広報活動はすごかったのに…),NHKスペシャル枠で放送された「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」は,ツッコミどころ満載の番組で,ネット界隈では炎上しつつあるようです。

テレビ番組も視聴を集めなければ何も始まらないと考えられているものの一つ。

短いスパンでくるくる向きが変わってしまう人々の意識を,こちらに向けさせることの難しさの中で,どこは諦めてどこを譲らず踏ん張るのか,態度の取り方はより悩ましくなっているなと思います。

情報処理教育とプログラミング

日々流れてくるプログラミング教育に関する様々な言説を眺めながら,私は過去の史料を紐解いているところです。

1970年代あたりのものから取り掛かっていますが,ちょうど「情報処理教育」を高等学校で本格的に取り入れる頃の記事や論考が並びます。

そして,ご想像通り,使われている流行り言葉こそ違えど,今日論じられていることと,ほとんど変わらない。技術者需要への対応や,情報化社会を主体的に生きることができるように次の世代を育成しようという発想,先生の問題と設備の問題など。彼の国がコンピュータ・サイエンスに取り組んでいるといった諸外国への認識も,すでに当時からあったようです。

プログラミングといった専門技術にまつわる様々な立場による様々な解釈同士の衝突も,当時の座談会記事などを読んでいると,時代を問わず似たような形で再来しているのだなと分かります。

40年以上も前に出尽くしていた問題が,いまも変わらず課題というのは,積み残しをしたからなのか,新たに出てきた同形の問題なのか,これも見解はいろいろあるのでしょう。

小学校段階でのプログラミング体験の導入に注目が集まっている昨今ですが,中学校の技術・家庭科における「情報の技術」での扱われ方も,注目すべき箇所です。現行のあっさりとした記述に比べると,改訂ではより生活や社会との繋がりを意識するように文言が書き込まれています。

具体的には「生活や社会における問題を,ネットワークを利用した双方向性のあるコンテンツのプログラミングによって解決する活動」と「生活や社会における問題を,計測・制御のプログラミングによって解決する活動」を通して,各事項を身に付けるといった表記形式です。

現行では「プログラム」という言葉しか使用されていなかったものが,「プログラミング」に置き換わったあたりは,小学校段階から中学校段階,そして今後出てくる高等学校段階との間で用語を統一しようとする動きなのだろうと思いますし,深堀していくと面白く論じられそうです。

ただ,教えられる人を育てて配置できるかどうか。その問題の存在も昔から変わっていないようです。「プログラミング」としたことが吉と出るか凶と出るか。まだ先を見通すのは難しそうです。

フリーハンドの確保

「教育情報セキュリティポリシーに関するガイドライン(案)」がパブリックコメントを募集中です。

160余ものページで構成されたポリシー例文や解説文は圧巻で、朝日新聞はこれを「指針案」と報じていたりもします。ガイドラインに従ってそのままポリシー作成したとしても、ポリシー維持・運用のコストをそれなりに覚悟しなければなりません。

セキュリティは重大です。

セキュリティポリシーを策定するため、これだけ大きいボリュームの項目を検討するのは必要不可欠なことです。

しかし、ガイドラインはリスク対策をメインとしているため、業務負担軽減について言及はしているものの、利用者側の利便性あるいはフリーハンドを確保するための組織的・制度的な回路の必要性までは読み手に意識させていません。

セキュリティポリシーガイドラインの役目ではないとすれば、セキュリティと利便性におけるせめぎ合いの重要性をガイダンスするのは、どこで担保すべきなのでしょうか。

現時点では、セキュリティの重要性だけが肥大的に受容され、利便性やフリーハンドを犠牲にすることはやむを得ないという考え方が一般的になりつつあります。

しかし、本当にそれで良いのでしょうか。

厳格なセキュリティポリシーのもとで、学校からの外部インターネット利用に支障が生じている例があることは、一部で知られていることです。そうした事例に陥らないための方策がガイドラインに示されているようには見受けられない点に懸念を抱きます。

残念ながら、昨今の教育とICT周辺における議論は、様々に偏在しているものの繋がりが乏しく、批判的な対話や多様な解釈を掘り起こして積み上げていくようにはなっていません。もっともこれは教育の言説についても同様な傾向があるかも知れません。

たとえば少し前に、デジタル教科書について推進派と否定派が議論していた、とご記憶の方もいるかも知れませんが、果たして、デジタル教科書の推進派と否定派が真っ当に存在して、ちゃんと対立軸を設定したような議論を展開していたのでしょうか。もっと根本的に見返すならば、デジタル教科書なる論題がそもそも成立し得たのかどうか。それを議論の俎上に載せること自体に商業的・政治的な一種の利益誘導の目論みがあったとしたら、本当の意味で国民や子どもたちのための議論でありえたのか。

こうした多様な着眼によって、教育とICT周辺は議論を交わして検討されなくてはならないはずです。

ところが、困ったことにそういう議論を担う論者が少ない。論者人口の少なさは、多様な着眼による議論には大きな足枷です。まして多くの論者が何かしらの要職についている現実は、ある種の健全さを欠いていることになります。

文部科学省からセキュリティポリシーガイドラインが提示されたことは、国による指針が示されたことを評価する立場からすれば、善きことのように受け止められます。パブリックコメントを受け付けることによって、策定の透明性を確保することにはなっています。

しかし、パブリックコメントの一往復半のやりとりだけでは、本当の意味でのパブリックコメントの尊重にはなりません。であれば、策定後にも継続的に批判的な検討が加えられ、国民はその議論の蓄積をもう一方の重しとして策定されたものと接することが健全な態度です。

ところが、その批判的な検討を加える論者が不在であっては、国民は無批判な受容を強いられてしまいます。

セキュリティポリシー自体の策定と受容でも同様です。

セキュリティの確保を不断の見直しと努力で維持していくことが謳われるのと同様に、利用者の利便性とフリーハンドの確保を不断の見直しと努力によって押し広げていくことも行なわれて然るべきです。

それが可能になるような仕組みをセキュリティポリシーと並列した次元で構築しておくことが大事になっていきます。

いずれ技術進歩によってセキュリティと利便性の両立はさらに進みます。

その時になってもポリシーを緩めることができず、できるものができない状況を生むことがないようにしたいものです。

データ処理としてプログラミング教育を考える

6月に行なわれた日本カリキュラム学会に参加して、3月に告示された学習指導要領に関する議論にいろいろ触れてきました。学会の性格上、個別の内容について善し悪しを論じるというよりは、学習指導要領の成立過程や影響について注目して議論が行なわれました。

その中でも、初等教育への「プログラミング教育」導入は、3回の有識者会議(「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」)だけで教科横断的に受け入れを飲み込ませてしまったことなど、行政手続法の精神に鑑みて不適切さが残り、唐突感が否めないという指摘もなされました。

プログラミング教育を2017年3月告示の学習指導要領に盛り込むためにとった手続きの是非について、立場によっては不適切論を一蹴する人たちも居るでしょう。

今次の改訂に盛り込まなければ10年後になってしまう、であるとか。コンピュータ技術に触れて学ぶことは喫緊の課題であるから今回の手続きは相応なものであった、という見解もあると思います。物事には場合によって形式的手続を省略すべきときがあるのも、大人の世界ではよくあることです。

学習指導要領改訂の背景で「子供たちに、情報化やグローバル化など急激な社会的変化の中でも、未来の創り手となるために必要な知識や力を確実に備えることのできる学校教育を実現します。」と謳った以上、プログラミング教育は何が何でも盛り込みたかったのでしょうし、有識者会議を3回(2016年 5/13, 5/19, 6/3)にせざるを得なかったのは、すでに2015年11月から始まっていた各教科等のワーキンググループの議論が、グループによって4〜8回ほど検討を重ねていたため、なるべく早く対応を求めたかったという事情もあったと考えられます。

いずれにしても行政手続的な妥当性については、別途ちゃんとした議論が必要になるでしょう。

一方、プログラミング教育にまつわる議論は、率直に言って、おかしな方向へ転がっています。

どの識者や論者の主張も、理屈として必要性を述べることはできていても、個々の学校で取り組む理由や文脈を作り出すところまで繋げられるよう説得的には論じられていません。(参考リンク

グラフィカルなプログラミングツールやロボット制御の実践は華やかで、その一つ一つの持つ面白さや効果について疑うわけではありません。とはいえ、それを学校の文脈に馴染ませるためには、大文字の必要性を自校の必要性にブレークダウンしなければならないはずで、それに成功している事例は滅多にありません。(大文字のまま受け取って納得し楽しめているのであれば、それはそれで一つの在り方です)

たとえば、小学校段階の「プログラミング教育」を「プログラミング技術習得ではない」「プログラマー育成ではない」と断わらなければならないのは、それを教えられる人がいないという現実を配慮した結果だといえば、理にかなっているように思えます。しかし、そのために「プログラミング的思考」という言葉を作って、情報技術の進展した社会における問題解決のための論理的思考を養うものだとしたところから、議論はねじれを生むだけでした。

有識者会議の議論の取りまとめは、総花的であるため、一方で論理的な記号操作レベルによって一連の意図した処理が行なえることを関知させることをねらい、一方で身近な場面で論理的な思考が役立つことを実感させて自分の生活レベルで生かそうとすることを求めるという、両者の間に大きな飛躍を必要とするものが共存する形になっています。

人工知能や第四次産業が建前であることはよいとして、そこから、全国の様々な市区町村が設置者である小学校という場で、自校がプログラミング教育を積極的に取り組む理由へとつなげるための、その言葉がまるで紡ぎ出されていないのです。

全国に散らばる各地域の立場で想像してみてください。

地域の子供たちが未来の創り手になることに異論はないとしても、そのためにカリキュラム・マネジメントの手間をかけてプログラミング教育を取り入れる内発的動機を抱くことは、それぞれの地域において難しくないでしょうか。

地域に根ざした学校教育という文脈に、情報化やグローバル化の文脈を接合するために「現実直視」や「危機意識」だけを外から持ち込めば、それで事は動くのでしょうか。そこで提示されているのがゲームやロボットを題材にした実践ばかりであったとき、説得力を持ち得るのでしょうか。

何のための「プログラミング教育」であるのか。教師一人ひとりが自身で構築すべき理路のために提供されている言葉や視野は、あまりに少な過ぎます。

Jeannette M. Wing氏は「Computational Thinking」(コンピュテーショナル・シンキング/計算論的思考)という論稿で、プログラミング的思考の元ネタである計算論的思考について「コードをデータとして,データをコードとして解釈すること」と記述しています。

コンピュータプログラミングの世界では、アルゴリズムだけでなく必ずデータ構造の存在を言及するのが通例です。アルゴリズムに関する古典的著作『アート・オブ・コンピュータ・プログラミング』第1巻も情報構造(データ構造)に関して一章割かれていますし、その他多くの教科書がデータ構造の重要性に言及しています。

そもそも学習指導要領が「情報活用能力」の育成を目指してきたこと、高等学校の数学Iでデータ分析の単元が含まれていること等を踏まえれば、学校でデータを扱うことの重要性についてもっと論を展開すべきであることは合点の得やすい話です。

プログラミングとくると「アルゴリズム」を想起しやすいですが、ここで注目すべきは「データ」ではないか。プログラミングをデータ処理の手段として眺め直したところで、プログラミング教育を組み立てていくと、様々な議論が先へ進み出すのではないかと考えています。

データ処理としてのプログラミング教育。

たとえば、従来提示されてきた、ゲームやロボットを題材としたものも、データによって駆動している/されているという視点で捉え直すことは可能です。有識者会議の議論の取りまとめも音楽に関する記述で、音や曲をデータとして捉える視点が含まれていたと読みとることができます。

こうしたデータ的な視点で話を膨らましていきましょう。

人工知能に関する近年の注目は、ビッグデータを前提とした機械学習のブレークスルーにありました。これはプログラミング技術の進歩というよりも、データ処理技術の進歩であり、人工知能デザインに必要なのはプログラミング技術というよりも学習データデザインの技術といってよくなっています。

全国の地域社会にとって、地域の統計データは、利活用によって様々な可能性を生み出す資産だといえます。地域活性化やコミュニティデザインの取組みにおいて、地域の様々な情報をデータ化し、ビジュアライズしていくことは重要な手段となっています。地域を学ぶこと、それは地域のデータを学ぶこと。そして、地域のオープンデータと関わっていくという活動の中でデータ処理を学んでいくようにデザインすることも一つのやり方です。

昨今は収集された個人情報こそがビジネス価値の源泉と言われています。ビジネスにおけるデータ分析やデータ加工の技能は、プログラミング技能を上回って重要なものです。

データを扱う基礎技能は、国語や算数数学における表やグラフ等に対する情報リテラシー学習に始まり、理科の実験データ記録や加工、社会科における統計データ解釈といった主要教科での要素によって養われているわけで、これをさらに他教科の中にも再発見していくことは難しいことではありません。

こうしたデータを処理する手段として、アナログ的な処理から始めつつも、プログラミングによる計算処理へと繋げていくことで、その意義や可能性を学ぶことも盛り込めるのではないでしょうか。アンプラグドからプラグドへの流れも位置づけやすいということです。

これは単なる見せ方の違いだ、という指摘もあり得ます。

そう考えてもよいと思います。

ここまであちこちで披露されているプログラミング教育の実践事例について、私自身は否定をしているつもりはありません。お菓子を使ったプログラミングも試みとしては大いに結構。目標に応じてどのような方法を開発したり選択するかは、当事者や学習者が決めればよいことです。

ただ、プログラミング教育について、なにゆえ、こんなにも議論しにくい状況が生まれているのか。

解説の言葉、「〜ではない」という言葉が飛び交う中で、結局のところプログラミング教育とは何をするのかという「答え探し」が終らない現実。

こういう状況を解きほぐす一つの糸口として「データ」処理から考えるプログラミング教育という語り方を提示してみるのも重要かなと、私は考えています。

現在の記録と発信が未来の情報

私が学際情報学という学問を学んでいたとき,アーカイブについて勉強する機会がありました。

資料の保存と公開,そのための管理。

それがアーカイブというものの漠然とした説明になりますが,私はその奥深さの一端を垣間見て,専門家には程遠いとしても,その行為や活動の重要性を尊重しなければならないと思ったのでした。

いま,りん研究室が取り組んでいるのは,教育と情報の歴史です。

歴史資料の蒐集,整理,分析を行ない,現在と今後への示唆となる考察を加えていく活動を柱としています。基本的に過去を追いかけています。

しかし,過去を追いかけるためには資料が必要になります。記憶だけでは無理です。

過去に資料が作成されて保管され,現在の私たちが資料を入手し参照することで,初めて過去を追いかけることができます。人間の記憶も,何かしらの資料として記録されていなければ,忘れられてしまうか,そうでなくとも呼び覚ますことが難しくなります。

資料の保管と公開。

歴史を追いかける活動にとって,それがどれほど重要であるか,調べ事をするたびに痛感します。

過去を扱うのはとても難しいです。

分析や考察の際,何を拠り所にするのかという問題と,どう解釈するのかという問題とそれらをもとに何を示唆するのかという問題が複雑に組み合わさるからです。

たとえば,残された情報が無かったり少な過ぎても困るし,逆に多すぎても困ります。一次情報(primary source)と二次情報(secondary source)の扱いにも注意は必要です(世の中には三次情報 tertiary sourceという言葉さえ出てきています)。

たとえば,記録された情報をポジティブに読みとくのか,ネガティブに読みとくのかで,過去の見せ方が変わり得ます。

たとえば,過去の歴史事象を踏まえて,肯定的な示唆や助言をするのか,否定的な示唆や批判を加えるのかも選択次第です。

資料があれば,すべて解決されるわけではない。これも肝に銘じなければなりません。

私自身,いま生きている日々の出来事について,分かっていると思い込んで,あえて記録や発信することを面倒くさがったり,後手に回したりすることがあります。

しかし現在は過去に移行して,磨りガラスの向こう側へと移ってしまうことに気づきます。まだ見えているつもりでも,確実に遠ざかり見えなくなっていきます。そうなってからハッとして記録を残そうとすることを繰り返しています。

確かにこの界隈では「ポスト・トゥルース」「オルタナティブ・ファクト」「フェイク・ニュース」といった言葉が飛び交い,日本の私たちも「風評」や「デマ」や「虚偽」や「誤報」といった言葉に悩まされ続けている毎日です。過去だけでなく,現在をつかまえるのさえ難しく感じます。

情報があれば,すべて解決されるわけではない。これも肝に銘じなければなりません。

 

それでも「今日の記録と発信が明日の情報になる」のだということ。

 

そのことを,今日という日にあらためて思うのです。