教育データ標準に花束を

「教育データ標準」について考える駄文の続きです。(前回

文部科学省が取り組んでいる「教育データ標準」という取り組みは,サービス提供者や使用者が「相互に交換,蓄積,分析が可能となるように収集するデータの意味を揃えること」を目的としています。

データの意味を揃える」というのは,たとえば,アンケート質問に対する選択肢を統一するような試みのことです。

「職業」の選択肢を用意するとき,「学生/社会人/…」とするか,「小・中学生/高校生/大学生/サラリーマン/自営業/…」とするか。これがバラバラだと調査結果の比較が面倒になるのと同じで,教育データも記録するデータの意味を揃えないと交換,蓄積,分析で面倒が生ずるというわけです。こういうのを「データの桁を揃える」みたいに表現することもあります。

ちなみに,心理学における心理測定(心理アンケート調査)の世界では「尺度集」というものが蓄積されており,これを共有することで,別々に実施された測定結果を比較検討できるような文化があります。いろんなジャンルのものがありますが,子どもの発達に関係するものを集めた『心理測定尺度集IV 子どもの発達を支える〈対人関係・適応〉』(サイエンス社)は有名です。

さて,教育データ標準のお話。この取り組みはいま3年目を迎えています。

これまで「学習指導要領コード」と「学校コード」を公表し,さらに児童生徒と教職員と学校と教育委員会という「主体情報」に関するデータ項目の定義を公表しました。下のリンクが文部科学省「教育データ標準」のWebサイトになります。

前回も見ましたが再度,そこで公開されている「主体情報」のデータ項目の一覧を覗いてみましょう。

画像はExcelファイルにリンクしています。

図の文字が小さくて読めないとは思いますが,児童生徒の主体情報についてずら〜っと項目が羅列されていることが分かります。

「こんなにたくさんのデータ項目をつくって個人の情報を記録するのか!!」と抵抗感を抱きたくなりますが,こういうものはあらかじめ用意しておくことに意味があります。

つまり,データをしまう場所は確保しておくけど,実際にデータをしまうかどうかは別の話。

たとえば「ミドルネーム」という項目は,日本ではミドルネームもっている人がまだ少ないので,実際には使わない空っぽな項目になりがちです。だからといって,この項目定義をけずってしまったら,ミドルネームを持っている人達が自分の名前を記録できなくなってしまいます。

文部科学省の説明では…

(留意点)
・標準化の対象はデータの全てを教育データ項目を網羅しているものではなく、データの相互運用性を図る観点から全国的な定義の統一が必要なものを中心に優先的に整備している。
・ここで定義している情報を各学校等で集めなければならないものではない。(法令等で規定されている情報等は当該規定に従う必要がある。)
・標準項目以外に各学校設置者、学校で必要と考えるデータがあれば独自に定義して活用することは可能。

という留意点が付されています。「これが全部じゃないよ」「全部集めるわけじゃないよ」「新たに項目作っていいよ」というわけです。

児童生徒の名前は「fullName」という定義名にして,一方,教職員の名前は「staffFullName」という定義名にすれば区別がつくでしょ…といった約束事が項目ごとにずら〜っと決められている。そのことがとても大事だということです。

教育データ標準とは,たとえて言えば,種類の豊富なバイキングメニューです

私たちは食べたいだけのメニューをバイキングから選んでトレイ皿の上に盛りつけていくことになりますが,とはいえ栄養バランスにも気をつけたいので定番メニューは押さえつつ選ぶといった調子になるわけです。

教育データの場合,好き勝手な組合せでは具合が悪いこともあります。そこで,おすすめの組合せ「推奨データセット」なるものを用意して,どれを選んだらよいか迷う人達に提示しようというアイデアも出ています。

とはいえ,このおすすめセットの選定は,言うほど簡単ではありません。

「主体情報」(個人情報)といった,特定対象物を表現するためのデータセットを決めることは,ある程度分かりやすい作業です。

しかし,教育データは「主体情報」×「活動情報」×「内容情報」という異なる区分を掛け合わせることが前提となります。これは「個人データ」+「成績データ」といったシンプルな話に留まり得ないということです。

いや,どうも周りの皆さんは,そのシンプルな話にしたがっているようです。

〈教育データセット〉=「個人データ」+「成績データ」という構成で利用されると想定できれば,〈教育データセット〉−「個人データ」によって匿名化された成績データの集合をビッグデータ分析が可能であるともっていけるからです。

これを〈教育データセット〉=「個人データ」+「活動データ」+「成績データ」としても同じような論法で分析の対象に出来るということかも知れません。

確かに,現実的にはそういう教育データの推奨セットを提示することになるのかも知れない。

けれども,それは前回の駄文で書いたように,管理者や開発者には意味があるとしても,利用者にとっての教育データセットとしての意味は生み出せるんだろうか?と疑問符が浮かぶわけです。

もう一度,教育データ標準が描いている情報の区分を見てみましょう。

教育データ標準というバイキングメニューから,データセットを盛りつけるだけの準備は整っていません。用意できたメニューは〈主体情報〉のデータ項目と学校コード,〈内容情報〉の学習指導要領コードだけです。

大きな区分の残りひとつ〈活動情報〉を記録するためのデータ項目も早く定義しなければなりません。

文部科学省としては〈活動情報〉を児童生徒の「生活活動」と「学習活動」,教職員の「指導活動」に区分して検討することを考えているようです。これはこれで検討をしてもよいでしょう。

けれども,いよいよ〈主体情報〉×〈内容情報〉×〈活動情報〉のデータセットを考えるとなると,実はこれらを盛りつけるための「トレイ皿」に注目しなければなりません。

仮に呼ぶなら「教育データコンテナ」という捉え方で教育データを組み合わせる必要があります。

コンテナといっても,別にそれほど大そうなものではありません。

たとえば校務や学習系アプリケーションで利用されている名簿交換の技術標準であるOneRosterワンロースター)では,複数のCSVファイルを束ねる形も採用していて,「manifest.csv」というコントロールファイルで複数のCSVファイルの管理情報を記録するように定めています。これも言ってみればコンテナのようなものです。

〈主体情報〉〈内容情報〉〈活動情報〉を束ねるコントロール情報を含んだ「教育データコンテナ」として扱うようにすれば,今後新たな情報区分が増えたとしても教育データコンテナに加えるだけで対応ができます。

〈主体情報〉〈内容情報〉〈活動情報〉を「〈主体情報〉+〈内容情報〉+〈活動情報〉」して,これを教育データコンテナとして扱うことも可能ですが,繰り返すように「〈主体情報〉×〈内容情報〉×〈活動情報〉」する形で扱うことを考えたいのです。

さっきから,足し算と掛け算で何が表わしたいのか,読者には意味不明かも知れません。

端的には,教育データコンテナ自体にデータ本体を保持するかしないかの違い,といってもよいかも知れません。

たとえば,教育データコンテナに〈主体情報〉そのものは保持されない,あるいは識別子のみ保持されるといった構成です。識別子がある場合も,識別子からAPI等で主体情報にさかのぼれる場合と,主体から一方方向に認証できるだけの場合が考えられます。設定次第で教育データコンテナを分析研究用のビッグデータセットとして直接利用できるかも知れません。

個人的に,教育データコンテナは〈活動情報〉を土台としたものになると考えていて,そこに〈内容情報〉が内包される形をとるのが自然ではないかと考えています。活動を単位とした教育データコンテナが無数に生成されるというイメージです。そして,無数にある教育データコンテナの中から関係するものが〈主体情報〉によって領有されるというわけです。(逆に言えば,手放すこともできる理屈です。)

そうなると,当然のことながら教育データコンテナを格納していく場所が必要になることが見えてきます。

この場合の「格納」は技術的にデータを記録保持する場所という意味もあり得ますが,もう少し抽象的なデザインレベルの議論を続けさせてもらうと,私たちが教育データコンテナ(活動単位)を把握するための枠組みが必要だということです。

それは,もうシンプルに「タイムライン」を考えればよいのではないかと考えています。

この部分は,教育データコンテナを格納するアイデア次第で,いろんな広がりが生まれる部分と考えていて,うまくいけば学習eポートフォリオに再び光が当たるかも知れない領域ですが,技術的な設計をちゃんと組み立てて,それを一般の皆さんにも理解してもらわないと,また個人データが私企業に流れるとかなんとかで誤解を受けてしまいかねないところだと思います。

ただ,少なくとも「学校タイムライン」は教育データ標準の範疇で扱えるのではないかなと考えています。

ここで視点を変えて,学校の教育活動をデータとして整えていくことを考えてみたいのです。

今後,学習者一人ひとりの学習活動のパスウェイ(道筋)はますます多様化していきます。それを学習者タイムラインとして記録していくというアプローチも当然あってよく,自分の学習履歴が教育データコンテナの集積として時系列的に記録されるというのはイメージしやすいと思います。

もう一方で,学校という場はどうなっていくのか。

時間割どおりの授業が展開する昔ながらの風景が続くところもあるでしょうし,チャイムもなく学習活動は個人個人のプランにもとづいて展開していくといった学校も当たり前のように存在するかも知れません。あるいは,もう実空間に集まるといった形ではない遠隔や仮想空間上のコミュニケーションとして学校という場が存在することもあるかも知れない。

いかなる形の学習活動(それを記録する教育データコンテナ)が生成されるとしても,それを学校という場の活動として取り込み位置づけることが必要です。まぁ,そんなに多様な現実になったら,そこまで「学校」という枠組みに固執しなくてよいんじゃないかとは思いますけれど,とにかく学校が存在するというならば,学校として教育データコンテナを格納できるような土台を用意しておきたいわけです。そんな土台が必要ないというならば,逆説的にもはや学校という場もいらないということです。

学校タイムラインは,素朴に表現すれば一番最初に言及した「時間割」をベースにしたものです。

昭和な学校を想定して説明するなら,何年何月何日の月曜日1時間目といった「活動時間枠」毎にどんな集団がどんな活動を行なったのか,時間割の情報をもとに学校タイムラインの土台を整えておくのです。

この学校タイムラインの土台が整うだけで何が可能になるかというと,「このクラスの先週火曜日の3時間目は何の授業だった?」という検索に対して答えられるようになるということです。

たとえば,AlexaとかGoogleアシスタントとかSiriと接続してみたとしましょう。

社会科の先生が,昨日の2時間目に社会科授業をしていて,今日は3時間目に社会科授業の続きをする状況を想像します。いざ授業を始めるときに先生はパソコンにこう呼びかけるのです。

「OK,昨日のスライド表示して」

するとAIアシスタントは,学校タイムラインの情報をもとに,現在が社会科授業であることを察知し,次に昨日の授業から社会科が実施された時間帯を検索し,その時間帯に開かれたスライドファイルをパソコンから呼び出してスクリーンに投影する…なんてことが可能になります。

これは学校タイムラインの情報だけを利用した想像事例ですが,このように学校のカリキュラムを時間割ベースでデータ化した学校タイムラインを土台に,学習集団の名簿データや教育データコンテナとのリレーション(関連)を結んでいくことによって,学習者の学習活動を学校タイムラインに配していくことが可能になります。

もちろん,教育データコンテナを児童生徒の主体情報とセットで学校タイムラインに結びつけていくためには,初めの段階で学習者から学校関係者に対して情報アクセスに関する包括的な許諾を手続きする必要があると思われます。こうした学習者の領有する教育データに対する学校関係者のアクセス権は,在学期間中に限定するなどの時限式であったりもするかも知れません。

いずれにしても,学習者は自身の学習者タイムラインの上に教育データコンテナをプロットすることによって学習履歴をコントロールできるし,学校関係者も許諾にもとづき学校タイムラインのもとで教育データコンテナへのアクセスが可能になるというデザインです。

これとは別に学習eポートフォリオのような形で教育データコンテナをプロットできる仕組みが出来れば,それを転校する際の教育データの受け渡しフォーマットとして利用することができるかも知れません。それはそれで交換用のフォーマットを考える必要があると思いますが…。

今回は,図の作成まで手が回っていないので,まさに駄文の羅列でアイデアを書き連ねることとなり,伝わるものも伝わらない感じになっているかも知れません。

途中,考えるために作図はしていましたが,ラフなもので,完成もしていません。

雰囲気だけ…

実際の「教育データ標準」的には,活動情報についてはオンラインコースの学習履歴を記録する技術標準を土台に考えたがっているようで,果たして私たちの実際の学校の教育活動にどれだけフィットするものになるかは,正直よく分かりません。

途中にも書いたように,単なる学習成果のみならず,学習活動の道筋(パスウェイ)も重視されるようになるとすれば,単なる学習コースの履歴だけでなく,異なる学習活動が組み合わさった道筋自体を表現できるデータ構造が必要になってくるはずです。

今回の妄想は,そのパスウェイをタイムラインとして表現したわけですが,あるいはそれはマップという表現形式かも知れませんし,それはいろいろあり得ると思われます。

そのいろいろ様々あり得るということを考えると,私たちは教育データ標準を決めるというだけでなく,教育データ標準を定期的あるいは継続的にアップデートするプロセスなり体制なりを確立することの方が重要なのではないかとも思えます。

物事は生み出している間は活発にやれていても,ピークに達すると衰退していくのが常。

そのことが分かっているなら,むしろその対処を真剣に考えることの方が重要に思えます。

コンピューター学校出現!!

昭和の少年少女雑誌を中心に掲載されていた「空想科学画」や「未来予想図」は,ときどき話題になることがあるのでご覧になった人は多いだろう。

ネットで検索すればいくつも閲覧できるが,そうしたイラストを収録した図書も刊行されている。

『昭和ちびっこ未来画報 - ぼくらの21世紀』(青幻舎)
https://www.seigensha.com/books/978-4-86152-315-1/
『昭和少年SF大図鑑』(河出書房新社)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309750378/

こうしたイラストレーションを描く画家としてブームの初期から活躍した人気の挿絵画家が小松崎茂氏だ。そして教育の情報化に関心を寄せる私たちにとって,無視することができない作品が「コンピュータ学校出現!!」である。

小松崎茂(1969)「コンピューター学校出現!!
「みんな未来予想に夢中だった 100年前に描かれた「百年後の日本」」(朝日GLOBE+)
https://globe.asahi.com/article/12786581

シュールな設定とサスペンスフルな絵柄が相まって,小松崎の未来予想図作品は独特な雰囲気を纏う。半分は下手な空想だと笑えるし,半分は得体のしれない不安を抱かせる。

GIGA端末は,コンピューター学校のロボットのように子どもの頭をこづきはしない。

その代わり,学習の難所を気づかせるようなガイドやナッジ(つつき)をきかせてくる。

ホッとしてもよいだろうか。

今日は大学院の学生と1 on 1授業だった。

授業の議論は教育ICTをテーマにしていなかったが,昨今の文教施策のほとんどがICT活用や教育DXを推進する流れにあって,議論も自然とそちらに向いてしまった。

ICTやデジタル技術の活用による教育現場の変革は,本当に私たちの望むものなんだろうか。そんな身もふたもない疑問を,恥ずかしげもなく私より若い世代に投げかけた。

デジタル化がもたらす効用は確かにある。実際,それで便利に物事を処理している。仕事のやり方も変わったかも知れない。その変化は価値観にも及ぶだろう。

しかし,さて,完璧ではないとしても,その効用はまだ足りていないのだろうか。「デジタルならでは」の何かを享受し足りない!と渇望しなければならない立ち位置なのだろうか。

もちろん,行政事務や業務処理の中にわんさと残っているアナログな部分を速やかにデジタル化して欲しいという要望はある。けれど,これは「デジタルならでは」の希求というよりは,単に「デジタル化する」ことの要望である。

「第3回教育振興基本計画部会事務局資料1」(31頁)より

私たちは,後手に回してきた第1段階「デジタイゼーション」の宿題に取り掛かり,あわよくば第2段階「デジタライゼーション」を成果として見せたがっている。そのうえ,タイミングはSociety5.0の議論を要請しているため第3段階「デジタルトランスフォーメーション」が論じられている。

第2段階を成熟させていく中で,何を必要として何は必要と見なさないかが各人の中で見極められなければならないにもかかわらず,まるでそのまま第3段階が連続的に接続されるかのように描いているポンチ絵は,人々の鵜呑みを誘ってはいないのか。

学習の難所を気づかせるシグナルが,通知表示やインフォグラフィックといったガイドやナッジであるうちは,スマート技術などによって順当な第3段階がもたらされるかも知れないと思えたりする。

けれど,腕のデジタルウォッチが通知のための振動を伝えてきたとき,頭ではないにしても,機械にこづかれている自分が居ることに少し驚いてしまうのだ。

成功と失敗の唯一の分岐点

「成功と失敗の唯一の分岐点はエラーの数だ」

ヒューマンエラーを研究する邱氏の『ERROR FREE −世界のトップ企業がこぞって採用したMIT博士のミスを減らす秘訣−』(文響社2022)は,そんな導入で始まっている。

日本の出版物はビジネス書扱いとなると邦題の付け方が長くなりがちなので,以下は英語表記をカタカナに開いて『エラーフリー』にしたい。

無謬性の原則に従ってきた行政官僚の世界に従属している公立学校教育は,どうしても「間違えない」ことを期待されてしまう。子ども達には「間違えさせない」ことを暗に目指していたところもある。

ある意味では「エラーフリー」を目指しているとも言えるが,日本の場合は「エラーは存在しない」というスタンスを確立することが優先されているように見えて,『エラーフリー』が説いている「エラーフリー思考」とは異なっているように思う。

邱氏が説明しいる「エラーフリー思考」は…

1. 人間は誰でもエラーを犯す可能性がある。
2. すべてのエラーは防ぐことができる。
3. エラーにはさまざまな発生源と形式があり,それに応じた解決策がある。
4. 組織の全員が,エラーフリーで仕事を進める方法と,エラーフリーの社内システムを構築する方法を知る必要がある。

という4つの命題で構成されている。

これだけ読むと「エラーを防ぐ」ことに焦点が当たりがちで,日本なら「エラー回避」から「エラーにつながる行為の回避」に思考がめぐりそうである。

ただ,この本で重要なのは「エラーにはさまざまな発生源と形式があり,それに応じた解決策がある。」の部分であり,解決策の妥当性や効果のほどはともかくとして,過去の様々なエラー事例を研究して分析整理したところが興味深い。

それによると,エラーには2つの形式,ヒューマンエラーには3つの型があるという。

エラーの2つの形式
 1.「省略エラー」(omission error)
 2.「誤処理エラー」(commission error)

省略エラー」という日本語字面だと直観的ではないが,「実行しない」エラーという言い方で「なすべきことや下すべき決断があるのに,驕りや迷い,怠慢から,あるいは現状変更に対する恐れから,何もしなかったために起こるエラー」と説明されている。企業の失敗のほとんどが省略エラーに起因しているという。

一方の「誤処理エラー」は,「実行して間違う」エラーであり,「行動して決定も下したが,その決定が間違っていた」というものだ。こうした間違いを犯した多くの企業リーダーが,仮に倒産に結びついたとしてもなお,どこが悪かったか理解できずにいるという。

この2形式を日本の教育行政とか学校教育に重ねて考えるだけでも,いろいろな立ち回りが思い浮かぶ。

ヒューマンエラーの3つの型
 1. 知識型エラー(knowledge-based errors)
 2. 規則型エラー(rule-based errors)
 3. スキル型エラー(skill-based errors)

ヒューマンエラーの型は,仕事内容と関係していて,「知識型エラー」は意思決定,問題解決,交渉,分析,審査,設計,計画,危機管理といった知識を要する仕事で発生するエラー,「規則型エラー」は作業手順書のようなルールやフローにおける規則に従って行なう作業で発生するエラー,「スキル型エラー」は規則的な定型作業を繰り返したことで習熟したスキルとして作業する中で発生するエラーとされる。

『エラーフリー』では,これをマトリクスに置いて,6タイプに分類を進める。

ヒューマンエラーの3つの3タイプと2形式
誤処理エラー 省略エラー
知識型エラー ミステイクエラー 10% 不作為エラー 30%
規則型エラー 遂行エラー 1% 怠慢エラー 5%
スキル型エラー スリップエラー 0.1% ラプスエラー 0.3%

表内の数値はエラー発生率。これらエラーには発生までの潜伏期間がある。またエラーの数は,時間経過とともに増加していく(たとえば根本原因を放置して機会損失を繰り返していくような)イメージであるため,早く対処する必要がある。

こうやってヒューマンエラーを検討したうえで,様々な対応を考えるというのがこの本のメインということになる。とはいえ,型ごとの原因解説やどんな回避策があるかを論じている後続部分は,特段珍しいことを記述したり提案しているわけではない。

たとえば,なぜ歴史は失敗を繰り返すのかという問いに「前の世代が学んだ教訓を次の世代で効果的に変更することができない」という答えを示すが,データやマインドセット研究によって導き出したという点は貴重ではあるものの,説明自体は目新しいわけでもない。

またこの本には,エラーを防止する14のテクノロジー・ポイントを実現するための方策といった提案云々もあるが,この部分は企業向けの色が強いので,日本の学校教育とかの文脈で考えるにはもっとアレンジが必要かも知れない。

いずれにしても,もとから「間違いがないためのエラー回避」を追究してきたような日本では,「わかっちゃいるけどやらないやめられない」ということばかりという感想にならざるを得ないだろうか。

GIGAスクールの時代になって,教育の情報化や教育ICT活用は,一時的にせよ機器環境の問題が取り払われた。いま展開している事柄は,ほとんどヒューマンファクターに基づいた問題や課題だ。だとすれば,『エラーフリー』で示されている分類を参照しながら,丁寧に現状把握してみるのも意味はある。

そうしたとき,おそらく日本は,知識型エラーに対する働きかけはたくさんあるけれど,規則型エラーに対するフォローは意外と弱いのではないかといった分析も浮かび上がるかも知れない。もしくは,そもそもエラー率の割合が過去の分析と全く異なる可能性だってあるかも知れない。

だから,長きにわたるこれまでの教育の情報化に関するアプローチも,まるで的外れなことを続けていた可能性だってあるわけで,無謬性の原則を守るがために踏襲し続けているのだとすれば,そこからの脱却が先なのかも知れない。

もっとも,令和に入って,平成最後の学習指導要領は大胆に方針を変えているし,文部科学省だって組織構成など変えて臨んでいたりするし,コロナ禍が従前のいろいろを壊してくれた側面もある。

そんな状況にあれば,いろんな間違いも当たり前のように生じており,エラーを前提としてそれを回避していくという考え方も受入れやすい。

今回の『エラーフリー』は,「成功と失敗の唯一の分岐点はエラーの数だ」と言及したが,これは決してエラーがあったら成功しないということを意味していない。エラーには種類があって,もちろん致命的なエラーはあれど,発生しても掌握できるエラーもあるのだから,そういうものに対して適切に対処していく経験を積むことも重要だろう。

この本が最後に「機会」というものに触れてエラー情報の共有について言及しているのも,そんなことを期待しているからじゃないかなと思う。

コミュニケーションから捉える教育学習


2021年12月3日に経済産業省・産業構造審議会 商務流通情報分科会 教育イノベーション小委員会 第3回 学びの自律化・個別最適化WG が開催され,傍聴者に対してYouTube配信されました。

テーマは「学習者視点での「教育データ連携と個別学習計画」に基づくパーソナルトレーニングの確立」というもの。パーソナルトレーニングという言葉は,議論のため暫定的に提案されたもののようですが,探究する学習者に寄り添った支援を組織的制度的にどう実現するのかを考えたいようです。

今回のWGの中でデジタルハリウッド大学の佐藤昌宏先生が次のようなスライドを示して,評価の仕組みをアップデートする必要があると提起していました。

YouTube配信より

評価の議論も興味深いのですが、今回取り上げたいのは,座標系の話。

「多様な指導・学習形態」を表わすために用いられている「対面−遠隔/同期−非同期」軸による座標系です。

佐藤昌宏研究室の大学院生さんのWeb記事に,上図とは軸向きがあべこべではありますが、同じような座標系が掲載されているのでそちらもお借りしてみます。

例示に若干のムリクリ感はありますが,なんとなく言いたいことは分かります。


あらためて,「対面−遠隔/同期−非同期」座標系で教育学習の場面を捉えると,そこで提示される場面は(佐藤先生のスライドを大ざっぱに振り返ると…)次のように区分されているようです。

「対面×同期」は,学校の教室での授業のこと。(場所は学校/他者と学習)
「対面×非同期」は,学校での自学自習のこと。(場所は学校/自分で学習)
「遠隔×同期」は,同時参加のオンライン授業のこと。(場所は不問/他者と学習)
「遠隔×非同期」は,学校外の自学自習のこと。(場所は学校外/自分で学習)

これで多様な指導・学習形態をカバーしているともいえるし,逆に区分が曖昧な場合もあって,たとえば授業のオンデマンド動画を受講することは,同期(ライブ)の「オンライン授業」ではないにしても,自宅等でドリルや読書等をする自学習と同じ範疇に入れてもよいのか,という疑問に対しては明解でないともいえます。

もっとも,多様な指導・学習をキレイに分類したものをつくるのは難題です。

学校での対面授業だけ考えていればよかった段階と違い,コンピュータとネットワークの技術を自在に組み合わせて様々な教育・学習形態を生み出せるようになりましたから,二軸では足りないだろうし,仮に軸が増えれば分かりやすく描くのは難しくなるのも当然です。


最近はお蔵入りさせているので,ご披露する機会はありませんが,かなり前は,私が担当している授業や講演の中で「コミュニケーション・モデル」に関する知見から教育学習のコミュニケーションを考える題材を扱っていました。

教育とコミュニケーションモデルに関しては,磯辺武雄「教育過程としてのコミュニケーション・システムに関する考察」が詳しく検討を加えているので参考にしてください。

この先行知見にインスピレーションを得て,簡略化されたコミュニケーションモデルで教育学習活動を整理できないかなと思ったわけです。

まず「同期−非同期」に代わる軸を,コミュニケーションから検討してみようと思います。

コミュニケーションモデルの説明では「導管メタファ」(conduit metaphor)とよばれる捉え方があります。意味は言葉の中に含まれていて,言葉を導管を通して相手に届けることでコミュニケーションが成立するという考え方です。

たとえば,シャノンとウィバーによって提示された「通信システム」の図は,これをよく象徴しています。

クロード・E・シャノン,ワレン・ウィーバー『通信の数学的理論』より

導管メタファによるコミュニケーションのモデルは,情報通信や知識伝達を主目的とする場合には都合のよい捉え方です。こうしたコミュニケーションを「直線的コミュニケーションモデル」と呼んでみます。

(もっとも,シャノンとウィーバーは,この通信システムを検討する際に,通信の問題を3つのレベルに分けて論じており,現実的なコミュニケーションと通信システムの違いについて認識していただろう事は付言しておきます。)

コミュニケーションモデルの議論には,意味は言葉の文脈や相互過程によって生成されるもので,言葉のやり取りを通してコミュニケーションが収束していくことで成立すると考える立場もあります。

たとえば,ロジャーズとキンケイドの「相互理解のコミュニケーションにおける収束過程モデル」はその一例です。

M.ロジャーズ『コミュニケーションの科学』より

こうした相互のやりとりによる過程を重視したコミュニケーションの捉え方にも様々なバリエーションがあるため「導管メタファ」のようなズバリ言い当てた呼び名が決まっていません。

「相互作用モデル」ともいえるし,「相互過程モデル」もありかもしれません。ネットを検索すると「協働構築モデル」という名付けをしているものもありました。江戸時代の学びについて論じた辻本雅史が日本人の受容様式を「染み込み型」と指摘していましたが,そういうニュアンスも含めたい気持ちにもなります。

松岡正剛が『知の編集工学』で「編集の贈り物交換モデル」という図を示しているのを目にしました。

松岡正剛『知の編集工学』より

松岡氏は編集というキーワードで語られる方なので,モデル図が示しているメッセージを包み込む立方体のことを「編集の贈り物」と呼んでいるのですが,それをブレークダウンして呼ぶと「意味の箱」になります。

つまり,送り手は言葉(メッセージ)に何かしらの意味を付与して投げ出し(図では箱に入れて放り出す感じ),一方,受け手は投げ込まれた言葉だけを自分自身の解釈で引っ張り込む(図では自分で用意した意味の箱ですくい取る感じ)でコミュニケーションが展開していきます。(この辺を掘り下げたい場合は,深谷昌弘・田中茂範『コトバの〈意味づけ〉論』などが面白いのではないかと思います。)

この「編集の贈り物交換モデル」の面白いところは,意味の箱が直接相手に渡るわけではなく,メッセージだけが交換されるという点。つまりお互いが似たような意味の箱を生成して収束していかなければならないことを意味しています。場合によっては永遠に収束しないかも知れませんが,コミュニケーション自体は成立するといったところなのです。

それでこのモデルをイメージした「媒介的コミュニケーションモデル」という呼び方を考えて,先の「直線的コミュニケーション」と対にして捉えようと思ったわけです。

これで「直線的−媒介的」という軸ができました。

「同期−非同期」とは違って,情報や知識の理解の方に関心を寄せて軸を作ったことになりますが,これらが同期的に展開するのか,時間差を含んで非同期に展開するのかという視点を交わらせると面白く置き換えられるのではないかと思います。


さて,もう一つ軸を作るにあたって,「対面」と「遠隔」を考えます。

それは「オンライン」と「オフライン」と呼ばれるたりもするわけですが,もう少し違った切り口でこれを表現することはできないだろうか,といつも感じます。

というのも,直接会う「オフライン対面」もあるし,画面越しの「オンライン対面」もあり得るわけで,やがて技術の進歩や革新がオフライン/オンラインを意味のないものにする可能性があるんじゃないかと思われるからです。

そこで,私たちが他者と関係性を持つ場面を想像したときに,何か意識の違いとして区別できるものはないかと考えたときに,「つながり」と「場の共有」という2つの形を思い浮かべられそうでした。

場は共有していないけれども,お互いはつながり合っているという状況を表わす「ネットワーク型」,同じ場を共有してやり取りを展開している状況を表わす「フィールド型」。

これは物理的な空間や手段に規定されるものでは必ずしもないため,場合によっては,バーチャル空間やメタバースといったデジタル空間をフィールドとしたコミュニケーション状況を説明する場合にも使えるのではないかと思っています。

そうなるとこの2つの違いは何なのか?ということになるのですが,今のところ「情報・知識や活動が占める帯域の違い」といった感じなのかなと考えています。

こうして「ネットワーク型−フィールド型」という軸ができました。


「直線的−媒介的」と「ネットワーク型−フィールド型」というコミュニケーションの軸を設定しましたので,これを使って座標系がつくれます。

2010年ごろまでは,この2つの軸を直交させて,単純に掛け合わせてできた4種類のコミュニケーションを紹介したり,説明したりしていました。

その後,長らく寝かしたままでしたが,最近になってこれを見直してみたのです。座標系ではないなと。

それで描き直したのが冒頭の図でした。(下に再掲)

MOOCが話題になったりして,ブレンディッド・ラーニングというのも出てきましたし,最近ではハイブリッド型授業やハイフレックス型授業というのも注目されていましたから,座標ではなくて領域にしてベン図的に表現した方が現実に近そうです。

赤文字が掛け合わせでできたコミュニケーションの説明。

青文字は具体例を考えるとしたらこんな感じ?という書き込みですが,まだ練り足りないかも知れません。


こうやって整理をしたからといって,評価の仕組みの議論には何か役に立つかと問われると,答えに窮してしまいます。単に複雑さを増しただけともいえます。

それでもGIGAスクール構想の実現によってもたらされた情報端末とネットワークの環境が,こうしたコミュニケーションの多様性を学校に持ち込んだことを確認することはできそうです。

こうした多様なコミュニケーションを教育や学習に生かす方法は,まだ見えていない部分もあります。その知見を一歩一歩積み上げていくことが大事なのだろうと思います。


ちなみに,遠隔教育に関しては次のような類型化が行なわれていました。

2018(H30)年の6月と9月に開催された「遠隔教育の推進に向けたタスクフォース」のもとで「遠隔教育の推進に向けた施策方針」(2018年9月14日)がまとめられ,その中に「遠隔授業の推進に向けた類型化」が示されています。

合同授業型」「教師支援型」「教科・科目充実型」です。

これらのポイントを伝える概要資料には次のようなイメージ図が示されました。(資料

この「方針」は,学校教育における遠隔授業という観点でまとめられていることもあって,受信側/送信側を明確にした上で,授業を成立させる遠隔の在り方を類型化しています。

しかし,この方針が検討されたタイミングは,新型コロナウイルス感染拡大によるコロナ禍よりも前。

まさか,すべての児童生徒が自宅等に閉じこめられて,その学習機会を確保するための遠隔教育が必要になるなんて,夢にも思っていなかった中で検討されたものだともいえます。

その他,通信教育の文脈では,N高校のような「広域通信制高校」の急拡大を受けて「「令和の日本型学校教育」の実現に向けた通信制高等学校の在り方に関する調査研究協力者会議」を設置し,新しい時代の通信制教育を議論しています。

コンピュータを使った学力テスト

それをなぜ「学びの保障オンライン学習システム」と呼んだのかは分かりません。

文部科学省がコンピュータを使用して実施するテスト(CBT)を実現するため開発したシステムは「MEXCBT」(メクビット)と名付けられました。

CBTとは「コンピュータ・ベースド・テスティング」(Computer Based Testing)の頭文字をとった言葉で,文字通り,コンピュータ上で受験することを意味しています。コンピュータ使用型調査とも書かれます(紙を使った筆記型調査は「ペーパー・ベースド・テスティング」Paper Based Testingとなるわけです。あまりそう呼ぶことはないですが…)。

つまり,CBTシステムは,テスト実施システムのこと。

ところが,令和2年度補正予算説明で,文部科学省製CBTシステムを「オンライン学習システム」と呼称して,堂々と「CBTシステム」とも併記しています。

この無茶苦茶な呼称混乱は,小さく「・学習(問題解答)実施」と書き添えていることから,命名者達の意図したことをちょっとばかり想像することはできます。(この文言はその後の図では削除されています)

つまり,ドリル問題を解く活動を「学習」だと思えば,「学習システム」と言えなくもないでしょ,という事のよう。

タイミングはコロナ禍によって,全国一斉休校を体験した後です。学校教育が停止し,「学びを止めない」として様々なオンライン教材が提供されたことが社会的にも知られていましたから,それと似たようなものを導入するのだと説明した方が通りがよかったのだろう事も推察されます。

実際,当時の文部科学省の様々な取り組みが「学びの保障」というキーワードで統一的に情報発信していましたから,CBTシステムもその一環に組み入れたのは方略として当然だったのだろうと思います。


こうして,CBTシステムのプロトタイプ版開発事業が始まったわけですが,ロードマップとしてはこうなっています。

そして,MEXCBTのプロトタイプ版は,こんなイメージのシステムです。

利用者には一人ひとりIDとパスワードが割り振られ,MEXCBTシステムのもつ認証システム部分でログインして,CBTシステム部分でテストを行ないます。

場合によっては,この他にも利用している学習コンテンツとかサービスとかがあるでしょうけれど,そちらはそちらで登録して利用しているので,別の範疇ということになります。

上図は,簡略化したイメージです。

正確性を期すため,構想段階の図をNIIシンポジウム資料から拝借したのがこちらになります。(動画資料

プロトタイプ開発を請け負ったのは「内田洋行」(表立っては「オンライン学習システム推進コンソーシアム」)で,国際学力調査で利用されている既存のCBTシステム「TAO」を基盤として,そのCBTシステム部分に,内田洋行が開発した実証用学習eポータルシステム「L-Gate」を認証システム部分として組み合わせたのが「MEXCBTプロトタイプ版」というわけです。

このことが,令和3年後期から始まる「MEXCBT拡張機能版」の活用事業において,他社製の学習eポータルも交え始めたときにややこしさを抱かせることになりますが,その話は後述します。

下が、活用事業を始めるための機能改善や拡充の説明スライドです。

ここでMEXCBTにどんな変化が起ったかというと,認証システム部分とCBTシステム部分を明確に分け始めたことでした。

プロトタイプ版のシステムではくっ付いていた,利用者のログイン作業を担う「認証システム」部分と,問題の出題や解答・採点を担う「CBTシステム」部分を,拡張機能版では分かりやすく引き離したのです。

その上で,「CBTシステム」部分のみを新ロゴのもと「MEXCBT」と呼び,「認証システム」部分は「学習eポータル」と呼んで,いろんな会社が開発して提供してもよい形に移行したわけです。

(システムに出入りする認証システム部分が分離されたといっても,MEXCBT側に直接接続することはできず、必ず認証システム部分である学習eポータル側を経由しなければならないのが上図の肝です。)

文部科学省 総合教育政策局 教育DX推進室の桐生室長は,このようなシステムを部分部分に引き離した形を「ブロック」が組み合わさるイメージで説明します。

たとえば,おもちゃのレゴブロックが一定のルールにもとづきながら多様な部品で大きなブロック作品を構成できるように,このようなコンピュータシステムも,各社が国際規格のルールにもとづいて協調して開発することで,一つの大きな学習・CBTシステムを構築することができると考えるわけです。

かつ,各社が競争的に部品開発を行なってくれれば,特色あるユニークな部品を利用できる可能性も生まれることになります。利用者(この場合,教育委員会レベル)は複数の選択肢から,よりよい「学習eポータル」を選ぶことが求められます。


2021年11月1日に行なわれた「MEXCBT(拡張機能版)」活用に関する説明会の時点では,4社のシステムが名乗りを挙げていました。(順不同)

教育プラットフォーム主要4社がそろって学習eポータルに対応(教育とICT Online)
https://project.nikkeibp.co.jp/pc/atcl/19/06/21/00003/110200287/
どこまでが無料?「学習eポータル」対応サービスを比較
https://project.nikkeibp.co.jp/pc/atcl/19/06/21/00003/111100298/

各社とも,文部科学省が「活用事業」の予算化している間は「無料」提供するとしているので,とにかくどこかのシステムを選択して試してみればよいということになりますが,いずれは本格利用のタイミングで有料化されるため,導入に携わる関係者は頭を悩ませているのです。

そして,ここでややこしい問題は,内田洋行の「L-Gate」です。

内田洋行は,MEXCBTプロトタイプ版の開発にかかわっている会社のため,文部科学省に提供した学習eポータル「実証用学習eポータル L-Gate」とは別に,自分たちで販売できる商品のための学習eポータル「商用学習eポータル」を開発する必要がありました。

文部科学省に差し出したとはいえ「実証用学習eポータル」の開発ではノウハウが蓄積されたでしょうから,別途「商用学習eポータル」を開発するといってもゼロからというわけではなかったはずです。(おそらく実際には逆で,商用開発していたものの機能制限版を実証事業に提供していたと思われます。)

ややこしい問題は,商用と実証用とで同じ「L-Gate」というブランド名を使っていることと,文部科学省に差し出した「実証用学習eポータル」は文部科学省から継続的に無料で提供される予定だということです。

だったら,そのまま実証用でよくない?とか,同じL-Gateに移行したらいいんじゃない?とか,そういうなかなか微妙かつもっともな疑問が出てくるわけです。

ところが,同じ名前なのに実証版から商用版へはそのまま移行できないし,実証用が継続されるという話もいつまでなのかは国の予算次第で,いつ放り出されるかわからない。

4社から選ぶという話は,やはり避けて通れない話なのです。

(20211203追記)

株式会社COMPASS社が,同社のQubenaを学習eポータルとしてMEXCBTと連携できることを発表しました。


学習eポータルに関して,詳細やより専門性の高い解説はこちらの記事が参考になります。

特に,認証システム部分のシングルサインオンに関しては,児童生徒教職員の膨大なアカウントに関わる話ですので,学習eポータル選びで一番重要な検討項目でしょう。3つ目の記事が参考になります。


システムのお話がこうして進行している一方で,CBTシステムを使って行なう学力調査に関しても,準備は進んでいます。

2021年11月26日には,全国地方自治体の関係者を対象とした「地方自治体の学力調査等のCBT化検討研究会」がオンラインで開催されました。

MEXCBTシステムを利用する学力調査は,全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)だけではありません。

それぞれ地方自治体が独自に行なっている地方の学力調査もMEXCBTシステムを利用してCBT化することが可能です。つまり,CBTシステムを各自治体で準備・維持する必要はなくなるうえ,全国や国際的な学力調査もほぼ共通の使い勝手で受験できるメリットがあります。

こうした分かりやすいメリット以外にも,各地方自治体が協力し合うことで,MEXCBTを利用した学力調査をより質の高いものへと育てていくことができるはずですが,そこには課題や問題もあり得ます。

今回の研究会は,MEXCBTシステムを地方の学力調査というより児童生徒に近いところで利用する際,そのメリットを最大限活かすためには何が必要なのか,どんな問題があるのかといったことを共有し,解決策を探り始めるため設置されたと考えることができます。

とはいえ,議論する時間的猶予はそれほど多くは残されていません。

MEXCBTシステムの導入は,全国学力・学習状況調査のCBT化によって避けられない道ですし,CBTシステムから返ってくるデータをどのように児童生徒の学習活動や教職員の教育活動に生かすのかという「データ駆動型」の取り組みにも目配せをしないわけにはいかなくなっています。

こうした情報をなるべく早く吸収しつつ,皆さんの経験や考えのもとで向き合っていく必要があります。