前日のフューチャースクール推進事業の実証校公開授業が終わって、翌日はのんびり週末の大阪を探検しようかと思っていたところ、すぐ近くの関西大学初等部で公開研究会があるというツイートを発見したので、飛び入り参加しました。
関西大学初等部は2010年に新しくできたばかり。ミューズ学習という思考力の育成に挑戦している学校として知られています。機会があれば行ってみたいと考えていて、その機会が突然やって来たのでした。
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カテゴリー: 論考
新しいICTカリキュラムは…
英国でBETTという教育とテクノロジーに関する展示会が行なわれている。毎年大規模に行なわれるので,世界中のICT活用教育関係者が注目したり参加したりしている。
さまざまなブースが構えられた展示会も賑やかだが,同時に開催されているセミナーや講演会なども盛りだくさんで,英国の教育大臣がスピーチする機会もある。
今年の教育大臣(Michael Gove)のスピーチがニュースになっている。
今年9月をめどに現在のICTカリキュラムを抜本的に再設計するための作業に着手するのだという。もっと時代に合ったものにするのだとか。
これだけならば,毎年行なわれるリップサービスみたいなものだが,どうもスピーチの内容が現在のカリキュラムについて過激に表現し,新しいカリキュラムの考え方が大胆でニュースらしい…。
曰く,「現在のカリキュラムはとても取っつきにくく,意欲をかなり喪失させ,全然活気がない(the current curriculum is too off-putting, too demotivating, too dull.)」とか「現在のカリキュラムは英国の学生たちを技術変革の最前線で働けるようにはしない(the current curriculum cannot prepare British students to work at the very forefront of technological change)」など…。
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一部のWeb記事では,WordやExcel,PowePointの代わりにプログラミング教育に力を入れるのだという解釈をしている。
大学におけるコンピュータ・サイエンスを盛り上げようという文脈が語られたり,今どきの子どもたちはスマートフォン・アプリのプログラミングもしているといったエピソードも交えて話題になっているようなので,確かにプログラミングも新しいICTカリキュラムの射程に含まれるのだろう。
ただ,それは単に最前線に関する分かりやすいトピックスがそれらであるというだけで,ことの本質は,変革する世界に学校教育とカリキュラムを合わせようとする,その動きそのものである。
そういう意味では「学びのイノベーション」なんて名前を付けて何かをしようとしていた某国の取り組みは,発想としてはいい線をいっているし,それを主導できる世界的な人材も国内にあるのだから,やっと英国詣主義から抜け出すチャンスであった。けれども,政治の不安定さと経済不況がそれを不意にした…とでも書いておこうか。
英国も同じ条件ではあるし,教師教育の問題,実際に組み立てられるカリキュラムに対する批判など課題も山積していて,今回のスピーチ内容が実現するのかどうかはいつもながら怪しいが,それでも,今回のスピーチに目新しい点があるとすれば「Disapplying the Programme of Study」という考え方である。
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Gove教育大臣は「Disapplying the Programme of Study」として,新しいカリキュラムを、従来のように教育プログラムを開発して、教師研修をし、すぐ廃れてしまうGCSESテストを課すという手法では「やらない」と宣言した。
「学校におけるテクノロジーは,もはや政府によって細かにマネジメントされません。教育課程を引っ込めることで,学校と教師が何をどのように教えるのかに関して自由にし,私たちが知るICTに大変革させます。(Technology in schools will no longer be micromanaged by Whitehall. By withdrawing the Programme of Study, we’re giving schools and teachers freedom over what and how to teach; revolutionising ICT as we know it.)」
そこに大学や企業がいろんな教育プログラムやリソースを提供する余地が生まれる…なんてことなども述べている。
その他にも「An open-source curriculum」なんて言葉など,いやはやカリキュラムをいくらか生業としている人間にとっては垂涎ものの単語がオンパレードなスピーチであるが,こんなことを一国の教育大臣がスピーチするのだから,リップサービスで済まされるものではない。
英国における教育の情報化は,学校と教師レベルに裁量を与える本格的な段階へと突入しそうな勢いである。それがどの程度のものになるかは,今後の行方を注視したいところだ。ってまた英国詣が賑やかになるのかな。
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日本の場合,学校教育に関する学校や教師の裁量が限定的なものになっていることや,それを引き起こしている複雑奇怪な権限分散制度の問題など,改善したら良いと思われる事柄はとっくの昔から判明しているのであるが,残念ながら時間がかかっている。
フューチャースクール推進事業などでは,事業の中で各学校にある程度の予算枠ようなものがあり,学校の裁量で若干のリソースをそろえられるという点など,現実として良い効果が確かめられている。ICT支援員さんが常駐していることもICT活用に幅の広さを生んでいる。
もう少し学校が自分たちのカリキュラムに向きあうための権利やリソースを提供するという方向に向かわないと,日本の学校教育は,旧きものに縛られていることから抜け出すだけでも相当な労力を強いられ,新しい変革する世界に対応することに体力を向けられなくなってしまうように思う。
新しいICTカリキュラムの中身も確かに大事だが,実は新しいICTカリキュラムを学校自身がつくっていける環境整備をするという点,もっと考えなければならない。
PISAは「ピサ」なのか「ピザ」なのか
先日の研究会(BEATセミナー)はOECD-PISAのデジタル読解力と情報教育についてがテーマでしたが,そこで「PISA」の読み方についてちょっとしたやり取りがありました。
司会の方がPISAを「ピサ」と濁らずに発音したことに対して,発表者として登壇した有元秀文先生が「ピサと読まれたけどピザですので」と濁った発音が本来であると,ちらっと指摘されました。
有元先生は日本側のPISA担当者をされてきた方なので,OECD本部の担当者とのやり取りもあったでしょうから,その本部の方たちが「ピザ」と発音されているのを前提にされた指摘だったのだろうと思います。
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PISAの発音の仕方は,ネット上でもたまに話題になります。
OECD本部の人たちが「ピザ」と発音しているんだから,正当な読み方は「ピザ」で良いのだといってしまえば,それも割り切りが良いのかもしれません。
でも,たとえばgoo辞書(デジタル大辞泉)なんかでは「ピサ」という項目でどうどうと掲載されています(その後、変更されたようです)。英語の「Programme for International Student Assessment」の頭文字でできた単語と考えれば「ピサ」と濁らず発音するのは当然のように思えます。
これいったいどうなってるの?と思う人もいるでしょう。
これはOECDの本部がフランスのパリにあるため,関係者が「ピザ」とフランス語の発音で読むことから起こっている多様性のせいだと思われます。
多分,命名した人たちはあんまり気にしていないと思うので「ピサ」と読んでも間違っていると思わなくてもよいでしょうし,PISAについて触れたり考えたりした中で「ピザ」と読むのがそれっぽいかなと思ったら濁って読めばいいというだけだと思います。
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実は,これによく似た発音の違いを持っている単語があります。
それがクレジットカードでお馴染の「VISA」です。
これは日本だと「ビザ」カードと濁って発音していることがほとんどですよね。
しかし,VISAにも「ビザ」と「ビサ」という違った読み方があるのだということが知られていて,そのことは米国版ウィキペディアにも記載されているのです。
その記述によると,VISAを命名した人物はDee Hock氏という人で,このネーミングなら国際的にも認知されやすいという理由から名付けたそうです。
つまり,さまざまな国で認知されやすいということは,さまざまな発音で読まれることもある程度は想定範囲ということなのではないでしょうか。だから,「ビザ」でも「ビサ」でも構わなかったのだと思われます。実際,北米大陸とヨーロッパ大陸を市場にしていたわけですから織り込み済みだったのです。
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というわけでPISAは「ピサ」なのか「ピザ」なのかという決着についてはつける必要はない。これが結論なのです。
しかし,正統派好きな人向けとしては,OECD関係者が使っている「ピザ」を使えばよいでしょうし,それはVISAカードの「ビザ」と同じような発音法だとでも言えば周りへの説明も簡単になります。
20111217 BEATセミナー「デジタル読解力を育てる情報教育」
2011年12月17日に東京大学大学院情報学環で行なわれたBEAT公開研究会に出席しました。「デジタル読解力を育てる情報教育」というテーマでした。
「デジタル読解力」とは,OECD-PISAが2009年に世界で行なった学力到達度調査結果の一部として2011年6月に入ってから追加発表され話題となったものです。(OECD東京の発表ページ)(OECDの発表ページ)(文部科学省の発表ページ)
日本ではPISA型学力なんて言葉が一部で使われることからも分かるように,国際学力到達度調査の結果を大変気にする空気があるため、PISAが提示してきた「デジタル読解力」に対しても気にしている人が多く,今回の研究会はタイムリーでした。
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ただどうも「デジタル読解力」とは何なのか,私たちが了解できているとは言い難い。このところPISA型学力という言葉とともに頻繁に引き合いに出される「21世紀型スキル」というものと何かしら関係があると考えられているのかいないのか。
そういうことについて他の人が何か語っているのをあまり見たり読んだりしたことがなかったので,正直なところデジタル読解力というものについての議論にどんな幅があるのか計りかねていたのです。
とにかくデジタル読解力というものについて皆さんが何を語るのか聴いてみようという感じでの参加でした。
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研究会の様子は早速Webの記事になっているようです(「今こそ必要な「デジタル読解力」、求められるのは「批判的読解」」PC Online)。
記事の解説にあるような明瞭な流れとは対照的に,実際に参加しているときの私の認識は話の行方を追いかねていました。
その原因は多分,デジタル読解力に過大な何かを最初から抱きすぎたせいかも知れません。この世界で多少はプロパーゆえ,議論の補助線を先取りしすぎたようにも思います。
補助線は後から当ててみるから役立つのであって,先に引き過ぎてしまうと先入観となって認識や理解を縛ることを忘れていました。凡ミスですね。
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しかし記事を読んでも,従来型のプリントで提供される情報を読むのに必要となる読解力と比べて,「デジタル」な情報である場合に必要な読解力とで何が違うのかははっきりと明示されているとはいえません。
記事の最後に「インターネットの情報を見るときには、教科書や書籍など紙に書かれた情報以上に信頼性や正確性を吟味しなければならない」とは書かれているのですが、その理由がいまいち伝わっていないように思えます。
それに「批判的読解力」や「実践的な能力」といったことまで言うならば,なぜ「21世紀型スキル」まで議論を拡張しないのかという素朴な疑問もまだ残ります。
当日の皆さんの議論や会話を聞いていると、どうやらデジタルという技術によって提供者と情報の幅が広がり,更新頻度が激しくなることが上記の「信頼性と正確性を吟味しなければならない」要因と考えられるようです。
デジタルによって情報の提供コストが下がることで、信頼性の低い情報も高い情報と全く同じ調子で届いてしまうし、情報の更新周期が短くなれば耐用時間も短くなるため,得られた情報の鮮度によって自分の理解や解釈を柔軟に制御しなければなりませんし,自問自答の頻度も増やさなければならないかも知れません。
おそらくこんなところなのでしょう。
そして,おそらく日本の場合、デジタルはもちろんのこと、アナログな場合においても情報過多な社会ということもあって,学校教育でデジタル環境や活用が充実していない現実があっても「デジタル読解力」が想定しているいくらかの力が養われていたので調査結果がまずまずだったということらしいのです。
そして,この手の話を「21世紀型スキル」という言葉ではなく,「デジタル読解力」という言葉で考えようとしている理由は,PISAという調査がプリントを使った「プリント読解力」と比較する形で,コンピュータを使った「デジタル読解力」を調査したから。
つまり表面的にはPISAのテストが紙からコンピュータに変わるというだけの話なので、PISA的にはそれぞれで必要な読解力を「プリント読解力」と「デジタル読解力」と名付けてみたりしたのだけど,内面的にはテストのやり方が違うということが単にコンピュータの操作に慣れてるかどうかってこと以上に違う力が必要だということも分かってきてるので,それは確かに「21世紀型スキル」とかにもつながっていくかもね,でもPISAは「デジタル読解力」って言うけどね,といった具合なのです。
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まどろっこしい文を書いてしまいましたが、それは私が入り口を間違えたので遠回りしてしまったせい。他の皆さんにとってはシンプルな議論だったのだろうと思います。
当日のグループディスカッションでは,少し論点のずれた事例だと分かった上で「同意ボタン」の例を投げ掛けてみたりもしました。
私たちはインターネットのサービスなどを利用するために結構な頻度で「同意ボタン」をクリックすることが多くなりました。
しかし,ほとんどの場合,同意しようとしている契約書を読むことはないですし、電子的に表示して読まされる契約書が頻繁に改変されていることにも無頓着だったりします。こうした形ですでに身近になっている電子的な契約書に対しての対応においてもデジタル読解力といったものが必要なのかも知れない…という投げ掛けでした。
まあ,この事例の場合はちょっと違うのかなと思いますが…(この場合は法令リテラシーといったところかも知れません)。
とにかく,デジタルによって提供される情報を読むことが多くなったのは事実ですが,そのために必要な力をどのような切り口で考えるべきかは,もう少し議論していく必要はありそうです。
別の機会に,「21世紀型スキル」の定義や議論と合わせて,もう少し整理した文章を書いてみたいと思います。
メディアプアな日本の中等教育
2011年12月11日にNHK教育放送企画検討会に出席しました。国の教育情報化事業に関わっている立場で今後の教育放送(NHK for School)について意見を求められたからです。
検討会は,大学の研究者と幼保小中高校の先生方などが出席するもので、専門家や現場の先生の声をNHKの制作関係者の方がダイレクトに聞くことで,番組作りに反映させようという趣旨で行なわれています。
NHK放送センターには見学やアルバイトで訪れたことはありますが、正式なお仕事を直接依頼されて訪問するのは初めてでした。これも総務省FS推進事業や文部科学省LI事業に末端で関わっている後光のおかげといったところです。
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私なりに教育放送について考えていたことを述べたりしましたが、むしろ学校の先生方のナマの意見を聞けたのは,私にとっても勉強になりました。
全体会が行なわれた後で,幼保,小学校,中高校と3つの部会に別れたのですが、私は中高校部会に出席することになり、普段なかなか聞けない中等教育段階の学校の様子を伺うことになりました。
そこでお聞きした学校の機器設備の環境は,なんとなく知っていたとはいえ、改めて実情を聞いて,悲しい気持ちになりました。
日本の中学校・高等学校はメディア環境がかなり貧しい。
もちろん,私が関わっている事業のように児童生徒一人一台のパソコンとか,各教室に電子黒板が必ずあるというのは普通ではありません。
けれども,テレビくらいはわりと置いてあるのではないか。
地上デジタル放送に移行したため、その地デジ化が進んでいないということは別の問題としてあるのかも知れないが、それにしたってアナログテレビくらいは残り物としてありそうな気もします。
しかし,そのテレビすら教室に無いというのが現実です。
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そこで文部科学省が行なっている「学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果」を再確認してみることにしました。
いったいテレビは学校にどれだけ設置されているのか。以下が平成23年3月時点のデータをグラフ化したものです。
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これがこの国の学校に設置されている「テレビ」の実態です。
普通教室の部分だけを注目すれば、設置されているテレビのパーセンテージは,小学校で95%,中学校で56%,高等学校で7%,特別支援学校で43%となっています。
小学校はともかく、中学校と高等学校がこのような環境下で、教育番組や映像教材をフル活用できるとは到底考えられません。
日本の教育について考える際、中学校と高等学校(これらを合わせて中等教育段階と呼びます)は,難しい実情が多いばかりに、ちゃんと取り組まれないまま問題が先送りされやすかったともいえます。
そうしたことが,教育環境の整備に関しても表れてきてしまったのが,このような調査結果なのかなとも思います。
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このような貧しいメディア環境の実態があるために、様々なアイデアと努力によって制作されている教育放送番組がなかなか届けられずに苦心している現実があります。
そして、魅力的な映像素材を学校の授業で使いたいと考えている学校の先生方がいるにも関わらず、それがなかなか出来ないことで,何より生徒達から学びの可能性を奪っているということを,もっと多くの人々が知らなければならないと思います。
それぞれの地方自治体でしっかりと教育環境のために予算をつけていくことが必要です。そのような動きになるべきだと訴えたいです。