2011年11月25日にはFS推進事業において2つの公開授業がありました。北海道石狩市の紅南小学校と広島県広島市の藤の木小学校です。
藤の木小学校には昨年度お邪魔したことがありました。継続参観して変化を見てみるのも興味深かったのですが、今回は東西を越境して紅南小学校の公開授業を見せていただくことにしました。以前から誘われていたということも理由としてありました。
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まずは開会式から始まり、教育長のご挨拶や研究主査からの参観のポイント,開催校からの説明が行なわれた後で,全学年の授業を参観する流れでした。
特別支援クラスの一部を除く,ほぼ全クラスの授業公開でした。
ICTの活用程度は各クラスによって異なっており、IWB(電子黒板)と教師用デジタル教科書の利用をベースとして,あるクラスでは実物投影機を加え、ある学年ではタブレットPCを活用し、あるクラスは教室内掲示物と連携するなど様々でした。
IWBと教師用デジタル教科書の活用に関しては馴染んだ感じが伝わってきました。むしろ活用が進めば進むほど画面の狭さが気になり始めているようで、IWBの周辺に掲示を追加している教室も目立っています。
全体的には,従来の黒板を中心に据えIWBを補助的な位置づけとして扱う感じの授業風景だったように思います。逆に言えば,IWBを活用した場面だと先生が教室の片隅に寄ってしまって,ちょっとアンバランスな感じもしました。画面サイズの大小に引っ張られた感想かも知れません。
学習者用デジタル教科書の利用をしたのは4年生でした。あるクラスは本文画面で重要部分に線を引いたり,別のクラスはワーク機能で段落構造を勉強していました。
授業後は,研究協議と全体協議が行なわれ、各学年を支援した協力者からのコメントと研究者からのコメントがありました。私も西日本地域からの越境研究者としてご挨拶と東西の違いについて軽くご紹介しました。
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「今回の公開授業はどうでした?」こんな質問を何度か聞かれます。
正直なところ、私はこういう質問をされると困ってしまいます。「何を目標としたときの答えを期待しているのだろう…」と聞き返したくなるからです。
公開授業自体はよく頑張られて素晴らしいものだったと答えることも出来ます。しかしフューチャーとかイノベーションという言葉からくるイメージを加味するなら,課題も多くて大変だと答えることも出来ます。
総務省・フューチャースクール推進事業と文部科学省・学びのイノベーション事業が連携する大掛かりな事業ですが、実証校での実践や事業推進の実情などは,わりと旧態依然とした感じだからです。
10年後の学習指導要領あたりに盛り込む要素を抽出するためと考えれば、それなりのことが進められていると思いますが、その先のこととなると…難しいですね。
なので「未来の学校」というイメージや「教育の変革」という言葉を前提にしてこの事業を語ろうとしているなら,やめた方がいいですよとご忠告申し上げます。そのイメージでこの事業を批判するくらいのエネルギーがあるなら使える政治家を探しだしてその人物に提言した方が効率的です。
関わっている私たちは,引き受けた仕事を淡々と進める他ありませんが、少しでもこの事業からくみ取れるものを取り出して,次へと繋げていくようにするだけです。
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公開授業を催してくださった石狩市立紅南小学校の先生方と協力者の皆様,事業者の皆様,本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。
カテゴリー: 論考
徒然日記 20111116
○ICTを活用した先導的な教育の実証研究に関する協議会
2011年11月14日に行なわれた総務省と文部科学省による連携会議「ICTを活用した先導的な教育の実証研究に関する協議会」を傍聴しました。
特に目新しい情報もなく、委員の発言は両省の研究会や協議会ですでに発言されたことを繰り返しただけに終わりました。
両省の副大臣や政務官が出席してはいたものの,大局的な発言に終始しており、実証校における取り組みをどのようにバックアップしていくのかといった具体的な内容については,ほとんど発言がなかったのは大変残念です。
来年度は中学校と特別支援学校が加わり、ますます混沌となるのではないかと不安を抱いて帰ってきました。
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○Su-Pen
iPadのようなデバイスは指を使った操作方法を中心に開発されています。しかし,文字を書く場合、やはりペンのような道具を使うのが一番楽です。
これまでもiPad等のデバイス向けスタイラスペンが様々発売されてきました。当初は種類も少なく、また品質も必ずしも良くありませんでしたが,最近ではかなり改良された製品も登場し、iPad向けスタイライペンも実用的になってきました。
ただ,改良されてきたとはいえ、これまでの製品の多くはペン先にゴムを使用しているため、ペン先の滑りに関して問題を抱えています。つまり,ゴムのため滑りが鈍くなるのです。
購入当初はゴムの表面に特殊なコーティングを施して、かなり使い心地の良いスタイラスペンでも,数ヶ月以上の長期使用をしている過程でコーティングが剝げ、本来のゴム表面が現われて摩擦で滑りが鈍るのです。
そんな構造的問題を解決するには,ゴムではなく静電繊維を使ったスタイラスペンを選ぶ方法があります。
実は,そんな方式を採用したスタイラスペンが「Su-Pen」です。
いや,これは素晴らしい出来です。ゴムの問題点を解決している上に,Su-Penは書き味にこだわった造りになっているので,さらに満足感が高いです。
スタイラスペンを実用的に使いたいと考えているなら,これは試してみる価値ありです。iPadを導入している学校現場で導入できるといいなぁと思います。筆記具は教育現場にとって大事なツールの一つなのですから。
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○『学習情報研究』2011月11月号
特集「情報端末とデジタル教科書」にお呼ばれをして,原稿を一本書きました。「デジタル教材・教科書デザイン」というお題です。内容は以前のブログでも何となくご紹介したあれです。
でき上がった冊子をぱらぱらめくってみたら、自分の原稿のページがやたら文字ばっかりで浮いていることに気がつきました。
書くときはたくさん書き綴りたくなる質なので、限られた紙面で消化不良を起こしているのはご覧の通り。書き散らかし後が恥ずかしいなぁと思いつつ、まあ,なかなか面白い試みが出来たなということで,ちょっと達成感。
まあ,この界隈の隠れキャラとしては,珍しい表舞台仕事です。
[FS徳島] 20111102 公開授業
11月2日に担当している徳島の実証校で公開授業がありました。この学校では来年2月にも開催します。他の実証校は,地域によってこの季節で最後のところもあります。
徳島の実証校では,わりと通常運転的な実践の様子をご覧いただいた形となりました。IWB(電子黒板)や児童用タブレットPCの扱いなどは日常動作となりつつあります。
問題はそのようなICT利用の学習活動と旧来型の学習活動との接続や往来の案配をどのようにするかといったところにありますが,現時点ではまだまだ遷移にストレスがかかりすぎるので,その辺を折り込んで授業デザインをする必要があります。
教育の情報化ビジョンっぽく言えば,一斉学習と個別学習あるいは協働学習の繋げ方や組み合わせ方といった表現になるでしょうか。
事前に先生方と指導案上で展開を相談したのですが、直近の児童の実態を勘案して練り上がった授業は,様々な工夫が凝らされていて大変興味深かったです。
公開授業の最後には,私が講評する時間をいただいたのですが,いつも構えて話を準備すると堅くなるので、今回は当日の様子を写真記録で振り返りながら徒然に喋ってみました。
参加者の半分は昨年度にも参観にいらしてくださった方々なので、初年度の機器導入というテーマとは違って,今年度は教育実践の中にどう溶け込んでいるのかということがテーマであることを伝えました。
また,関心の高い方々は,こうしたICT活用の教育の公開授業ものはさんざんご覧になっていると思われたので、そろそろこのような形の教育に必要な「授業時間」というものを考え直すなど、教育実践を取り巻くカリキュラムシステムの方にも目を向けらければならないということなどお伝えしました。
つまり,ICT活用するような授業は,45分や50分を単位とする授業時間ではまずいのではないか。モジュール型など,柔軟な授業時間運用が可能なシステムも必要かも知れないと思う次第なのです。
学びの多様性というものが重視されるようになれば、時間の使い方に関するますます柔軟な枠組みが必要になるでしょう。
未来の学校に向けて変革する際の重要な論点は「学習時空」の再検討ともいえます。
デジタル教材・教科書のデザイン
先日,原稿依頼を受けたのでデジタル教材と教科書のデザインに関する原稿を書きました。
「デジタル教材・教科書デザイン」という題目だけ与えられたので,それを純粋に引き受けた内容を書いたのですが,学校の先生向きの内容にはならなかったなぁという感じで終えてしまいました。
思うに教材デザインという分野に関係するのは,教材開発することを商売としている人々がほとんどで、学校の先生方は教材デザインというより授業デザインを気にする人の方が圧倒的に多いはずです。
それでもデジタル教材・教科書のデザインというテーマを論じる機会は滅多にないので、あえて変化球を投げてみることにしました。
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デジタル教材や教科書の定義や理解のされ方に関しては,いくらか先行議論があるので,それを参照することから始めました。
デジタル教材・教科書のデザインを論じるということは,デジタル教材・教科書とは斯くの如きものを論じるようなものなので,なかなか難しい。
紙数のため十分な指摘は盛り込めなかったのですが,諸外国の「digital textbook」や「electronic textbook」という言葉は緩やかな括りになっていて,Web上で実現されている役立つ学習コンテンツなら何でも範囲に含めてしまうところがあります。
それを日本で「デジタル教科書」と訳して理解しようとしたときに,眼前の検定教科書をデジタル化することを起点として議論が展開し、Webで提供されている学習コンテンツは「デジタル教材」であっても「デジタル教科書」じゃないよねみたいな理解が確立されてしまったわけです。
正直なところ,海外の基準に照らせば、日本ほどデジタル教科書資源が豊かな国もないかも知れません。だから,海外からすれば、世界に誇る電子機器メーカーを有しているのに学校には端末が導入されず、少なくない学習資源を有しているにも関わらずNICERのような事業を停止してしまう,クレイジーな現実が理解できないでしょう。
この時点で,日本におけるデジタル教材・教科書デザインの取り組みは,社会的な動きとして大いに理不尽なのですが、これをあえて日本なりの伝統的な教育方法の完璧主義がもたらした遠回りだと前向きに捉えることにして,ならば,どのようなデジタル教材・教科書が求められているのかを考えていくことが大事になります。
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これまで印刷図書の教科書であれば、その編集や出版こそがデザイン活動でした。これがデジタル教材・教科書になった場合,これまでとは異なるデザインの考え方やり方が必要になります。
そこでまずは教材の構造をコンテンツ,メディア,ツールの3つからなるものと考えて、それぞれの角度からデザインを考えていくことにしました。多少無理の生ずるやり方ですが,限られた紙数で考察するには,こうした方がマシなときもあります(マシなだけで良くはなりませんでしたが…)。
いわゆる定番のインストラクショナルデザインの理論は無視できないので軽く触れた上で、デジタルコンテンツの代表ともいえるWebサイトの構築でよく参照される情報デザインとか情報アーキテクチャという知見も活かせることなど触れました。
さらにデジタルデータの特性やデジタルデータを扱うツールのデザインも別途考えなければならないことをバタバタと触れて、最後にデジタル教材・教科書の本質は「履歴」をどう学習に活かすのか,ということだと指摘して紙数が尽きました。
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相変わらず問いだけ発して終わってしまった消化不良感残る原稿ですが、言いたかったことは、「デジタル教材・教科書のデザインは授業・学習活動から逆算しなければならない」ということです。
従来の教授・学習自体が,図書教材・教科書を前提として構築されてきた成果物なので,慣れ親しんだ印刷物(本や冊子)を使う限りほとんど悩みは発生しません。
しかし,デジタル教材・教科書の場合、デジタルで記録されたコンテンツが同一だとしても,実際に操作するツールの使い勝手によって教授・学習活動は変わってきてしまいます。
そのツールとは多くの場合,パソコンなどの情報機器ということになりますが,本や冊子のときにはあまり考える必要もなかった「安全性」「信頼性」「簡便性」といった要素を改めて吟味し、これらを満たさなければなりません。
さらにデジタル教材・教科書であることの最大のメリットとは,履歴をとれることです。デジタル教材・教科書を使用して学習する過程を様々な方法で記録に残すことで,それを指導・学習の深化・促進に活かすことが可能となります(必ず活きるというわけではなく、活かすことが可能になるという程度のことだと自制的に理解したほうがよいと思います。学習の道具は,あくまでも道具なのですから…)。
今後は,こうした活かし方ができるようにデジタル教材・教科書自体が進化していく必要があるということを示唆しました。
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さてここに,とある文具店で写させていただいた風景写真があります。ノート売り場の棚です。主に小学生向けの学習ノートですが、様々な種類があるとわかります。
デジタル教材・教科書に電子ノート機能をつけて,児童生徒が学習の記録を残せるようにしているものがたくさんありますが、残念ながらあまり満足のいく出来ではありません。
こうした文具店の風景を見れば,ノートが如何に多様な目的や要望に合わせてつくられているかが分かりますし、簡単な電子ノート機能をつけただけでその幅広い要望を満たせるわけがないことも容易に納得できます。
履歴を残すという以前に、私たちが教授・学習という活動で営んでいた諸々を,もっとつぶさに観察して理解していくことがとても大事だということが分かります。
デジタル教材・教科書をデザインするとは,教授学習の文化を創造していくことですが、そのためには従来の伝統文化に対する真摯な対応を省略するわけにはいかないということを私たちは理解して、前進しなければならないと思います。
20110917-19 日本教育工学会 第27回全国大会に参加しました
2011年9月17日から19日まで,首都大学東京にて日本教育工学会 第27回大会が行なわれましたので参加してきました。
教育の情報化関連のお仕事を追いかけていて,末端とはいえ国の事業である「フューチャースクール推進事業」と「学びのイノベーション事業」に関わる人間となった今,それに関して学会の場で報告することは当然のこと。
今回の学会大会では,事業1年目の報告を兼ねて,研究者としてどう関わるべきかについて投げ掛ける発表を行ないました。それについては発表スライドが別のエントリーに掲げてありますので,そちらを参照してください。
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今年は、とても良い会場と運営に恵まれた大会でした。
その部分に関する不満がほとんど意識に上らなかったのは珍しいことかもしれません。いや、珍しいかどうかさえも考えなかったくらいトラブルもなくスムーズに運営されていました。ですから、素晴らしかったのだと思います。
これは、これまでの大会運営から真摯に学び、実際の準備と運営に活かすことに専心したきた関係者の皆さんのおかげだと思います。
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一方、今年の学会の中身については、複雑な気持ちを抱く結果となりました。
特に、学会の取り組みを象徴するといってよいシンポジウム企画において、「この国の現在」と学術研究をどう交わらせるのかといった学会としての姿勢が読み取りづらかったことは、私の不満を大きくしてしまいました。
たとえばシンポジウム「デジタル教科書時代の新たな学びと指導方法」は、実にタイムリーなタイトルであり、文部科学省が学習者用デジタル教科書を開発して実験していることもあって、どのような示唆が得られるのか期待されていました。
しかし、一つ一つの発表は興味深かったものの、そこから示唆されたことは、小柳先生の発表にあったTPCK (Technological Pedagogical Content Knowledge) などから見通される教師の新たに必要となる知識技能を持つことの重要性や、柴田先生の発表が指摘するように授業のありようを「持ち帰り型」から「持ち寄り型」へと変革することの必要性が了解されたところに留まりました。
もちろん、ここから自分なりに読み取り、現在進行中の国家事業を検討する観点として適用することは可能かもしれませんが、むしろそこをシンポジウムの場で議論したり、一定程度の共通理解としてまとめていただきたかったと思うのでした。
一つ一つの商品をショーケースに持ち込んではみたものの、お客が見やすいようにショーケースの中をアレンジせずに終わった感じになっていると言えます。
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それよりも大きく不満を募らせたのは、2日目のシンポジウム「グローバルな時代において日本の教育工学は何ができるか」でした。
シンポジウムの事前紹介文には、こんなフレーズが含まれていました。
「日本の教育工学研究は,これまで以上にグローバルな教育のための研究を模索し,国際的に成果を発信し,国策をリードしなくてはならない.」
このような前提で「日本で教育工学を研究するということは…」を考えていく企画意図であったわけですが、気がつけば「日本教育工学会はどうあるべきか」といった課題も巻き込んで議論が進められようとしていました。
その混在が物事の理解を混乱させたように思います。
テーマに関する基本構図は次のようなことだと私は理解しています。
- グローバルな時代において教育工学研究者として生きる以上、海外フィールドで活躍することは大変重要である。
- 海外のフィールドで活躍するためには、様々なノウハウがあり、また心得なければならない姿勢や態度のようなものもある。
- また、日本人である以上、自国の教育について見識を持ち合わせなければならず、その立場から研究成果を発進して国際貢献すべきである。
- 日本教育工学会は、若手が海外フィールドへ進出することを奨励しており、積極的な支援策を講じる用意があるのでアイデアが欲しい。
ところが、このようなことに「日本の教育工学は何ができるか」というタイトルを被せて考えようとしたところでおかしなことが起こります。
「日本の教育工学」とは何かを考えたとき、解釈がバラバラになっていたのです。
それは日本人が生んだ教育工学研究の知見という意味なのでしょうか、それとも日本人(もしくは日本をフィールドとする)教育工学研究者のことでしょうか、あるいは日本教育工学会などの日本の研究学術集団のことなのでしょうか。
指定等論者は特に、日本の教育工学のことを日本教育工学会のこととして考えながら議論しようとしていたように思います。
私にしてみると、シンポジウムの混乱も不満の対象となりましたが、そこで展開するやり取りから透けて見えた無意識な「国際重視・国内軽視」の姿勢に愕然としました。
この調子では、いくら海外で活躍しても日本の文脈を捨てない限り世界から認められることはできなくなるのではないかという危惧を抱きました。
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もう一度、先に引用したシンポの紹介文を見てください。
私たちはまずグローバルな教育のための研究をして国際的に成果発信をしてから、その後に国策をリードすると書いてあります。この場合の国策はもしかしたら日本のことではないかもしれませんが、日本も含まれていると信じましょう。
どうも企画者側の通念としては、「国際→国内」という経路の方にプライオリティがあるようです。
そのうえで、登壇者の国際活躍のためのレクチャーを聞いていると、総じて次のようなことを前提しているように私には聞こえました。
「国内作法・流儀は通用しません。日本の文脈から抜け出て国際標準的な作法・流儀で研究を進めることが肝要です」と。
そこで議論すべきことがあるとすれば、「日本の文脈に寄り添う教育工学研究をグローバルな文脈に乗せるためにはどうしたら良いか」ということであったはずです。
しかし、残念ながら登壇者のほとんどは日本の文脈を離れることによって研究を進めてきた人たちばかり。おそらく、海外文献を年間300本読み、国際学術誌に投稿し続ける中で、日本の文脈をロジカルに発信することができるようになりますと言いたかったのかもしれませんが、必ずしもそう明言したわけではなかったので真意はわかりません。
それならそれで、海外で活躍したい人たちは、今回のレクチャーを参考にして羽ばたいていけばよいだけのことですから大した問題ではありません。日本の文脈を離れて研究に慢心し、その成果を日本に持ち帰ってくれるなら、それも立派な学術活動です。
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しかし、もう少し広い視野で考えたとき、日本の文脈を後回しにしているツケは早晩やって来るように思います。
そのように思ったのは、シンポジウムの議論が、日本教育工学会としてどうすべきかという議論にすり替わろうとしていたときでした。
学会のあり方を論じる場として適当であったかどうかは議論の余地があるかもしれませんが、そもそもシンポジウム企画は昨年の続きという位置づけも与えられており、主催者側には学会の今後を議論してもらうという願いが当初からあったことは事実です。それもあって、最後は学会はどうあるべきかみたいな話になりました。
ここで、例年なら私が手を上げて議論をふっかける展開も十分予想できましたが、私はTwitterを使ったバックチャネルの方で問題意識をツイートしており、それがどうも取り上げられる気配がないというところで、手を上げることも諦めました。
私の考えはこうでした。
- 国際的な活躍をすることは大事なことで、そのためには様々なリソースが必要になるから、大学機関や学会は多様な支援をすべきと思う。
- 日本人である以上、やがて他国の研究者から「あなたの国は教育にどう取り組んでいるのか」と問われる場面が必ず訪れる。
- 問いかけに対し、自国の教育の取り組み、自国の研究者たちはどのような取り組みをしているのかロジカルに説明できる準備があるのか。
- 日本教育工学会に限ってみれば、自国の現在進行中の国策や国家事業についてまとまった発信も取り組みも見つけることが難しい。
- このような国内を軽視した状態をそのままに、国際的な活躍の部分だけをクローズアップして論じることは、方輪走行のような不安定な状態ではないのか。
だから私は登壇者よりも口悪く、こうツイートしたのです。
「私にはよくわかんない。かつてNIMEのような組織が国から消えたこともスルー、教育の情報化ビジョンのことも触れず、国家的な事業に対するコミットも無し。そういうのが普通だとすれば、私にはよくわかんない。国際的な活躍をしようというのは異論無いけど…」(20110918のツイート)
まあ、こんな危ないツイートを紹介できるわけもないでしょうから、無視されて当然だったかもしれません。それに企画でやりたいことも別のことでしょう。だから私は、今回は学習の成果を活かして、手を上げませんでした。
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海外で活躍する若手研究者の皆さんにとっては有意義なレクチャー企画だったと思います。また、研究とは何かを考える材料を提示してくれたという意味でも興味深いものだったと思います。
私がたまたま国のお仕事に関わっているために、ネガティブに考えてしまったのだろうと思います。
とはいえ、日本の教育工学は、国策や国家事業について、何ができるのでしょう。日本教育工学会は、所属会員に学会として何か示唆を与えてくれないものでしょうか。私が間違ったことを言っているのなら諭してくれることはないのでしょうか。
一人でやっているわけではないはずなのに、私は一人で考え込んでいます。