メタ認知的素朴理論?

先日,大阪の小学校に助言講師としてお邪魔しました。

ICT活用をテーマとした公開授業でしたが,活用の拠点校として,公開されたいずれの学年もICTそのものにフォーカスするのではなく,授業のねらいを達成するために取り入れられた形となっていて好感が持てました。

私の話でも,ICTそのものより,改訂された学習指導要領が,これまでとよく似た顔をしながらも体質をガラッと変えてしまったフルモデルチェンジ相当のものであることをお伝えしていました。

その中には「資質・能力」や「見方・考え方」というキーワードとともに「メタ認知」についても取り上げていました。

この1週間くらい前,私はベイトソンの「学習とコミュニケーションの階型論」(『精神の生態学』)を読む機会を持ちました。

〈学習I〉〈学習Ⅱ〉〈学習Ⅲ〉というキーワードで知られるベイトソンの学習概念論をまとめた論文です。特徴的な分類名が印象に残っている方々もいらっしゃると思います。ちなみにベイトソンは「ダブルバインド」に関する言及が有名で,これも学習と深く関わる概念です。

「学習とコミュニケーションの階型論」をあらためて読み,これは学習の分類の話ではなく,学習の階型に関する話なんだと,論文タイトルが意味していたことをあらためて気がつかされました。自分は今まで何を見ていたのかと…。

あらためて…,
私たちが,あるメッセージを受け取るためには,メッセージを文脈に位置づけてカテゴライズする必要があります。この人何のこと言ってるんだろう?と考えることです。

小難しく言うと…
あるメッセージをカテゴライズする際,メッセージを「メンバー」,カテゴリーを「クラス」とすれば,「メンバーのクラス分け」が生じているといえるわけです。このクラスとメンバーという階層構造が厳密で,正しくメンバーをクラス分けをしないと,私たちの学習もコミュニケーションもうまく成立しませんよというのが学習とコミュニケーションの階型論の前提です。

実は,この時点ですでに「メタ」な要素が登場しています。
メンバーのクラス分けができるということは,すなわち全体を引いてみて俯瞰できているということ。一段上がったメタ的な視点でものごとを認知しているのだといえます。

つまり,階型というのは,単に区別して仕分けるだけの分類とは違い,階級の違いをメタ的視点で認識した上で上下関係を混同することなく仕分けることができることを意味しているのです。

ちなみに,せっかくですので学習の階型についてそれぞれの定義部分を若干要約改変して抜き出してみます。実はゼロとかⅣとかもあります。

〈ゼロ学習〉:反応が一つに決まっている
〈学習Ⅰ〉:反応が一つに定まる定まり方の変化,すなわちはじめの反応に代わる反応が,所定の選択肢群のなかから選びとられる変化
〈学習Ⅱ〉:〈学習Ⅰ〉の進行プロセス上の変化。選択肢群そのものが修正される変化や,経験の連続体が切り取られる,その切り取られ方の変化
〈学習Ⅲ〉:〈学習Ⅱ〉の進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化
〈学習Ⅳ〉:〈学習Ⅲ〉に生じる変化。地球上に生きる(成体の)有機体が,このレベルの変化に行きつくことはないと思われる

ご覧のように,一つ前(下位)の段階の学習の変化に関して言及する定義になっていることが分かります。

また,「ダブルバインド」は,階型の違う(等級の違う)メッセージ同士が矛盾を引き起こしていることで生じる現象とされています。

たとえば親子関係で,親が子を遠ざけたり敵意があるような行動(メンバー)をとってしまっているにもかかわらず,これを「あなたのことを愛しているから」と子を想っているように言及(クラス分け)するといったような状況です。

そんな風にベイトソンの論文に刺激を受けて,階型論やダブルバインド,メタ認知のことが頭の中をかき混ぜている時に,小学1年生のクラスの公開授業を参観したのです。(やっと本題が帰ってきました)

算数で「数を数える」教材をデジタルで作成して用いる授業でした。ICT活用そのものは特別なものはなく素直なものでした。これは全学年で地に足のついた利用ができていたという意味でよいことです。

金魚の数を数える題材でした。
しかも金魚には種類の違うものがありますから,「わかりやすくせいり」して数えることを学習のねらいとしています。金魚は良いモチーフだと思えました。

しかし,これがくせ者でした。

金魚は,昨年6月ごろに行なわれた授業参観時の教材モチーフとして,すでに登場済みだったのです。そしてこれにまつわる経験がこの1年生クラスには共有されて残っていました。

「先生,またいじわるするつもりやろ」

どうも昨年の先行授業の金魚を使った教材で,少々意地悪な演出をしたことが子どもたちには印象に残ったらしく,今回もそれで引っかけようとしているんではないかと子どもたちが思ったようなのです。

こうした連想にもとづく子どもたちの反応は,授業では珍しいことではありません。ちょっとの脱線があって「でも,今回は違うから大丈夫」とでも返せば,治まるのがパターンです。

ただ,今回の金魚は,凄かった。授業中,終始,先生は金魚で意地悪するんじゃなかろうかと突っ込みを入れてはクラスが涌くわけです。

担任の先生との関係性ができているからこそのやり取りだから,このクラスにとっては大したことではなかったりでしょうけれど,初めて訪問した私の目には凄い光景にしか見えませんでした。

そして私は,助言のために用意していた「メタ認知」の話と,ベイトソンのコミュニケーションの階型論のことを思い返して,日本の授業に展開するメタコミュニケーションが思っている以上に大きな問題なのではなかろうかという妄想を展開するようになっていったのです。

もっと乱暴に言って,大阪・関西というエリアに対するステレオタイプにもとづいて考えてしまうなら,笑いとか関西ノリのようなメタコミュニケーションに対する認知が異様に発達している子どもたちに立ち向かうことの難しさを,あらためて痛感したのでした。

今度の学習指導要領が「メタ認知」を含んだ能力観を前提としているなんてことがよく言われたりするわけですが,実のところ,本音と建て前という形でも分かるように日本というのは高度にメタ認知を働かせている文化圏であり,いまさらメタ認知を意識して…という次元では全くないわけです。

むしろ必要なのは,すでに日常生活や社会生活の中で培われてしまっているメタ認知のメタ認知的知識やメタ認知的技能などを,その上の次元を駆使してどうやって学習へと仕向けさせていくのかというメタメタ認知的な方略を考えることではないかと思えたのです。

私たちは,日常生活の観察にもとづいて身につけてしまう知識や概念のことを素朴概念とか素朴理論といって,ときに正しい知識と矛盾する場合の誤概念をどうやって学びほぐす(アン・ラーニングする)のかについて議論することがあります。子どもたちは全くの白紙で学校にやって来て授業を受けるわけではないからです。

同様な意味で,メタ認知についても日常生活のコンテキストにもとづいてある種の素朴概念や理論が身に付いてしまっていると考えるのは不自然なことではないと思います。

だとしたら,この「メタ認知的素朴理論」とでもいったものをどうにかするためのメタメタ認知的なアプローチを考えていくことが必要な領域もきっとあるのではないか…。

ちょっと妄想が過ぎましたが,ベイトソンの学習の階型論を〈ゼロ〉から〈Ⅳ〉まで辿っていくことを考えると,思考実験的ではありますが,もしかしたら実際の授業を読み解く際の面白い捉え方ができるのではないかとも思います。

今回は全員の良好な関係性の中で展開される素直なコミュニケーションでしたが,一方で,等級の異なるメッセージ同士の矛盾によるダブルバインドのことを考えると,むしろこっちの状況で悩んでいる人が実際問題多いのかも知れません。

お父さんとお母さんとで言っていることが矛盾しているとか,先生と先生とで言っていることが違うとか,国と教育委員会とで言っていることが違うとか…。

ベイトソンに言わせれば,日本人はみんな精神分裂症を発症しているのかも知れません。それが当たり前になっているというだけで。

問いが悪いと嫌われる

資質・能力

「コンピテンシー」という言葉があります。

これを「資質・能力」と表現することが多いですが,資質も能力も知っている言葉なだけに分かったような分からないような状態のまま受け止めているのではないかとも思います。

平成29,30,31年改訂の学習指導要領も,GIGAスクール構想も,話の前提にしているのは「コンピテンシー」。

これについて関連著作を書かれている奈須正裕先生は,教育内容に重きを置いて作られてきた従来の学習指導要領と,資質・能力に重きを置いて作られた新しい学習指導要領を対比させて,前者(教育内容重視)を「コンテンツ・ベイス」,後者(資質・能力重視)を「コンピテンシー・ベイス」と表現されています。

比重の大移動が起ったんだと読めるわけです。

つまり,教科の知識・内容を習得するだけではなく,教科の特質に応じた「見方・考え方」を鍛えることも大事…という説明へと展開していくアレです。

ちなみにコンテンツとコンピテンシーは対立関係ではないよとも念が押されています。これはタキソノミーの議論を合わせて考えると見えてきたりします。

関わることは難しい

さて,いったいコンピテンシーとは何か。

奈須先生の解説をもう少し引くと,こんな風に書かれています。

心理学者ロバート・ホワイトがコンピテンスの語に込めた意味合いについて言及した部分です。

「興味深いのは,そこでは「知る」は単に名前を知っているとか理解しているということではなく,対象の特質に応じた適切な「関わり」が現に「できる」こと,さらに個別具体的な対象について「知る」(=関われる)ことを通して,汎用性のある「関わり方」が感得され,洗練されていくことが含意されている点でしょう。」

『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社2017,52頁

この「関わり方」への重きが「学び方」や「メタ認知」といった概念にも関わってくるわけで,教科の特質に応じた「見方・考え方」に誘うことが,その一環だというわけです。

コンピテンシーとは,目標達成や問題解決に向けて課題に「関わる」特性のこと。

しかし,どうしたら課題にうまく「関われる」のでしょうか。

私たちが思うほど,関わることは簡単ではありません。まして,関わってもらうことはさらに難しいかも知れません。

取り組むかどうか

マルザーノたちの『教育目標をデザインする』には,「新しい分類体系」(マルザーノのタキソノミー)を紹介するにあたって,「行動のモデル」というものが提示されています。

行動のモデル『教育目標をデザインする』北大路書房2013,11頁

マルザーノのタキソノミーの詳しいお話は今回は省きますが,大ざっぱに言うと人には3つの認知システムがありますよ…ということ。

そして「新しい課題」に対して「取り組むかどうか」,言い換えれば「関わるかどうか」を決めるのに「自律システム」というものが関係すると言っています。

その関門を突破したあと,「関わり方」どう関わるかに関係するのが「メタ認知システム」なんだ…というわけです。

ここからは,私なりに考えたことですが,「関わるかどうか」,「どう関わるか」という場面において「問い」の存在は重要なのではないかと思うのです。

良い関わりというものがあるならば,それは良い問いがあるからではないかと思うのです。

関わるとは問うこと

ある課題に関わる最初のきっかけは,気付きや好奇心でしょう。

気付きや好奇心に端を発した認知は,いろいろな問いかけを通して,どれだけ課題に「意欲」を持てるか値踏みします。

マルザーノ的に言えば,自律システムが,あーだこーだと「問い」を発しながら吟味しているのです。

この問いが他人事の問いで終始していると,課題に関わる意欲へとつながらず,上図「行動のモデル」で見るところの「No」へと進みます。

問いが悪いと課題に嫌われる…というわけです。

一方,自分事のように「問う」ことができれば,課題に取り組むことにつながっていきます。そして今度はより良い「問い方」ができるかどうかが大事になってくるのです。

より良い問いを持つことは,単に教科の知識で問うだけでなく,教科の見方・考え方で問うことが含まれていくのでしょうし,そうして培う「問い」は教科横断的に通用するものであると考えられるのです。

日本人の問いは嫌われる

日本では「問い」を軸にした学校教育はあまり行なわれてこなかったんじゃないかと思います。

正解のある問題を解く機会の方が断然多いし,問いを立てる場合も情報確認ができるようなものがほとんど。想定の難しい未知なる課題に対して「問い」をうまく立てるといった経験が少ないのではないかと感じます。

というのも,日本人の「問い」が海外の人たちから嫌われているなと思う場面を見聞きすることがあるからです。

たとえば,海外視察をする日本人の評判なんかがそれです。

日本人は,制度の仕組みや取り組みの理由について質問するけれど,当たり前のことしか聞かないし,質問しても実行しないらしい上に,別の人たちがやって来て何度も何度も同じ質問しかしないからうんざり…みたいな評判です。

日本人も,問いが悪いと嫌われる…ということになります。

嫌われてしまう悪い問いとはたとえばどんな問いなのか。

質問する必要が感じられない質問は,相手が徒労感を感じるかも知れません。素人や初学者でないなら考えれば分かりそうなことを問うた場合などです。

質問のための質問のように,問いが何かにコミットしたり,貢献しそうにないと,問われる意図が分からず不信感を抱くかも知れません。

そもそも,それを私たちに問うのか?といった相手を間違えているような質問は敬遠されて当然でしょう。自分たちの持ち場で問えよといったものなど。

大人の視察でこんな風ですから,私たちの日常が「問い」を研ぎ澄ますなんてこととかなり距離があることは目に見えています。

問いを学ぶ

海外では「問うこと」Questioningがどう取り組まれているのか検索してみると,いろんなものが出てきました。

たとえば,『たった一つを変えるだけ』(新評論2015)という訳本でも知られている取り組みとして,The Question Formulation Technique(QTF)というものがあります。それを推進する団体もあります。

Right Question Institute
https://rightquestion.org

日本の教員養成の現場でも取り組むところがチラホラ出てきているようです。

また,メタ認知や省察といったキーワードから自問自答すること,他者とのダイアローグを通して組織学習の文脈で考えるものもあったりします。

デジタル時代における問いの重要性

これもよく言われることですが,デジタル時代になって膨大なコンテンツをアーカイブしアクセスすることが可能になりました。

つまり,知識を覚えるということはデジタル技術にいくらかは任せて,むしろ人間が労力を割くべきは,アーカイブされアクセスできる膨大なコンテンツをもとに「問う」ことだというわけです。

そんな時代だからこそ,なおさら「問いが悪いと嫌われる」ことになります。

もちろん,突飛な問いや斬新な問いである必要はなく,地道な問いこそが何よりも大事なわけですが,それを学ぶ機会を学校が担うのだと考えていくことがこれからますます重要になるのだと思います。

規律などで統制することに重きを置いてきた日本の学校教育制度の中で,児童生徒学生が本当の「問い」を発して資質・能力を磨いていくことが可能なのかどうか,そのことに対する懸念がないわけではありません。

しかし,それこそまさに悪い問い。

おそらく,もっと前向きな問いを発しながら学校教育の文化さえ変えていくことが求められているのだと思います。

GIGAスクール構想の「GIGA」が「Global and Innovation Gateway for All」であることを思い返してみれば,整備されるネットワークや学習端末を,そのための条件整備と理解して進めていく必要があります。

学校という学習コミュニティが「問い」で満たされるよう関係者がもっと問いかけ合ってイメージを共有していくことが大事となりそうです。

文字入力キーボードを考える

2019年末に,経済対策の一環として学習者1人1台の情報端末整備事業が盛り込まれた「GIGAスクール構想」が急発進しました。

端的には,令和5年度までに全国の児童生徒数だけの台数の情報端末を学校に設置すること(と,ギガレベルの校内ネットワーク整備)が目標です。

モデル仕様

今回の端末整備のために,各都道府県が取りまとめをする際の参考にするモデル仕様が「標準仕様書」として文部科学省から示されました。

どんな端末や周辺機器を整備すればよいのか,おおよその内容が示されていることになります。たとえば端末の種類についてはこんな風です。

【別紙2】詳細仕様
 (1)学習用コンピュータ(児童生徒用)

【解説】
 以下に示す①~③の3種類の仕様から、学習者用コンピュータについて1種類を選択し、必要に応じて変更することが望ましい。また、選択に当たっては、どのような学習用ツールを利用しICTを活用した授業を実現するかについて十分に検討し、使用したいツール側のシステム要件についても考慮すること。いわゆる学習用ツール及びその具体的な活用場面イメージについては、「1(3)いわゆる学習用ツールについて)」を参考にすること。

① Microsoft Windows 端末
② Google ChromeOS 端末
③ iPadOS 端末

従来まで多く導入されてきたWindows端末はもちろんですが,インターネットとクラウドの時代に入りシェアを伸ばしつつあるChromeOS端末とiPadOS端末もモデル仕様に掲げられていることは注目です。

事業を担当している現場では,整備済み端末と新規整備端末との整合性をどうするか,そもそも何を選択すべきなのかといった悩ましい課題に直面して,いろんな結論を下しているところではないかと思います。

端末選択は大変興味深い問題ですが,シンプルに考えれば,使途に応じた選択をすればよいわけであり,むしろ学校でどう使うのか,どう使ってもらいたいのかが明確かどうかがこの問題の難しさなのだと思います。

本ブログでもいずれその件について書きたいと思いますが,今回は別のことを書きたいと思っています。

今回のテーマは,文字入力をするタイピングキーボードです。

モデル仕様の中のキーボード

「標準仕様書」には,キーボードについても書かれています。

各OS端末の仕様にはキーボードについて「Bluetooth接続でない日本語JISキーボード」と書かれています。

そして続く【解説】には次のように記されています。

【解説】
・キーボードについては、日本語キーボードではなくUSキーボードにした場合、より安価に調達できる可能性がある。児童生徒にキーボード入力を指導する際の児童生徒・教師の情報活用能力や負担感を鑑みてUSキーボードに変更しても良い。

・キーボードについて「Bluetooth接続ではない」としているのは、複数端末が教室内でキーボードをBluetoothで接続をした場合に、ペアリングが解除されたり、混線したりすることを避けるためである。具体的な接続方法としてはUSB接続や、SmartConnectorによる接続、元々キーボードを取り外さないノート型・コンパーチブル型の端末を導入するといった方法がある。
(後略)

2点目に関して,Bluetooth接続キーボードが一般的になってきた昨今とはいえ,無線方式における懸念事項を押さえているのは妥当でしょう。

一方,1点目に関して,日本語キーボードではなくUSキーボードを許容するとした文言は,この種の文書としては目新しい記述内容です。

また,「安価」を重視することと,「キーボード入力を指導する際の児童生徒・教師の情報活用能力や負担感」の負担感とは何か,それを鑑みてUSキーボードに変更する理由とは何か,などは曖昧さがみられます。

機種選択はキーボード選択と不可分

実は,どのOS端末を選択するかという問題は,その内側にキーボードをどうするかという問題がかなり大きな部分を占めています。

GIGAスクール構想で整備される情報端末は「可動式端末」(モバイル端末)ですが,この場合,キーボードと組み合わせる形状としては「クラムシェル」「コンバーチブル」「デタッチャブル」の3タイプあります。

「クラムシェル」(二枚貝)タイプ:標準的なノートパソコンのスタイルのもの
「コンバーチブル」(折畳み)タイプ:ディスプレイ部分が360度近く回転し裏返した状態でタブレット形状となるもの
「デタッチャブル」(脱着)タイプ:ディスプレイ部分が脱着できてタブレット形状として単独で使えるもの

iPadOS端末の場合,成り立ちが純粋なタブレット端末なので,正確には「脱着式のキーボードを後付けする」か「外付けキーボードをUSB/Lightningの有線接続するか,Bluetoothの無線接続する」ことになります。

ChromeOS端末は,クラムシェルタイプ,またはコンバーチブルタイプが多いため,端末の選定はキーボードの選定と不可分になります。

Windows端末は,昨今「モダンPC」という名称で2in1タイプのものが各メーカーからたくさん登場しています。デタッチャブルタイプ,あるいはコンバーチブルタイプが多い印象です。もちろん従来からのクラムシェルも根強くあります。

いずれの場合も,機種選択はキーボード選択と強く結びついています。

にもかかわらず,キーボードに関しては,端末本体ほどには十分情報提供されていませんし,十分意識して検討されてはいません。

同時に,文字入力に関する諸問題は,時たまに話題にのぼったりすることはありますが,結果的には各自が解決する問題ということもあり,決着をつけるよりも現状を維持するため触らず置かれてきた部分があります。

しかし,触らず置かれてきたために,選択の余地が次第に狭められてきた状況にあることは問題でもあります。

見過ごされてきたキーボードと文字入力の問題

キーボードと文字入力にまつわる問題にはこんなものがあります。

・キーボードのコスト
・キーボードの情報不足
・キーボードのキー配列
・文字入力方式
・日本語漢字変換

これらの問題について,具体的にはどんな問題や論点があるのか,少しずつ見ていきましょう。

キーボードのコスト

端末を検討する際,本体にキーボードが備わっている製品であれば,価格に含まれていることになりますが,タブレット形状でキーボードがオプション扱いになっている製品は別に購入しなければなりません。

もちろん実際の販売の際には「セット販売」など合算した形で端末購入されることになりますが,予備の購入や故障時の取り換え・修理などが必要となった場合にはキーボード単独のコストについて意識する必要があります。

たとえば,モデル仕様①の代表的製品であるSurface Goは,「タイプカバー」(Type Cover)と呼ばれる純正オプションが存在します。

同様に,モデル仕様③のiPadの場合は「スマートキーボード」(Smart Keyboard)と呼ばれる純正オプションがあります。

モデル仕様①も③も,純正キーボードの単体価格が笑ってしまうほど高いことが分かります。法人向けや一括購入の場合は価格条件が変わるとはいえ,純正オプションのコストの問題は,今一度確認しておいた方がよい点です。

サードパーティー(別のメーカー)のキーボードならもっと安価に買えるのではないか。別に外付けキーボードとして購入し,必要に応じて接続して使うという方法でよいのではないか。という考え方もあります。

確かに電器店や通販で販売されているキーボードには安価なものが目立ちます。しかし,周辺機器メーカーのキーボードの価格も,幅があるとはいえ,必ずしも安いわけではありません。

サンワサプライ社
https://www.sanwa.co.jp/product/input/keyboard/index.html
バッファロー社
https://www.buffalo.jp/product/child_category/keyboard.html#a03
エレコム社
https://www2.elecom.co.jp/peripheral/full-keyboard/index3.html

2000円台もありますが,主要なラインナップは4000円〜5000円程度の価格であることが確認できます。

キーボードは,人間が直接利用する機械部品であるため,使い勝手や耐久性,性能を求め始めれば,求める水準に応じて,いかようにも価格が上昇します。

キー入力が出来ればどれも同じ,と考えることは出来ない機器なのです。

キーボードの情報不足

キーボードはコンピュータを使う際,人間が直接利用する機械部品であることから,こだわりが強くなる部分でもあります。よってタイピングキーボードには,一種マニアックな世界が広がっています。

Happy Hacking Keyboard(PFU)
https://happyhackingkb.com/jp/
https://www.pfu.fujitsu.com/hhkeyboard/dr_wada.html
REALFORCE(Topre)
http://www.realforce.co.jp/index.html
http://www.realforce.co.jp/features/

そういったキーボードの深い部分の情報についてはまた別にゆっくりこだわっていただくとして,ここで問題にしたいのは商品情報について。

〈盤面情報〉

商品に「日本語キーボード」と表記してあったとしても,キーボードの盤面が実際どのようになっているかをちゃんと写真で明示しているケースがない場合もあります。

たとえば,先のSurface Go純正キーボードの販売サイトを見てもらってもタイプカバーの日本語(Japanese)キーボードがどんな盤面でどんなキートップ表示かを示している写真はありません。出ているのは英語のものだけです。

さらに,モデル仕様②のChromeOS端末の場合は,各メーカーの商品ページを見ても英語キーボードの商品写真ばかりで日本語キーボードとなった商品を正式に掲載しているメーカーは極めてまれです。

(20201205追記)
その後、いくらか状況は変わり、Surface Go タイプカバーのページの商品サムネイルは日本語版に差し換えられています。ただし、大きく表示されるギャラリービューには日本語キーボードの写真はありません。

HP
https://jp.ext.hp.com/notebooks/personal/chromebook_x360_14/
https://jp.ext.hp.com/notebooks/personal/chromebook_x2/
DELL
https://www.dell.com/ja-jp/work/shop/sfc/sf/chromebook-laptops
https://www.dell.com/ja-jp/work/shop/デルのノートパソコン/new-chromebook-3400-education-ノートパソコン/spd/chromebook-14-3400-laptop
Acer
https://www.acer.com/ns/ja/JP/smart/chrome/
https://acerjapan.com/notebook/chromebook/
ASUS
https://www.asus.com/jp/Laptops/Chromebook-Series-Products/
https://jp.store.asus.com/store/asusjp/html/pbPage.chrome/
Lenovo
https://www.lenovo.com/jp/ja/notebooks/lenovo/lenovo-e-series/c/lenovo-E-series
https://www.lenovo.com/jp/ja/notebooks/lenovo/lenovo-n-series/Lenovo-Chromebook-S330/p/88LGCS31095

日本語キーボードが,どんなキーボードなのかを知るには,何らかの手段で実物を見なければなりません。ネット上のレビュー記事情報も,英語キーボードユーザーが多いこともあって,日本語キーボードを撮影して掲載したものは大変少ない状況です。

ちゃんとキーボードの盤面を掲載していないと,たとえば,こういうキーボードかどうかが分からないという問題があります。

キーボード製品によっては,右側の一部キー幅が狭くなっています。(個人的にはこのような妥協的産物は好きではありませんが,JIS配列の製品をなんとか提供しようとしてくれていることに対しては敬意を表したいと思います。しかし,問題であることは変わりません。)

〈iPadの場合の情報〉

iPadでキーボードを利用する場合には,純正品を利用することが無難ですが,コストのことを考えるとサードパーティ製品を利用したいと考えることもあるかも知れません。

無線接続であればBluetooth接続キーボードから選ぶことになりますが,有線接続キーボードの場合はUSB接続キーボードを選ぶだけでなく,本体と接続するためのアダプタについても考える必要があります。

というのも,iPad本体にはLightning(ライトニング)端子という独自端子のみ用意されているためです。(iPad Proの場合はUSB-C端子ですが…)

カメラアダプタと名付けられていますが,USB機器を接続するために使用できるアダプタです。ご覧のようにコストはキーボード並です。

Lightning端子に直接接続できるキーボードはいくつか販売されています。

Lightning KANA Keyboard(リンクスインターナショナル)
https://www.links.co.jp/item/lightning-kana-keyboard/
電池要らず!iPhone/iPad用有線ミニキーボード(サンコーレアモノショップ)
https://www.thanko.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=000000002440
【法人向け製品】iOS対応 Lightning 有線キーボード(MS Solutions)
https://www.mssjapan.jp/item/10261218/

これらを利用すればiPadでLightning接続して有線キーボードを利用することが出来ます。ただし,JIS配列キーボードではないため,かな配列が変則的になっている点は問題が残ります。

iPadでかな入力を実現しようと果敢に挑んだ点は高く評価すべきですが,JISかなキーボードの需要が大きくない中では,JISかな配列の実現は妥協せざるをなかったということになります。

現時点でiPadで正しく利用できるJISかな配列キーボードは,Apple純正のスマートキーボード(Smart Keyboard)か,マジックキーボード(Magic Keybord)だけになります。

(20201205追記)
その後、リンクスインターナショナルから、正式なJIS配列版の有線キーボードが発売されました。
https://www.links.co.jp/item/lightning-kana-jis-keyboard/

また、Logicool社はiPad用キーボードケースを各種販売していますが、同社の「Folio Touch」という製品には「オックスフォードグレー iPad Air(第4世代)用 日本語: iK1094BKA」という型番が用意され、日本語キーボードとなっているようです。

さらに、最近はMacやiPadをサポートするメカニカルキーボードも増えてきました。日本語も正しく入力できるようになっています。おそらく中国の製造業界でJIS配列キーボードのノウハウが流通し始めたせいかも知れません。今後は日本語キーボードもいろいろな製品が出てくると思われます。
NuType F1キーボード
https://www.amazon.co.jp/dp/B08BC1DL5B/
JISキー対応/セミオーダー式。メカニカルキーボード「Keychron K1」
https://camp-fire.jp/projects/view/270972

〈参考〉iPadのキーボード関連情報
Lightning搭載iPadにUSBキーボードに接続して利用する(iPad Wave)
https://www.ipodwave.com/ipad/howto/keyboard_usb.html

キーボードのキー配列

少しGIGAスクール構想の「標準仕様書」の話題に戻しましょう。

これまで明示的ではなかったとしても,文教分野に導入する機器のキーボードは,JIS日本語キーボードを基本に考えてきた伝統がありました。

ところが,GIGAスクール構想の「標準仕様書」では,コスト面や負担感といった事柄を考慮した結果であれば「USキーボード」の導入は可能であるように示唆しています。再掲します。

【解説】
・キーボードについては、日本語キーボードではなくUSキーボードにした場合、より安価に調達できる可能性がある。児童生徒にキーボード入力を指導する際の児童生徒・教師の情報活用能力や負担感を鑑みてUSキーボードに変更しても良い。

JISキーボードとUSキーボードにはどんな違いがあるのでしょうか。

JIS
US

詳細については,ネット上に様々な記事が掲載されているので「JISキーボードとUS英語キーボードの違い」などの検索語で探してみてください。

画像を見比べるだけでも,左右のキーの数や形が異なっていたり,記号の配置が(たとえば@マークに着目してみると)異なることが分かります。

昨今では,ローマ字方式で日本語入力をする人たちが多いため,かな表記が不必要であるとか邪魔であるとの意見が表明される機会も多く(特にネットメディアに関わるローマ字入力ユーザーがそのような論調を個人的意見として流す機会が増えたため),JISかな配列キーボードの必要性や必然性が薄れているように受け止めやすくなっています。

日本語独自の注音記号に特化した「かな」キーボードにコストをかけるより,世界中に流布している「アルファベット」キーボードに人間側が対応した方がメリットが多いのではないか。特に,記号の配置の違いは,日本語とは関係ないにもかかわらず海外キーボードの利用時に戸惑ってしまう問題もあるからです。

その意味でも,GIGAスクール構想の標準仕様書が,USキーボードを許容したことは一つの見識だと思います。

しかし,それは安価であるからという理由で選択すべきではないでしょうし,負担感といった理由は何を持って考えて判断材料とするのか,そのことはちゃんと考えておかなくてはならないと思います。

〈参考〉キーボードのキー配列
キー配列(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/キー配列

文字入力方式

「文章を入力する際には,キーボードが必要である。」

現在の私たちがおおむね合意している考えかも知れません。この文章もキーボードを利用して入力していますし,別の方法で入力することは想像が湧きません。

しかし,何かを実現する方法に,効率性の善し悪しはあっても,手段として正解があるわけではありません。

同じ文章を手書きで綴ることも可能ですし,コンピュータへの「手書き入力」性能も過去から飛躍的に進歩しています。

また,音声入力も現実的な手段になりつつあります。まだ誤認識したものを修正する作業は面倒が残りますが,そうした課題も改善されていくかも知れません。

さて,キーボードから話が離れては意味がありませんので,ここではタイピングによる文字入力の話に戻りましょう。

「ローマ字入力」と「かな入力」の問題についてです。

もはや決着はついていると言われることも多いですが,この問題は,先のキーボードのキー配列にも関わる事柄です。

ローマ字入力は,アルファベットで日本語を入力することにより,世界中に流布しているキーボードで分け隔てなく入力できます。(もちろん,漢字変換処理が別途用意できるという前提付きです。)

これによって,英語等を入力する場合とも利用するキー配置が共通するので,移行コストのようなものが低いかも知れません。

一方で,ローマ字だと読み仮名に対する打鍵数(キーを打つ回数)が多くなってしまうため,キーボード操作の音が賑やかになります。記者会見で鳴り響くタイピングの打鍵音を想像してもらえればよいと思います。

かな入力の場合,50音をJIS規格に準じて配したキーレイアウトで入力しなければならないため,扱うキーの数は多くなることになります。

ただし,かな入力は読み仮名に対する打鍵数は音数に近くなりますし,同じ打鍵数ならば入力できる文字量は多くなります。

それぞれの入力方式には,それぞれの特徴があり,どちらが正しい入力方式であるということはありません。ただ,かな入力に対する風当たりが強くなっている風潮があり,その方式を選択することが難しくなっている面はあります。

注音記号としての「かな」を「ローマ字」として学ぶことや,日本語をローマ字入力できるようになることは,グローバルなツールであるコンピュータを扱う以上,持つべきスキルです。

しかし,そのことと「かな」を大事にすることや,「かな」の持つテンポを味わうこと,またそれを利用して日本語入力する方法を維持することは,両立していてよいのではないかと思います。

スマートフォン端末の日本語入力では,フリック入力という「かな入力」が根強く残っています。そう考えると,今後も多様な方法を試したり身につけたりできるような余地を残す努力が大事なのではないかとも思います。

日本語漢字変換

キーボードと文字入力にまつわる問題を考えてきましたが,最後は「日本語漢字変換」について。

パソコンの世界では,日本語入力フロントエンドプロセッサ(FEP)と呼ばれていたり,現在はインプット・メソッド(IM)や日本語入力システムといった名前で呼ばれています。

今回のGIGAスクール構想の標準仕様書には,キーボードの記述はありましたが,日本語入力システムに関する記述は特にありませんでした。

モデル仕様①②③の各OSは,それぞれ標準の日本語入力システムを持っているため,それを利用するのが前提ということになるかも知れません。

Windows IME
https://support.microsoft.com/ja-jp/help/4462244/microsoft-ime
Google日本語入力
https://www.google.co.jp/ime/
Apple入力
https://support.apple.com/ja-jp/guide/ipad/ipad997da459/ipados
https://support.apple.com/ja-jp/guide/japanese-input-method/welcome/mac

かつては日本語入力システムは「辞書」の品質が重視された時代もありましたが,現在はインターネット上の言語解析成果や機械学習技術の進化によって,漢字変換効率の細かな比較や性能評価はあまり行なわれなくなりました。

使い勝手などの側面でサードパーティ製の漢字変換システムが利用されることは現在でもありますが,無料で利用できるものがある中で,有料のものは淘汰されてほとんど残っていません。

ATOK
https://www.atok.com
Shimeji
https://simeji.me

一部の日本語漢字変換では,小学校の場合で学年別漢字配当にしたがって変換表示される漢字を制限したり,ふりがなの振り方を設定できたり,限定した専用辞書を用意するといった配慮がなされてきました。

学年別配当漢字、常用漢字を自動判別してふりがな設定
https://www.justsystems.com/jp/products/ichitaro/feature2.html#certainlyhelp
Microsoft IME 2012 小学生辞書 学習漢字限定版
https://www.microsoft.com/ja-jp/download/details.aspx?id=41192

教材作成場面で利用することを想定したものであるため,児童生徒用の端末にこうした配慮が必要であるのかは,別問題と思われます。とはいえ,この辺の問題もちゃんと議論された気配はないため,もう少し議論を重ねていくことは必要かと思います。

いずれにしても,日本語入力という部分が各OSの標準機能で処理されることになっているにも関わらず,上記のリンクで分かるように,あまり情報提供はされておらず,私たちもまた十分な議論や検討を加えられていないという現状があります。

〈参考〉手書きインプットメソッド
mazec for School
https://product.metamoji.com/education/mazec.html

言葉を綴る文具

キーボードは,言葉を綴る文具の重要なピースです。

文具を偏愛する人がいるように,キーボードを偏愛する人々もいます。

購入した端末に附属していたキーボードでずっと慣れて使ってきたというパターンも多いと思います。しかし,一方で,手に馴染む万年筆を探し続けるがごとく,打ちやすいキーボードを探し続けることもあり得ることです。

たとえば,自作キーボードを求める人たちもいます。

遊舎工房
https://yushakobo.jp
日本初の“自作キーボード”専門店「遊舎工房」が秋葉原にオープン 店内の様子を速攻レポート(ITmedia)
https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1901/13/news029.html

GIGAスクール構想は,児童生徒数分の大量の情報端末を学校に整備する事業です。そのため,個別のこだわりについて配慮する余裕はありません。コストのことを考えれば,一番安価な選択肢を選ぶだけで精一杯なのかも知れません。

そうであれば,なおさら,そのスタート地点からどれだけ個人の利用に繋げるための配慮や自由度を広げるかについても,同時に考え始める必要があるのではないでしょうか。

大きな事業で実現されることは,あまり理想的だと言えないのが世の常です。

そこからどれだけより良くできるか。そのためのフリーハンドをどれだけ確保できるかということです。

今回のキーボードの問題は,あくまで一つの問題に過ぎませんが,そうした全体の問題を考える手がかりとして,個人アカウントの問題とともに議論を重ねていく必要があると思います。

学習者と情報環境

全国の学校に高速な校内ネットワークが整備され,児童生徒1人1台分の情報端末が整備されます。「GIGAスクール構想」と呼びます。

2019年末に「GIGAスクール構想」への予算確保が決まり,令和2年度中に小中高校の校内ネットワーク整備と,令和5年度までに学習端末を整備することが示されました。

ネットワークはインフラ

あらゆる学校に水道管や電気線が引かれているように,情報線も整備されて然るべき時代となりました。インターネットが社会的インフラであることは疑いようがなくなっています。

今回のGIAGスクール構想の1つは,全国の小中高校に今どきの校内ネットワークを整備する事業です。通信速度が遅いネットワークも,今回を機会に工事し直すことが求められています。下図の整備率が100%になることが目標です。

今回の整備事業の対象ではありませんが,インターネット接続率の現状は以下の状況です。学校が必ずしも高速ネットワーク接続されているわけではない場所であることが如実に表れています。

一般住民としては,災害等の緊急時に主要な避難場所となる学校の情報インフラがこの状況というのは,(そもそも避難場所の空間としての貧弱さも含めて)非常に不安を感じるものです。

学校のネットワーク整備がもしもの時の住民サービス基盤でもあることを理解して,必要であれば自治体の首長や議員に向けて,整備への賛意を表明していただければと思います。

情報端末は学びの文房具

日本の学校教育にコンピュータが入り始めたのは,1960年代終わりから。

最初は,集団自動教育装置と呼ばれた「KAMECOM-1」が,香川大学附属中学校に実験導入されたのが記録で確認できます。つまり50年も前から学校にコンピュータを導入する試みが始まっています。

国が教育用コンピュータに補助を出し始めたのが1985年度なので,そこから数えれば35年ほど経過しましたが,残念ながら学校のコンピュータ整備も,地域格差の象徴となりました。

世界的電機メーカーを有していた日本がこの整備率であるのは(日本に住んで裏事情を知る私たちはともかく)世界の人たちからすると摩訶不思議な事態です。

35年かけてダメだったことを年末年始に急ごしらえして,このあと3〜4年かけて実現できるのかどうか。正直,どうなるか分かりません。ダメに決まっていると言う人が多いんじゃないかとも思います。

何を言うのかは自由ですが,事業自体は進みますので,政府はもちろん自治体担当者の方々が困難を乗り越えながら対応していることも忘れないでおきたいものです。国の補助が受けられる機会をすべての自治体が活さなければ,地域格差の拡大が進むのですから。

応援したいと思う一般住民の皆さんは,教育委員会に直接コンタクトするのではなく,むしろ,首長や議員,もしくは財務部局へのプレッシャーなどが効果的かと思います。

“学校で用意する”から”家庭で用意する”へ

国の補助は恒久的なものではありません。

“巨大玉転がし”にたとえるなら,転がりにくい初動の押しを国が助けるもので,転がり始めれば,あとは各自治体や家庭で押し続けて欲しいというものです。

最終的には”文具”として情報端末を家庭で用意することが目指されています。Webブラウザから授業や学習で利用するサービスにアクセスできる性能が確保されたものを自前で用意することが理想です。

しかし,そうなるためには,学校や先生達が自分たちの学校教育をそれに対応できるよう作り替える猶予と支援が必要となります。

端末を学校で用意することを続けられるなら,端末に制限を加えて使用頻度を落とせば何とかなります。

しかし,端末を家庭で用意して持参してもらうようになると,端末に制限をかけることは難しくなりますし,使用頻度を落とせば文句を言われることになりかねません。

学校関係者が懸念を感じないわけがありません。願わくは,携帯電話と同様に学校への持ち込みを禁止してくれた方が良いと考える人が多くなるのも,不思議はないように思います。

35年間の失敗は,こうした懸念や禁止意向に対して,納得させるまでの十分な対応が出来てこなかった上,拠り所とすべき理論的根拠の提供も行き渡らなかったことだと思います。

グローバルとイノベーションを必要とできるか

今回のGIGAスクールのGIGAは,Global and Innovation Gateway for Allの頭文字です。

学校にグローバルとイノベーションというキーワードを持ち込もうとする試みであり,今回の事業は,そのための条件整備となります。

新たに持ち込まれる考え方に対して「重要性」や「有効性」を感じられるのか,先生方はどのような「感情」をもつのか,それらを踏まえて,そもそも新しい考え方に取り組む「意欲」が生まれるのかを丁寧に解きほぐさなければなりません。

率直に言えば,平均的な学校の様子を思い浮かべると,グローバルもイノベーションも縁遠いものであり,「重要性」「有効性」を当事者として感じ取ることは難しいのではないかと思います。

そうなれば,新しい考え方を押し付けられる状況に直面した際に,好意的な「感情」を持つはずもなく,そうなければグローバルやイノベーションに対して「意欲」的に取り組むことはあり得ません。

その場合,往々にして私たちは,危機に瀕することを通して,物事の「重要性」や「有効性」を感じ,危機意識を「感情」として,何とかしなければならない「意欲」へと追い込まれて初めて動くことになります。

これが従来の日本的なやり方です。たぶん,ほとんどの人々が暗黙のうちに認めてきた段取りだと思います。

ただ,それが今後も幸せなやり方かどうかは議論が分かれます。前向きに取り組んだ方が,こんなにいいんだということを誰かが示す必要があると思います。

教師から学習者に戻れるか

学校は,教師と児童生徒が授業をする場所から,多様な学習者が集う場所へと変わることが求められています。

よく「学習者中心vs教師主導」という構図を持ち出すことがありますが,この「学習者中心」というのは,教師が学習者に戻ることで初めて意味を持ちます。

学校という場が,先輩学習者と後輩学習者を中心とした場所となれば,それは学習者中心の場所となるわけです。

教師から児童生徒への知識伝達というイメージも,学習者同士の知識共有と創造にイメージを変えていければよいですし,それが世界中をフィールドに展開すれば,あるいはグローバルとイノベーションという考え方が自然と入り込むのかも知れません。

意外かも知れませんが,平成29,30,31年改訂の学習指導要領は,そういうことも視野に入れたものでした。

もし先生達が学習者に戻るとなれば,それ相応の情報環境が必要になります。そのためのネットワークと情報端末も。

GIGAスクール構想は,学習者のための学習環境を確保するための条件整備です。そして,学習者とは,あらゆる人たちのことを指すといってもよいと思います。これは私たち一人ひとりのための取り組みなのです。

準備期間ではない学校教育の始まり

学習指導要領の捉え方が平成29年改訂で根本的に変わったことを,学校教育関係者でさえ実感していないかもしれません。

「資質・能力」や「見方・考え方」という新たなキーワードを使って混み入った理屈が連なっていたり,カリキュラム・マネジメントを学校や教師レベルで展開しなさいと求められてはいるけれども,単にそれはいつものように要求項目が増え,現場の人間がなんとかしなさいと言うための方便だと受け止めているのがほとんどだと思います。

実際,小学校を例に取れば,先行して始まった特別の教科「道徳」に続いて,教科「外国語」の新設,プログラミング体験の導入など,教育内容は単純に増大しています。

授業時数に限ってみても,教科「外国語」の分が時数増加するわけですから,そのしわ寄せが学校行事等に及ぶなど,学校はてんやわんやの状態です。

こうした大騒動は,新たな学習指導要領を従来の捉え方の枠組みの中へハメ込もうとする困難から生じています。

しかし,蓋を開けて試行錯誤を進める中で,やがて分かってくるのは,「従来の捉え方の枠組み」の方を変更しなければならないということなのです。

つまり,学校の守備範囲を変えざるを得ないということです。

学校教育は社会で生きるための準備期間であるという捉え方が堅持されてきました。

そうすることで適切に配慮された教育内容を系統的に学ぶ場を確保し、子ども達が安定的に社会参加に向けての成長を遂げられると考えたからです。これは人権を保障され行使する存在としての市民を育成する意味でも重要です。また、社会から隔離することで子ども達が安心して試行錯誤することも保証できるからです。

しかし、社会生活の準備期間としての学校教育を仮に「K-12」の範囲と考えた場合、その18年間、社会生活をしていないのかといえばそうではなく、すでに市民の一員として立派に社会活動を展開しています。

現実の学校教育は、準備としての学校教育にとどまらず、とうの昔から社会活動を実践している青少年市民を相手に社会教育としての役割を担わざるを得なくなっていたのです。

つまり、準備期間ではない学校教育は始まっていたのです。

このような前倒しが起こっていたにもかかわらず、学校は社会から隔離された状態を保ち、準備教育として良かれと思われることに焦点化を続けてきました。

特に日本の学校教育は、諸外国の学校教育に比べて、社会との結びつきを限定的に絞ってきた傾向が強くあります。

いま、学校にまつわる話題の数々が世間を少なからず驚かせてしまっているのは、裏を返せば学校教育活動が世間と距離をとり続けてきたことの証左であるともいえます。

加えて、何らかの問題に直面した教育委員会がとる対応等が、一般市民が取るべきと考えるものとズレていることが多いのも、教育委員会事務局や学校教育関係者に世間とやりとりできるコミュニケーションチャンネルが持たされてないことに遠因があるように思います。

それもこれも、準備期間としての学校教育を営むにおいて、実社会と直結するようなパイプは必要なく、教育的なフィルタリングを通してのみ関わることが望ましいと考えてきたためです。

これは教育学的には、現在でも有効なアプローチであることは確かでしょう。

ただし、学校教育の教育内容が、現代社会における準備を担うに相応しいものであるならば…です。

変化の緩やかな時代ならば通用していた方法も、情報が常にアップデートされ、知識活用そのものが学習活動であると考えられるようになった現代においてはもう、通用しないのです。

教育内容を習得・探究するだけに留まらず、活用を見通す必要をうたったのは平成20年度改訂からでした。

この助走が、平成29年度改訂の学習指導要領において、学校から実社会に向けた働きかけという形で本格的な走りとなります。

これは学校教育自体を反転させる試みです。

日本的に理解を促すのであれば、児童生徒達の社会活動を学校教育の場に前倒しすることだといえます。

そこにはもちろん準備期間としての学校教育活動も存在するとは思いますが、そうした期間は短めに区切って、実践的なプロジェクト活動として知識の活用を促し、さらなる習得や探究をも引き出していくような姿が求められているといえます。

そのためにはまだ、教職員や児童生徒、学校にとっての武器となるリソースが足りません。人手もたくさんいるでしょう。

そして、何より、学校教育に関わりうる人々の学校教育に対するマインドセットを変えることからスタートしなければならないと思います。

昨今の学校における1人1台学習端末も、学校教育に対するアップデートされた認識からすれば、遅すぎたとはいえ、至極当然の措置であり、それも足がかりにしながら学校教育を反転させていかなくてはなりません。

誰が反転させるのか?

ここまでは、実社会と距離をとりながら、学校教育関係者が学校教育を担ってきた流れにありました。

保護者も地域社会も,準備期間を担う学校教育を専門家である関係者に任せ,子どもたちを預けてきました。そして必要に応じ,協力者として関わる形を取ってきました。

平成29年度改訂の学習指導要領は「社会に開かれた教育課程」と位置づけられています。

このことの意味は,準備期間ではない学校教育の始まりをあらためて宣言し,学校の教職員や児童生徒を実社会の一員として対等に扱うことを通して学びの世界を社会に広げていくことだといえます。そこでは協力者という立ち位置とまた異なる関わりが必要だと考えられます。

けして新たな教育理念が導入されたということではなく,これまで理念として人々が語り思い描いていたものを,学校教育への実際的な関わりとして具体化し実践していくことなのだろうと思います。

今回の学習指導要領がそうした学校教育のアーキテクチャの大幅アップデートだとすれば,私たちは用意された環境のもと,実社会に結びついた学習活動という様々なアプリのインストールによって動かしていくことが求められているともいえます。

さて次は,社会の側にいる私たちのターンです。