2011年7月13日に「平成22年度学校における教育の情報化に関する調査結果」の速報値が文部科学省により発表されました。
この資料は、日本の教育における情報環境の程度を表わすものとして頻繁に参照される重要度の高いものです。
国内の政策決定のための資料として用いられることはもちろんですが、同時に国外に対しても公式な統計情報として提供されるわけです。
このことが意味するのは、調査結果を恥ずかしい形で出すのは躊躇われるという心理が働きやすいということでもあります(働いたかどうかは知りません)。
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資料を参照する人々がほぼ共通して思っていることにも関わらず、誰もハッキリとは批判しないのですが、この調査の速報値公表には問題があります。
一つ目は、本調査が経年調査であることから生じる根本的な問題です。調査対象の変化に調査内容のカテゴライズがうまく適合しなくなっているのです。
二つ目は、速報値スライドに代表される数値の提示の仕方が、ミス・リーディングを誘発していることです。
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カテゴライズの妥当性ですが、この調査に登場するのはこんな感じです。
コンピュータ
教育用コンピュータ
クラス用コンピュータ
可動式コンピュータ(ノート型の教育用PC)
教員の校務用コンピュータ
OS種
Windows 7
Windows Vista
Windows XP
その他Windows
MAC OS
その他のOS(Linux等)
周辺機器
プリンタ
スキャナ
実物投影樹
デジタルビデオカメラ
デジタルカメラ
プロジェクタ
インターネット接続回線種
光ファイバ
ダイヤルアップ接続(アナログ又はISDN)
ADSL
CATV
地上波無線
その他
デジタル化対応テレビ
デジタルテレビ
アナログテレビ(デジタルチューナー付)
電子黒板
一体型
ボード型
ユニット型
調査結果からの抽出なので、質問紙には他の用語が登場している可能性もあります(たとえば「可動式コンピュータ」に対する「固定式コンピュータ(デスクトップ型)」とか)。
少なくとも、今後はタブレットPCを加える必要があるでしょうし、その場合に「キーボード付き折畳みタブレット型」なのか「タッチ画面のみのスレート型」なのかといった違いも加えなければならなくなります。
また、教室区分も「コンピュータ教室」「普通教室」「特別教室等」「その他」となっていますが、これも実態を把握しようとする時に十分とはいえなくなってきています。
たとえば普通教室の数は、少子化の影響も考えると必ずしも稼働実態を表わしているわけではありません。小中の場合は学級数を考えたいところです。
さらに特別教室も、理科室や音楽室など教科と結びついた教室での利用実態を細かく把握したい場合には、詳細を知ることができません。
経年調査としては頻繁なカテゴリ変化は避けたいところですが、このままの枠組みでは調査自体の価値が減衰してしまいかねないでしょう。
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カテゴライズに無理が生じていることは、調査結果の数値をどう提示するのかという問題にも影響しています。
機器の整備状況を参照したい場合、単純に整備「台数」を見たいのか、「学校数」に対する「率」を考えるのか、「普通教室」に対する「率」を検討したいのか、目的によって得るべき数値は異なります。
調査結果の速報値スライドにも掲載されている「電子黒板の整備状況」というグラフは、調査対象である学校に普及している「台数」をもとに折れ線グラフで表示しています(H23.3.1現在の数値で60,474台)。
ところが、そのグラフと同じ頁の左隣には「普通教室の校内LAN整備率」というグラフが、「パーセンテージ」の数値をもとに折れ線グラフで示されています(H23.3.1現在の数値で82.3%)。
どちらもよく似た折れ線グラフで示されていますが、方や100%を頂点とする「パーセンテージ」で、方や7万台を頂点とする「台数」で描かれているのです。
このスライドが「イケてない」理由はお分かりでしょうか。
校内LAN整備があともう少しで目標に到達するように理解したところで、それと同じような印象を電子黒板の整備状況にも持つようになってしまっている点です。
これでは7万台に到達すれば電子黒板の整備は目標を達成するかのような表現です。
しかし、電子黒板の整備目標というものは、どこにも明示されていません。
仮に、普通教室の数だけ電子黒板を普及させたいと考えたとしましょう。その場合、普通教室の数は約46万教室ですから、パーセンテージにすれば「13%」程度に過ぎないのです。並んだグラフは全く違う印象を与えるはずなのです。
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こうした提示の仕方になっている理由が、冒頭に書いた心理が働いたためなのかどうかは分かりません。
少なくともこのグラフでは整備の必要性を訴えるための資料にはなり得ていないことは確かです。
そして調査結果が示していることを勘案するなら、デジタル教科書に浮気する前に、本当ならば電子黒板の普及を猛烈に推し進めることから取り掛からないといけないはずなのです。
そのような動きが以前はあったはずなのですが、歴史の皮肉というヤツでしょうか、2009年の夏に起こった政権交代がここに影響しているとも言われています。
そして今年の311大震災がさらに状況を困難にしています。
こうした状況では、お上品に正論を述べて待っていても、だれも教育投資をしてくれるはずがありません。
教育関係者は、誰が自分たちの味方なのかを見極めて、結託しなければならなくなっています。
それはもしかしたら、売り逃げするだけと馬鹿にし続けてきた業者の皆さんかも知れない。耳に心地の良い言葉を投げ掛ける政治家よりも、教育現場のことを考えて実際に動いてくれるのは文教市場を支えてくれている業者の人達かも知れないのです。
「教育の情報化に関する調査」から見えてくるのは、そうしなければならなくなったという時代変化かも知れません。
月: 2011年7月
FS推進事業をより良く批判するために
総務省のフューチャースクール推進事業も2年目。裏話的なことを書けば、ぼちぼち最終年度に向けた予算取り準備の時期に入っている。
まずは進捗状況をご報告すれば、今年度の取組みは昨年度からの継続として粛々と行なわれているが、現場を取り巻く様々な事情は震災影響と省庁連携のおかげで、相当散らかった状態である。
先日、ようやく事業拡張分である中学校と特別支援学校の公募があったところであるが、今回は総務省だけでなく文部科学省の事業としても応募して認められなければならないので、配慮しなければならないことは膨らんでいる。
情報機器インフラ整備と情報機器活用促進という両輪のそれぞれを総務省と文部科学省が管轄することは、一見すると無駄なようでもあるが、やはり餅は餅屋が担当し、分けておいた方が後々効果を発揮するはずである。
というのも、教育の情報化は、とかく学校現場のペースに合わせるという議論が優先されがちで、インフラ整備という観点から積極的に推し進める圧力に欠けてきた前歴がある。
今回、総務省が「教育的な配慮」を見せながらインフラ整備の事業を展開してくれているのは有り難い話で、本当なら四の五の言わずに情報網引っ張ってしまえば、大震災が起きた時に避難所となる学校が情報のハブにもなり得るのである。
そうであるから、文部科学省が教育への機器活用という限定的なところで取組みをするというのも、不得意なところで足踏みしないで済む分、指導法とか学習効果の部分に調査を注力できるメリットがある。
フューチャースクールは、せいぜい10年後の未来を想定した試みに過ぎない。そういう意味では、皆さんが思い描く「よりよい未来」には見合うはずもない。
ただし、10年後はその先何十年、何百年続く次の教育に移行するための大事な「入口」であることは確かである。
その入口を明確なものにするためにも、私たちが取り組んでいるフューチャースクール推進事業や学びのイノベーション事業は、大変重要なものであり、ここにちゃんとエネルギーを注ぐ必要がある。
ただし、そのためには皆さんにこの両事業を「正しく批判」していただく必要があると考えている。
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フューチャースクール推進事業の取組みが報道されたものを見たり聞いたり、実際に実証校に見学に行って、「これじゃダメだ」という感想を抱く方々がいることを私たち関係者も知っている。
・導入しているシステムや機器がダメとか
・機器を使うことが目的化してる授業に意味あるの?とか
・業者が学校現場に売り逃げしているだけではとか
・機器の操作だけであんなに手こずって大変そうとか
皆さんがご自分の経験や知識をもとに、様々な感想や判断をお持ちになる。
それはそれで構わないと思う。まっとうな意見や批判は事業改善の課題や検討事項として参考になるし、単なる印象論にもとずく否定的意見や事実誤認に対しては反論するだけだし、冷ややかな感想やツイートは私たちの気持ちが萎えるだけである。
それでも、もし少しでもこの国の教育の情報化の前進に役立つために一言二言が言いたいのであれば、こういう風に文句をつけていただきたい。
「この事業の水準や成果はともかくとして、この取組みを後世に引き継ぐための努力を行なっているのか」と。
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たとえば、有識者によって構成される省庁付の研究会一つとっても、異なる世代が交わる形になっていない。もう少し、先行世代が後継世代に財産を受け渡しができるように考えた方が良い。
考えてもみて欲しいが、同じ予算を投資するとして、船頭多くて議論や視察ばっかりして終わる事業と、船頭と漕ぎ手がちゃんと関係を築いて、それが次代の船頭を育成することになる事業のどちらが投資対象として魅力的か。
現在、各実証校で進行中のFS推進事業については安心していただきたい。皆さんには良くも悪くも見えるかも知れないが、実のところそれは誤差の範疇である(今になってその誤差は大き過ぎやしないかということも理解はしているが…)。
なぜなら現場で得られているものは、お手本としてであろうと反面教師としてであろうと役立つはずだからである。「あんなもの入れて、役に立つわけがねぇ」という見解もまたその成果に含まれるのだから。
もしも何かを批判的にチェックするのであれば、現場の成果を活かすように柔軟なマネジメントやコーディネイトできているのかどうかという点である。
その意味で、省庁付の研究会が担う責務は大きいが、だからといってお歳を召している人々ばかりに未来をお任せするのはどうかと思う。もっと若い人達にトップに立ってもらって、現場を鼓舞して欲しいと思う。
それだったら予算を割く価値があるというものだ。と、そんな批判をして欲しい。
教育の情報化3.0とは
「教育の情報化」という取組みがあります。
この言葉が広く使われ出したのは1999年における省庁連携のタスクフォース名として使用されてからだと記憶しています。それまでは「情報教育」といった言葉が主に用いられていました。
情報教育がコンピュータ教室の設置という発想で展開していた動きだとすれば、教育の情報化は普通教室におけるパソコン利用や校務の情報化といった学校教育全般にITあるいはICTを埋め込むという発想で展開していたと言えます。
もしもバージョン番号を振るなら、前者が情報化1.0で、後者は情報化2.0といったところでしょうか。
さてしかし、1.0も2.0も胸を張れるほどの普及を果たしたとは言えないようです。昨今では電子黒板導入といった情報化2.5くらいにあたる動きが進められているようですが、これも地方自治体によって温度差があり、日本の公立学校に共通して確実に備わっているものとは見なせません。
総務省が行なっているフューチャースクール推進事業は、名前から受ける印象とは違い、2.0範疇の情報化です。昨今のキーワードであるクラウドやタブレットPCなどをちりばめていますが、そこで実現しようとしているものは明らかに情報化2.0発想です。
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情報化1.0とは、情報機器の設備化のことでした。産業社会におけるOA機器の導入と期待のもと、職業教育の文脈に触発されて、主に高等学校のコンピュータ教室から設置が推進されていったわけです。学校設備にコンピュータが加えられていったわけです。
情報化2.0は、情報機器の備品化でした。やがて情報機器がパーソナルコンピュータという名称を得たり、ソフトウェアなどの充実によって活用範囲が広がり始めることにより、道具としての導入が進展していきます。
たとえばワープロとしての利用は広範囲に及びました。実態は教員の個人所有であることがほとんどであったわけですが、学校教育活動に不可欠であるという意味において備品であったといえます。
そして、私たちは今も情報化2.0の範疇にいるように思えます。
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教育に情報化3.0があるとすれば、それは何でしょうか。
1.0と2.0の流れからすれば、3.0は情報機器の個人所有化なのでしょうか。
たとえば、他の学用品と同様に一人ひとりの児童生徒が購入して所有し、必要に応じて学校での学びに活用するといった形のものでしょうか。
であれば、ケータイやスマートフォン、スレートデバイスなどのモバイル機器が極々ありふれた形で学校教育に入り込むことがイメージされるのでしょうか。
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おそらく情報機器という部分に照明を当てれば、情報化3.0においてもそのような風景が描かれるのかも知れません。
しかし、すでに私たちがクラウドやソーシャルメディアといったキーワードに触れて理解しているように、情報化3.0の主役は機器ではなく「情報」です。
情報機器がパーソナライズされることよりも、私たちが自分のパーソナライズされた情報を所有し、自分と自分の関係する人々が個々の権限において情報を操作できるという環境を実現することです。
よって、その意味において、情報化2.0のステージにあるすべてのものが再編成あるいは再構築されていくのが情報化3.0なのだと考えられます。
私は、カリキュラム研究者(の端くれ)なのですが、そのような立場からこのことを言い直せば、情報化3.0とは「カリキュラムの情報化」であるということです。
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この「カリキュラム」という言葉には、教育内容や教育課程という意味に留まらず、学習履歴や指導履歴など広義の概念を含ませており、むしろ私がカリキュラムの本質だと思っているのは後者の「履歴」に他なりません。
ですから、デジタル教科書というものが教科書を情報化したものだからとか、クラウドに保管されてネット経由で参照できるから、これは情報化3.0だとはなりません。それはせいぜい情報化2.5程度のことです。
そこに履歴の概念が折り込まれて、自在に管理操作できることが情報化3.0への道筋なのです。クラウド化はそのために必要な技術ではありますが、クラウド環境を導入したからといってそれが情報化3.0ではないのです。
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このことが学校教育にどのような影響を与えるかは、まだハッキリしていません。児童生徒の学習に絶大な効果を及ぼすのかも、確かめようがありません。
今のところはせいぜい、災害時に学習記録や校務情報がクラウドに保管されていると有り難いかもね、なんて話くらいしか訴求できそうなネタがありません。
ただ、恐らく私たちの社会生活は、ますますパーソナライズされた情報を背負う形で生きていかなくてはならない方向に進んでいるように思います。しかもその主戦場はネット、つまりはクラウドの世界。
善くも悪くも、日本という国は先行世代に優しい国なので、常に窓口には「紙と筆記具」が用意され続けるので、情報機器で直接管理する必要性を免れられる傾向にありますが、世界を相手にするとなるとそうも安心していられません。
私はこれも、どのような履歴をたどろうとするのかという意味における選択に他ならないと考えています。
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情報化3.0へのモチベーションには、情報化2.0のものに比して、より「思想」が求められているといえます。
しかし、他ならぬ教育自体が、この思想という部分において脆弱になっていることが、この問題を難しくしているのです。
そのかわりとして日本の教育を支えていたのは「制度」であったわけですが、ご存知の通り、制度ももはや疲労を起こしている。
その中で、私たちは個々人が哲学的な問いを経て、ある種の思想を形成していかなくてはならないと思うのですが、残念ながら、そのような思索が十分交わされているとはいえないのが現実のようです。