教育情報化をめぐる歴史の旅を1985年から始めるのは,実のところあまり得策ではないかも知れない。
確かに「コンピュータ教育元年」と呼ばれ、いくつか興味深い報告書の提出や「教育方法開発特別設備補助」といった予算措置が生まれるなど,教育情報化に関する動きが激しかった年である。
つまり,それだけ大きな対象ということであり、出発地での滞在が長引いて,なかなか旅に出かけられなくなる危険もありそうだからだ。
であれば,この旅路の通過点あるいは終着点を,同じ1985年に置いてみるという手もある。実際,この1985年前後は学校教育という文脈にとっても,またコンピュータという文脈にとっても,きわめて賑やかな時期であり,繰り返し振り返る材料には事欠かないだろう。
この年,教育は大きな議論を展開していた。
—
「戦後政治の総決算」
そんな言葉を真剣に受け止める土壌が当時少しは残っていたのかどうか。中曽根首相が臨時教育審議会を設置したのは,改憲のため教育基本法改正するに至る教育理念や哲学の改革を願ってのことだった。
1984年から1987年の4年間に設置された臨時教育審議会が,今日の教育の在り方・考え方に強い影響を与えたという概説は,大概の教育史テキストに書かれている。
諮問に対して審議会が設定した課題は以下のようなものであった。
(1) 21世紀に向けての教育の基本的在り方
(2) 生涯学習の組織化・体系化と学歴社会の弊害の是正
(3) 高等教育の高度化・個性化
(4) 初等中等教育の充実・多様化
(5) 教育の資質向上
(6) 国際化への対応
(7) 情報化への対応
(8) 教育行財政の見直し
多岐にわたる課題と臨時教育審議会がどのように格闘したのか,それはもう少し先の旅路で振り返るとして,7番目にある「情報化の対応」に関して答申がその後の情報教育の流れを確定させたとも言われている。
1985年に第一次答申,1986年には第二次答申が出されたが,そこで謳われたのは次のような提言であった。
情報化に対応した教育を進めるに当たっては,情報化の光と影を明確に踏まえ,マスメディアおよび新しい情報手段が秘めている人間の精神的,文化的発展への可能性を最大限に引き出しつつ,影の部分を補うような十全の取組みが必要である。このような見地から,情報化に対応した教育は,以下の原則にのっとって進められるべきである。
ア 社会の情報化に備えた教育を本格的に展開する。
イ すべての教育機関の活性化のために情報手段の潜在力を活用する。
ウ 情報化の影を補い,教育環墳の人間化に光をあてる。
「○○の光と影」といった文言は,この答申で使われたこともあってか情報教育界隈で頻繁に見かけるフレーズとなっている。
—
それにしても1985年をおどろおどろしい政治行政話から始めたことは,時代の空気とかけ離れてはいまいか。
1985年は,つくば科学万博が象徴する科学技術に夢が咲き,AKB48のご先祖「おニャン子クラブ」やとんねるずがテレビを騒がせ,阪神タイガースが21年ぶりの優勝と,賑やかさに事欠かない。
またパソコン分野では,パソコン通信という新しい通信メディアへの関心が高まりつつあるという時期でもあった。
こうした時代背景と教育情報化の議論は,どのような距離感で関係を紡いでいたのか。もう少し時代を眺めながら少しずつひも解いていくことにしよう。