世界中の国がICT(Information & Communication Technology:情報通信技術)を教育に活かそうとしています。
OECD報告書(2004)では、各国が教育に対するICT投資を続けてきた理由を次のように報告しています。文言は私が勝手要約したものです。
「教育経費低減への期待」
「経済成長の源泉として重視」
「最低限能力として必要」
「教育・学習の質の改善」
「教育の管理・説明責任の改善」
何に重きを置いているかは国によって異なります。しかし、概して教育に対するICT投資には様々な障壁があるという認識が共有されています。
報告書では「校長や各学校のリーダーたちはICT開発目標を達成するうえでとくに以下の4つの障壁に注目している」として、次の項目を挙げています。
・教室でおこなわれる授業にコンピュータを統合する問題。
・コンピュータの利用時間の確保。
・教員の教授ツールとしてのコンピュータに関する知識不足。
・教員のコンピュータを利用した授業のための準備時間の不足。
これらの克服はもちろんのこと,学校と組織の改革も必要だと続けています。つまりICT導入だけでは意味がないということです。
こうした報告内容は、教育情報化に対する(日本の)人々の直感的な懸念とかなりの程度通じ合っているといえます。拙速な情報化に対して疑心暗鬼が強いのも、一定の根拠があると考えられます。
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しかし、教育に対するICT投資を無価値と裁定して、これをあえて推進しない国を探すことは困難です。
なぜならば、現代は知識情報社会あるいは知識基盤社会と称されているように、先進国に生きるのであれば何かしらICTと関わっていると考えられるからです。
また、産業という面でもICT分野は重要です。たとえば経済産業省の全産業供給指数といった統計資料を見ても,情報化関連の消費の指数は上昇基調にあります。日本に限らず世界で働く場合でも、ICTに対する知識や技能を無視することはできません。
よって、教育が「情報化」を謳うのは必然的な流れであり,私たちは対応しなければならないという前提を共有しなければならなくなっています。
まして、若い学習者が生き続ける未来社会は、私たちが想像する以上にICTを前提としているわけですから,ICTとともにある教育に真剣に向かい合わなければなりません。
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ICTとともにある教育。
それはデジタル教育といった言葉が想起させるような、教育環境のあらゆるものを電子機器に制御させるといったイメージではありません。
ICTという資源は、学校現場の教師が伝統的に受け継いできた教育の資源(それは教育技術という見えない技であったり、教材教具という物質的なものだったり様々)と相通ずるのです。ICTには情報と向き合う技能的な部分も多く,機械的な部分は目立つ一部分に過ぎません。
私たちが学ぶ者にとって最善と思われる教育資源を必要に応じて選択的に駆使するのと同様に,ICTもまたその一つとして選択されたりされなかったりするというだけです。
ICTを近づけることもあれば,ICTを遠ざけることもある。
その遠近操作を他の教育資源と同様に行なえることが、知識情報社会に生きるための学びの環境に必要だと考えます。
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確かに「ICTとともにある教育」という理想を実現するためには、ICT機器はきわめて未成熟な部分や条件が多いと言わざるを得ません。
iPadのようなスレートタイプのタブレットデバイスの台頭は、理想への敷居を低くしましたが、それもまだ始まったばかりであり,未成熟であることには変わりありません。学用品としてのICT機器への道のりはまだ遠いと言えるでしょう。
しかし、それらは時間が解決する小さな問題。
むしろ、ICTと教育の取組みによって奇しくも浮かび上がってきた問題は、教育の場における教育資源が絶対的に不足しているという現実と,必要なものを必要に応じて用意し選択できない仕組みや実態の問題でした。
こうした問題の解決を優先しなければ,どんなに良い資源が提供されようとも、教育の場で利用したり活用できない問題が繰り返されるだけです。
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ICTとともにある教育への過程ともいえる教育情報化の取組みは,ICT機器やデジタル教材の導入という分かりやすい問題に矮小化され、その善し悪しに議論の注意を向けさせてしまいがちです。
しかし、大事なのは教育資源を必要に応じて近づけたり遠ざけたりできる環境の整備であり,そのような環境のもとで教師が知識情報社会に生きる学習者たちに対して責任を持って教育を展開できることだと考えます。