アプリやサービスをレビューするということ

 日頃,教育と情報のフィールドを眺めていると,様々な製品やサービスに触れることになります。自分に合っているものを選択できるというのが一番よいことなので,基本的には「あるべき」形が一つに定まることはないと考えています。

 しかし,教育関係のアプリやサービスについて評価したり論じる必要もあるため,私なりにレビューの観点を持たなければなりません。とはいえ,これも固定的な観点があるというわけではありません。対象のアプリやサービスの目指しているところで評価するに当たって,次の問いかけを軸にして観点を探していくことにしています。

 「なぜ他の方法や形式をとらず,どんな理由でそのようになったのか」

 この問いかけに尽きます。

 私個人は構造がシンプル(簡潔)で柔軟性があり,飽きのこないデザイン,外部に対してオープンなものであることを嗜好します。その方が利用者側として「分かりやすい」と経験的に感じているからです。

 しかし,もしそうしない理由が他にあるのであれば,その理由を尊重すべきと考えています。つまり複雑なものになった理由が目指すものに照らして納得できれば,そのことを否定はしません。ときに簡潔さと柔軟さは相反要素になりますし,バランスの問題は常に悩ましい論点ですから。

 けれども,ときどきその理由が見えないものにも出くわします。

 他に分かりやすい方法がありそうなのに,そうしなかった例を見ると,その理由を探ろうと試行錯誤したり想像を巡らせるのです。アプリやソフトの場合は,プログラミングのレベルに遡って,たとえば「基本ソフトの制限だから」とか「設計上で別々に扱わざるを得ないから」とか,考えられる理由があります。それが納得できれば仕方ないことになりますし,納得できなければ努力が足りないということになります。それはそのアプリやソフトが何を目指しているかによるわけです。

 ネットサービスの場合も設計やプログラミングの話がありますが,サービスを利用することで,利用者がどのような行動をとって,どう変化したり,どう利用を継続していくのかという利用モデルやユースケースといったものを描いて,それが納得できるものかを検討することになります。たとえば授業支援システムの類いを利用すると先生や児童生徒はどんな行動を強いられたり,どんな学習活動を実現できて,その後もどのようにサービスと関わっていくのかを想像しなければなりません。それが現実的か非現実的かを見極めるわけです。

 教育工学という学問は,まさにそういう研究をしているものということになりますが,実験環境を整えて統計的な調査をするという次元に至らずとも,「なにゆえそうなのか」という問いかけはいくらでも可能です。場合によっては哲学的な問いかけとして考えることもできると思います。

 私のこうしたスタンスは,レビューを文字にすると相手に対して厳しい批判になってしまうことは重々承知しています。ダメ出しばかりしているように読めるのは私の文才の無さゆえですが,しかし,「なにゆえそうなのか」という問いかけはとても大事だと考えます。

 もちろん多くの場合で「なにゆえそうなのか」という問いに答えがないこともあります。考えていなかった,気づいていなかった,分かっていたけどできなかった,そう問う必要はなかったから…そういう答えもあり得ます。ならばそれが現時点での問いへの答えというだけのことです。

 「なにゆえそうなのか」という問いを踏まえて,その後,アプリやサービスがどう更新されていくのかが淡々と評価されていくわけで,悪くなるのか良くなるのかは,その時々の評価結果次第ということになります。

 そう考えると,巷のアプリストアで書き込まれているアプリレビューの内容は,レビューする立場としてもう少し考えてから書いて欲しいと思えるものが多すぎます。「使えね,氏ね」なんてレベルのものはかつてより少なくなりましたが,それでも感情丸出しのものは今も少なくありません。

 プログラミング教育に注目が集まっているような雰囲気もありますが,そのような取り組みの中には,同時に他者のプログラミングに対する視点を育むということも含まれてくると思います。単にプログラミング言語を習得し,ソフトウェアの構造を知るだけではなく,その知識を踏まえてソフトウェアやプログラミングの文化をどう育んでいくのかという考え方や態度の面についても関心を高めていく必要があると思います。

 私自身もダメ出し文章が多いことを自戒しながら,もう少し建設的なレビューを会得したいなと思います。