年度内にまとめる予定の次期学習指導要領と,2020年に向けた様々な動きと相まって,教育と情報に関わる範疇でもいくつか重要な議論や方針が伝えられています。
ここ数ヶ月に限れば「教育の情報化」「情報活用能力育成」「デジタル教科書」「プログラミング教育」といった論点において,次のような動きが伝えられています。
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【教育の情報化】
「「2020年代に向けた教育の情報化に関する懇談会」中間取りまとめの公表について」(文部科学省)20160408
「ICT効果に期待9割 PC室更新は6割がタブレット系:2020年代に向けた教育の情報化に関する懇談会<文科省>」(教育家庭新聞)20160411
【情報活用能力育成】
「20160420 教育課程部会 情報ワーキンググループ(第7回)配付資料」(文部科学省) 20160531
「教育の強靭化に向けて(文部科学大臣メッセージ)について(平成28年5月10日)」(文部科学省)20160510
【デジタル教科書】
「「デジタル教科書」の位置付けに関する検討会議」(文部科学省)
「文科省の有識者会議「2020年度からのデジタル教科書導入は各自治体の判断」」(ZDNet)20160603
【プログラミング教育】
「小学校のプログラミング教育必修化 IT技術でなく論理的思考力が大事 文科省有識者会議」(産経ニュース)20160603
「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議(第3回)配付資料」(文部科学省)20160603
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こうした方針に対して,肯定否定も含めて反応は様々です。
Twitterのような衝動発言も多く含まれるメディア上で散見される反応は,報道の見出しの誤読によって生じているものもあり,誤解に基づいた見解もありそうです。しかし,現時点では正式な議事録や方針に関する資料が公表されていないものもあり,報道や伝聞の情報をもとにするしかありません。
私自身も,この界隈の関係者として議論に関する周辺知識はありますが,国の審議会や懇談会(有識者会議)で具体的に何が話し合われているのか知る術は報道と伝聞以外にありません。
そうした前提条件を念頭に,たとえばデジタル教科書であるとか,プログラミング教育といった注目の話題に関して,有識者会議がまとめたとされる内容には,大きく議論の余地が残されていると私自身は感じます。
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「デジタル教科書」なる言葉が使われ出したのは21世紀(2001年以降)に入ってからというのが私の調べです。当初は「教科書のような/教科書に沿ったデジタルの教材」という意味合いで使われた言葉だと推察されます。やがて2005年に指導者用デジタル教科書といった商品が登場し,教科書そのものをデジタル化することのイメージが強まりました。
そこから10年程,様々な出来事を経て,今回の検討会議は,これを正真正銘の「教科書」の観点から扱うとしたら,どう捉えればよいのかということが議論されているのです。
この問題の難しさは,紙の印刷物を中心に考えればよかった時代の法令にあります。日本の学校は,学校教育法の第三十四条で「文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定められており,この条件を満たせる「教科用図書」は,紙の検定教科書だけなのです。デジタル教科書は,これを代替することはできません。
使用義務が課せられている教科書の特権的な位置付けは,当然様々な思惑や課題を引き寄せるわけで,別の言い方をすれば,簡単に中身を変えられる位置付けではないということになります。その代表が「教科用図書検定」であり,これが紙の印刷物を検定対象とする前提である以上,デジタル教科書そのものが「教科用図書」になることはあり得ません。
今回の検討会議は,紙版教科書をそのままデジタル化した「デジタル版教科書」についてはあらためて検定する必要はなのではないかという見解を示したようです。しかし,そこから先のことは明確に伝わってきていませんので,その部分が長期的に見て重要であるがゆえに,短期的にはあえて言及していないのではないかと推察されます。
使用形態の議論は,法令遵守の観点でも名目上は重要ですが,あまり深堀過ぎると決まり事が多くなって窮屈になり,自分たちの手足を縛りかねないので,いまは曖昧のままがよいだろうと思います。
「「デジタル教科書」という用語」(教育と情報の歴史研究)
「デジタル教科書の過去,現在,そして明日─提示型デジタル教科書からデジタル版教科書へ─」(原久太郎)
小学校段階でのプログラミング教育に関しては,多くの反応と同じく,時間確保をどうするのか見えないままです。また,プログラミングを身に付けるのではなく,プログラミング的思考を身に付けるんだという方向にグイッと引っ張った感じもあります。これは私も傍聴した第2回目の有識者会議で議論されていたことでした。
「総合的な学習の時間」で取り組んでもらうのをイメージする人達も多いですが,この「時間」が何やっていいのか分からず持て余している枠だというのは遠い過去のもので,いまやどの学校も何かしらに取り組んでいて,むしろ3年先まで予約の取れないレストラン状態といってよい時間です。
報道によれば,取り組む教科や時間は学校側が決定することを提言するようですが,これもそうした事情が分かっているからこそ,現実的には任せるしかないという落とし所でしょう。丸投げといわれればそうかも知れませんが,下手な明言も爆弾投げ込みとなり,無理な話です。
Computational Thinking(コンピュテーショナル・シンキング)を「プログラミング的思考」として何やら定義したようですが,これも現時点では詳細は確認が取れません。ちなみにこの言葉は他にも,「コンピュータ的思考」「計算論的思考」「計算科学者的思考法」「プログラマ的思考」などのような日本語が考えられます。
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とにかく,有識者会議での議論やまとめられた文案を確認できない状況で,細かな論点を批判検討しようとすることはフェアではありません。その上,これら有識者会議は,どちらかというと現状を把握あるいは追認する形で,国の対応をどうするか提言する目的のものです。新しいものが飛び出す場でもないのです。
腰を悪くした老人に瞬間的に姿勢を正せと要求するのが難しいように,様々な法令でがんじがらめになっている組織が,明日から新しい事態に理想的な対応をとる組織に生まれ変わることは普通あり得ません。短期的には理想を捨てて,現実路線からのソフトランディング,何を言うかよりは何を言わないかが重要になります。
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一般論として,あるいは学術論として,意見表明をして議論を闘わせることは大事なことです。もっと議論は盛り上がるべきと思います。
ただ,議論の精度を上げるために,もっと行政側の情報開示が積極的になされるべきです。
かつてのように情報発信と拡散の手段が限られた時代であれば,非公開という選択肢を含めた制限的(防御的)な情報対応が審議や検討の自由な意見交換を守ることになったのでしょうが,いまは条件が変わっています。そのことは数々の災害や政治の問題を経て,日本人の多くが身にしみて感じていることではないでしょうか。
次代の人々が,この時代を振り返った時に,ちゃんと記録が残されており,どのような意見が表明されてどのように議論が積み重なったのか確認できるようにしておきたいものです。
そのとき,「当時の人々の間ではろくに議論もされず,コンセンサスの無いまま突き進んだ」と書かれないようにしたいと,私は思います。