英語教育と似たような途をゆくか

「プログラミング教育」のゆく途を小学校英語から見通そうとするやり方があります。学習指導要領の平成29年改訂において小学校では「外国語」が教科化されました。

外国語とされていますが,学習指導要領は各言語を「英語」と「その他の外国語」と大別した構成で記述したことから,特別な理由がない限りは英語を中心として取り組まれることになります。

あらためて,英語教育からプログラミング教育(あるいは将来的にコンピューティング教育…となりますかどうか)を考えてみるのも面白いでしょう。

このブログでもご紹介した日本教育工学会のプログラミング教育に関するシンポジウムの場で,東京学芸大学の高橋先生は,プログラミング教育の行く末を考えるには英語教育の辿ってきたステップを参考にするとよいと述べていました。

この指摘はそのシンポジウムが初出というわけではなく,高橋先生自体は何年も前から機会ある毎に述べられていましたし,教科化のステップを考える際には他でもよく言及されることです。

つまり,まず「先進的な取り組み」があって,それが徐々に認知され「課程外の取り組みとして波及」し,「学術分野での研究」とともに「研究開発校の研究課題」として採用されて,「課程内での活動時間」が確保されたのちに,ようやく「教科化」へと至る。おおよそこれが教科化への道のりです。

小学校外国語は,中学校・高校の英語科という長い歴史を持つ接続先があるというアドバンテージがありましたが,研究開発校での取り組みや「外国語活動」のステップを踏みつつ,晴れて「外国語」として教科化が相成ったわけです。

しかし,この小学校英語が「課程内」に取り入れられる(必修化)に際して,その是否について激しい議論が展開されたことをご記憶の方もいらっしゃると思います。

当時の議論における文献として有名なのは大津由紀雄氏が編著した『小学校での英語教育は必要か』『小学校での英語教育は必要ない!』『日本の英語教育に必要なこと』(いずれも慶應義塾大学出版会)です。書名は否定的な文言ですが,内容はシンポジウムの記録であり,様々な立場の論者による議論になっています。

これをプログラミング教育の文脈に置き換えれば,タイミングとしては今(2018年)頃にシンポジウムが行なわれて,賛否の議論を闘わせ,それを書籍として世に問うたということになります。

しかし,英語教育の世界で起こっていた賛否の議論のようなものが,プログラミング教育の世界で巻き起こっているか…と問われると,書籍化できるほどのボリュームでは行なわれていないというのが正直な感触です。

プログラミング教育における賛否の議論が希薄なこと。

これには考えられる理由があります。

長い歴史を持つ英語教育と比して,プログラミング教育にはそもそも,議論できるほどの歴史も蓄積もないというのが一つの理由。

「英語の必要性は分かるけど,プログラミングの必要性か分からない」と言われるのも,歴史と蓄積の違いが原因と言ってよいかも知れません。

伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店)という書名の文献があるくらいです。日本人と英語教育の付き合いは長い。そこまで長い歴史に目をやらずとも,私たち自身が「受験英語」と付き合った人生経験を思い返せば,腐れ縁とでもいえそうな関係を持っていることが分かります。

翻って,プログラミングと私たちの関係はどうでしょうか。

あらためて,多くの電子機器や電化製品等が私たちの日常生活を支えてくれていることを考えると,付き合いは十分です。プログラミング教育の手引にも「コンピュータは人々の生活の様々な場面で活用されています」と書かれていますから,むしろ英語より関わりは深いかも知れません。

しかし,もう私たちは薄々わかっています。付き合いがあるのは電子機器や電化製品などであって,プログラミングではないこと。生活の様々な場面で活用されているのもコンピュータであって,プログラミングではないこと。仮に五十歩ほど譲っても,私たちとの関わりがあるのは「プログラム」や「ソフトウェア」であって「プログラミング」ではないのです。

英語教育は既得ポジションがあったがゆえに歴史と蓄積を持ち,そうでないプログラミング教育はそもそも議論のしようがないのです。

問題は,議論が起こせもしない状態にある教育が,学校教育の取り込まれていく動きをどう考えるかです。

寺沢拓敬『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社)などからも分かるように,英語教育だって自明だったわけではありません。なのに既得ポジションが与えられ,長い歴史が積みあがった。であればプログラミング教育だって,まずはスルッと始めてしまって長い歴史をかけて修正すればよいだけのことじゃないか。そういう参考の仕方もあり得るとは思います。

とはいえ,それは「プログラミング教育」という形であるべきだったか。そのような入口とならざるを得ない事情があったとしても,それを一方で批判的に理解するためのくさびを打っておくことも必要ではないか。

学校現場を支える側では,おそらく前者に近いスタンスをとるのが現実的でしょう。最初から完璧は望めないのですから。一方で,学術的な側面からは後者のスタンスをとる問いが投げかけられなければならないと思います。この文章を書いている私は後者の位置に立っているといえます。

ところで,振り返ると英語学習ブームと呼べるものがいくつかありました。

今でこそ当たり前となっている英会話塾も,それ自体が英会話ブームの産物でした。「駅前留学」というCMフレーズをご記憶の方も多いと思います。

他にも思い付くままに挙げると,ラジオやテレビの「英語講座」(語学講座),英単語暗記術,CD付き英語参考書,英文小説読書,子ども英語会話塾,インターナショナルスクール,短期留学,などなど。

英語関連書籍もいろいろで,『日本人の英語』や『伊藤の英文解釈』,『豆単』『キクタン』『英語耳』『速読英単語』,『ビッグ・ファット・キャット』とか,『英語で日記を書いてみる』とか,『ドラゴン・イングリッシュ』とか,『チャート』『Forest』『ポレポレ』などなど。

またかつて別冊宝島というムックには,『道具としての英語』という人気シリーズがあり,学校英語や受験英語とはまた違った雰囲気で英語の学習を誘っていました。同じく別冊宝島の『欠陥英和辞典の研究』というムックが発端となった英語辞書論争は,当時のマスコミにも取り上げられて注目を集めたりもしました。

そうした様々な通過地点を経て,今日の英語教育があるといえばそうなのですが,そんな英語教育がよりよき道のりを歩んできたといえるのかは,正直なところわかりません。

プログラミングやコンピューティングの教育が,これからどんな道のりを辿るのか。願わくは,よりよき選択ができるよう進みたいものです。

「プログラミング」を考える

2018年8月11日に行なわれた三重県教育工学研究会の夏季セミナーに参加してきました。

「新時代の教育を切り拓く プログラミング教育を探る」というテーマで企画され,「子どもが主役のプログラミング教育で学びを深める」と題して開催されました。授業実践事例の報告とプログラミング教育に関する講演,パネルディスカッションが行なわれました。

ふらっと参加したのですが,お声掛けしてくださる方々も多くて,思わぬ歓迎を受けたりしてました。

講演では,千葉県柏市の教育研究所にいらっしゃる西田光昭先生が,プログラミング教育に関する最新動向と柏市での長年の取り組みを紹介されました。パネルディスカッションでは,NPO法人みんなのコードの竹谷正明先生と亀山市立能登小学校の谷本康先生が議論を展開しました。

企業ブースも多数参加があり,各社PRで製品に触れる機会もあり盛りだくさんでした。

こうしたセミナーのような場を粘り強く展開することは大事なのだなとあらためて思いました。

さて,プログラミング教育。

最近は,関連ポータルサイト(「小学校を中心としたプログラミング教育ポータル」)もインタビュー記事を掲載するなど情報発信にも力が入ってきたようです。

プログラミング教育について書くと,二文目には否定的なことを書いてるんじゃないかと思われがちですが,それは私の職務上,疑問を投げかけることから思考を発動させるのが定石になっているからです。

実は,夏季セミナーのパネルディスカッションで,発言する機会をいただきました。

登壇者の発言をフムフムと聞いていたものですから,そのタイミングで気の利いた質問を用意するのがとても難しく,また思い付いた言葉を唱え始めてしまいました。

曰く「なぜプログラムではなくプログラミングという言葉なのだろう。あるいはプログラミングという言葉は消えて使われなくなるのではないだろうか」とか。

頭の片隅で「このセミナーは先生たちが集まっていて,これからどうプログラミング教育すればいいかを学びに来ているのだ」と分かっていたというのに,どうしてこうも自分は疑問を呈する思考回路の持ち主なのか,自分でも困ってしまいます。

私がそのとき抱いていたのは,西田先生がお話しされていた「プログラミング教育を普及させるために先進・先導事例を通して多くの人の理解を得る」必要性に対して,多くの人の理解を得る際に提示されるイメージがもっと鮮明でなければならないのでは?という疑問でした。

つまり「プログラミングって何?」という問いで生起するイメージを共有できるかどうかです。

そのとき「プログラミング」という言葉を使っていることの不思議さも感じないわけにはいかない。

たとえば音楽に喩えるなら,私たちは「作曲」に相当する言葉を使っていることになります。「作曲教育」自体は大変興味深い議論対象ではあるけれど,それは普通の感覚で考えたとき,音楽の範疇で最優先に取り組まれるべき事項だろうか。大概は,作曲する前に「鑑賞」することを優先するのではないか。

これをプログラミング教育に引き付けて考えるとき,私たちは「プログラミング」よりもまずプログラムを「観察」することから始めているのではないか。「プログラム観察」を経て,やがて「プログラム作成」を体験するという区分を明確にすることが必要なのではないかとも思えてくるのです。

「プログラミング教育とは,プログラム観察とプログラム作成の体験と学習から構成される」といった暫定的な共通イメージを描く必要があるのではないかという問題提起です。

もちろん,プログラム観察とは何か,プログラム作成とは何かという,さらなる描き込みは必要になりますが,プログラミング的思考なる言葉で煙に巻くよりは潔いのではないかと考えます。

こうして考えていくと「プログラミング」という言葉が代表面して学習指導要領に書き込まれるのは今期改訂の範疇限りで,次期改訂の際には「プログラミング」という言葉は消えて「コンピューティング」という言葉が後継候補に上っているかも知れません。仮にプログラミングという言葉が残ってもコンピューティングの中の一部分として登場する位置付けになると思います。

そんなことを夏季セミナーに参加しながら考えていたわけですが,今一度,現時点で何をすべきかということに頭を切り替えるなら,先生方は,徹底的に「プログラム観察」をすることかなと。私たちの日常生活に潜んでいるたくさんのプログラムを掘り起こして再認識するだけでも,大変な作業です。

そのうえで,プログラム作成に挑戦すると,観察の成果が生きてくるかも知れません。

カリキュラム論2018

夏の集中講義二つ目は椙山女学園大学「カリキュラム論」でした。

教職課程の授業科目であり,主に家庭科教員や栄養教諭などを目指している学生が受講してくれています。15回の授業を4日間連続で消化するので,一度始まればジェットコースターの如く展開します。

教育課程に関する理解と学習指導要領の変遷はもちろんのこと,教育評価にも意識を向けてもらうため評価規準表の作成にも取り組んでもらうのが定番のメニュです。

平成29年と平成30年に学習指導要領が改訂したばかりなので,そこで目指された方向性を,公的資料も読み解きながら紹介していきました。

なにしろ伝えるべきことが多い科目なので,評価規準表や授業指導案の作成作業も確保しながら,怒濤の一方向講義,しゃべりっ放しの4日間でした。アクティブ・ラーニング型を指向する今日では完全にアウトな講義だと思われそうですが,そこはこちらもプロとして脳みそフル回転していますから,あの手この手で受講生の脳みそも巻き込んでました。

残念ながら,一つ一つのトピックスを深く掘り下げるところまではいきません。むしろ,今までどこかで学んできたことを繋げていく作業をしていました。繋げ方の一例を提示して,そこから派生的に学びを広げてもらおうというアプローチだったともいえます。

「別の授業で学んだことが出てきて,より詳しく理解できた」というコメントもたくさんもらいましたが,既有知識の関連構造を見直す機会がどこかで必要だとすれば,この夏の集中講義がよいタイミングだったのでしょう。

不思議と講義中は「カリキュラム」という言葉はほとんど使いませんでした。「カリキュラム・マネジメント」という言葉も注目を集めていますが,こちらの言葉は結果的に何も触れずに終わったように思います。

最終日の講義でようやく「カリキュラムとは何か」を考えました。

ご承知のように「学習指導要領改訂の方向性」で示されたように「何を学ぶか」だけでなく「何ができるようになるか」「どのように学ぶか」が求められるようになりました。

学習指導要領がその部分までカバーすべきかどうかの是否は問われるべきですが,カリキュラムという範疇で考えれば,これらを踏まえることは重要なことだといえます。さらに各教科の「見方・考え方」をあらためて考え直してみる,明確にし直してみるという方向性も,今後は学習指導要領の教科構成の在り方自体を見直す議論へとつながっていくべきと思います。

デューイは,カリキュラムとは学習経験の総体だと述べました。

学校教育は,その一部分に関われるだけですが,人が得た経験の繋ぎ方を組み換える術を紡ぐことに関われるのだとすれば,それはなかなか興味深くチャレンジングな仕事ではないかと思います。

4日間の講義は「あっという間に終わった」そうで,当初は猛暑の夏休みに授業を受けなければならない状況に意欲喪失していたそうですが「意外と楽しかった」のだとか。

今年も悪くない印象でカリキュラム論を終えられたようです。

現代授業メディア論2018

本務校の授業と試験が終わると,次は夏の集中講義でした。

一つ目は鳴門教育大学で「現代授業メディア論」という講義を担当しました。2年毎1回開講です。

大学院の講義でもあるので,主題の「現代における授業とメディア」について受講者とともに考えるというスタンスで取り組んでいました。

「メディアとは何か」「授業とは何か」「現代における授業にとってのメディアとは何か」などと螺旋的に考えながら,その過程で授業で使えそうなメディア・ツールを紹介していました。

この講義の記録として利用するために毎度紹介しているのがRealtimeBoardです。HTML5ベースのコラボレーティブ・ホワイトボードサービスで,共同編集できる広大なデジタルホワイトボードを提供してくれます。

共同編集ホワイトボードのようなツールは,協働学習に使えそうだという「ほのかな期待」をよく寄せられますが,正直なところ,授業の中で使うには向きません。というのも,複数の人間が編集可能な状態にあるボードというのは,個々人が全体の現況を把握することが難しくなるという問題点があるからです。情報を集約して整理する場所を提供してくれるツールとしては有用ですが,学習を個に返していくためにどう活用できるか考えずに利用すると,単なる覚書ツールの域を出ることができず,その覚書も忘れられて終わりがちです。

そのような弱点はあれど,大学の講義の中でのやりとりを記録して共有するツールとしては便利な側面もありますし,情報を掌握している限りではグループの情報整理や成果を披露するツールとして有用なので,この手のサービスがまるっきり使えないわけではありません。

今回紹介したRealtimeBoardの他にも,A Web WhiteboardBeeCanvasといったサービスが独立系の企業としてサービスを提供しています(この手のサービスは他にもいろいろありそうです)。いずれもWebベースのサービスとして開発されており,Webブラウザがあれば利用可能です。

大手プラットフォームもコラボレーションツールには力を入れているため,Microsoft社はMicrosoft Whiteboardを,Google社はJamboardを提供しています。

ちなみに日本発のサービスとしてはコラボノートschoolTaktが知られています。その他にも授業支援システムを提供しているサービスの中には,同様な機能を有しているものがいろいろあります。

この方にもいくつかのツールをご紹介する中で,公衆インターネットへの接続を前提としたクラウドサービスが使える場合はよいけれども,強くフィルタリングされてクラウドサービスを自由に使えない状況にある公立学校ではどうすればよいのかといった問題を議論したり,ツールとメディアは何が違うのかといったことなどを議論をしました。

授業スタイルのことや,発達心理学や認知心理学の知見を踏まえたり,ソサエティ5.0や人工知能などによってもたらされる世界における人間の感受性をどう考えるかといった受講生同士の議論は大変興味深いものでした。人間的なものを大事にしたいと考えたときの私たちが考える「人間的」とは何なのか。場合によっては人形に対しても人間的なものを投影できる私たちの感覚機能なら,人工知能やロボットに対しても何ら違和感を抱かなくなる,そういう世代が主役の時代がいずれ来ることも十分あり得るのではないか。

ちょうど「トランセンデンス」という映画を見たタイミングでもありましたし,少し前には海外ドラマ「ウエスト・ワールド」(シーズン1)を見たことが,いろいろ頭の中で駆け巡ったりしました。

現代授業メディア論の主題からはだいぶ離れてしまう話題ではありましたが,授業でのメディアが何を媒介するものであるのかを考えるときには,こうした近未来的な世界に対する感覚を想像することも大事なのかも知れません。

未来に向けて,教師の役割がどう変わっていくのか。

さらには,その役割を担保する関係性を児童生徒学生との間に保つことは可能なのか。

逆に宿題をもらった集中講義でした。

プログラミング体験の入口へ

 先日,徳島新聞に学生たちの活動が紹介されました。5月に附属小学校の児童を対象として行なったプログラミングたいけん教室のことです。私も手伝った教員としてコメントを掲載していただきました。

 徳島新聞の教育関係連載の一つなので,記事自体は,プログラミングを学校教育で扱うことは決まったが疑問点も多く準備が始まったばかり,という内容です。その中でも,一部の前向きな学生たちは積極的に取り組み始めているという事例としてご紹介いただいたと思います。

 徳島県内では,県西にある三好市で学校外活動ではありますが,「コーダー道場 三好」(CoderDojo Miyoshi)というプログラミングを学ぶ場が先駆けて活動を始めており,中学生が道場主であることでも注目を集めました。

20180312「プログラム道場、先生は中学生 徳島・三好で四国初開設」(徳島新聞)

 徳島県の県政や商業関係はICT関係を常に意識した取り組みをしており,この分野への関心が薄いというわけではないのです。ただ,先頭集団が新しいことにキャッチアップを続けているのを,一般県民などは遠くで様子見しているという構図が長く続いてしまって,温度差が固定化したのだと思います。

 とはいえ,いよいよ小学校でのプログラミング体験も始まりますので,慌ただしく準備が始まるでしょうし,学校の先生方は今後気長に付き合っていくことになるでしょうから,まずはいろいろ体験してみることから始めて,徐々に蓄積を増やしていくことが重要になります。

 体験して理解するなら集中的に取り組んで数ヶ月もあれば十分ですが,これを学校で扱っていくノウハウを溜めるには,少なくとも10年は先を見据えて,最初の5年間を長期的な教材研究期間だと考えていく覚悟が必要です。

 さて,私たちも秋に向けてまた仕込みをしなければ。