20181221_Fri

専門ゼミナールは年内最後も文献講読。

ライフロング・キンダーガーテン』は第5章「遊び」について。いよいよ4P(Project, Passion, Peers, Play)の4つ目ということになる。

最初に出てくるエピソードは,著者であるレズニック氏がアムステルダムの会議の隙間に訪れた「アンネ・フランクの家」での気付き。アンネが置かれた当時の状況と日記から垣間見られる彼女の「遊び心」(playfulness)の精神の対比を印象深く綴っている(217-218頁)。ここから「遊ぶこと」(playing)に対する一般的な認識への吟味と4Pのもとでの「遊び」(play)の議論が始まる。

筆者が特に触発されたというのは,ジョン・デューイが「遊ぶこと」(play)という活動的な側面から「遊び心」(playfulness)という態度という側面に着眼点を移したことだという(220頁)。つまり,ここで述べる「遊び」とは遊び心の発動や駆動のことであり,必ずしも笑うことや楽しいことをして過ごす時間のことではなく,「実験すること」「リスクをとること」「限界を見極めること」といったことから得られるのだとしている(218,219頁)。

このあとレゴ財団のあるデンマークにおける「遊び」を表す語(spilleとlege)についての紹介(228頁)も出てくるが,学生たちとの話し合いの場では,playの多様な語義と日本語の「遊び」「遊び心」について,ごっちゃ状態が残っていたようなので,あらためて学生たちに,アンネの心情と重ね合わせながら自分が遊び心を発動する場面について考えて発言してもらった。自分のシチュエーションで遊び心が誘われるコントラストある状況を感じてもらおうと考えたからである。

さて,創造的思考者として成長するための遊びとは?

この章では「ティンカリング」という言葉も登場し,序章で紹介されていた「クリエイティブ・ラーニング・スパイラル」のプロセスをぐるぐると回していくのが得意そうな「ティンカラー」という存在にスポットが当てられている。ティンカラーはボトムアップなアプローチを得意とする人たちのことである。

対比する存在として,トップダウンなアプローチで,みっちりとより良く正しい方法で計画を立てて,一度で物事を済まそうと努力するタイプを「プランナー」と称している。

レズニック氏は,プランナーを否定しているわけではないものの,創造性と俊敏さを得るのはティンカラーで,予期せぬことが起こったときや新しい機会が生まれたときに有利な立場であるのもティンカラーだと考えていることを勘案するとティンカラー推しであることは明白だ。むしろ,一般の人々や教育者が,すべての科学者をプランナーだと誤解していることやティンカリングという在り方に懐疑的であることを,不思議に思っている。

「創造的思考は創造的ティンカリングから生み出されるのです」(237頁)とまで書かれれば,問題はその創造的ティンカリングを保障する条件や環境と,その評価ということになる。

このあとも,遊ぶ子供たちを「ドラマティスト」と「パターナー」とに種類分けしたり,ドウェック氏の2つのマインドセット(本書では成長型と固定型)について触れたり,学習者に十分な時間を与えることや各人のコンフォートゾーンを安心して踏み外すこと,間違いは作成過程の一部であることが触れられており,盛りだくさんだ。

学生たちは,なぜかアンネ・フランクのくだりが気になったらしい。

アウシュビッツを見学してみたいんだとか。そういえば映画「シンドラーのリスト」が25周年を迎えるタイミングである。それから何の偶然か,レズニック氏のMedium(ブログ)のアンネ・フランクに関わる記事のリンクがメールで舞い込んだりした。

ちなみに252頁の「留学生評価プログラム(PISA)」は,正しくは「生徒の学習到達度調査(PISA)」だと思われる。単なるチェックミスだと思うので,いつかは訂正が入るだろう。

20181220_Thu

保育原理も年内最後。

保育所保育指針が新しくなったことで,講義で採用する教科書を見直して,最新の指針が反映されたものを選択して始まった授業科目。本来であれば「講義における使いやすさ」も重視したかったけれども,選り好みできるほど最新情報対応の教科書は揃っていないという事情もあり,まんべんなく内容が更新されたものを選んだつもり。

使用しているのは『新 保育士養成講座第1巻 保育原理』(全国社会福祉協議会2018)で,一番堅い感じの選択かも知れない。購入するのは1年生達なので,今後数年間,在学中に参照するのであれば,これくらい堅い方が信頼性もあってよいかなと考えた。

実際の講義は,教科書通りに進行はしておらず,保育の世界に踏み込むにあたっての話をしながら,教科書の関係個所を縦横無尽に参照していた。

そんなこんなで気がつくと年末。

今回は,消化していない部分を埋めていくため,ローラー作戦的に教科書を順に確認していった。駆け足でめくらないと消化しきれないことは分かっていても,初出用語や面白トピックスになると,思わず話が盛り上がってしまう。こういうときは教員独りが盛り上がっていて「あんただけがアクティブじゃないか!」と批判の矢が飛んできそうだ。もっとも話している間は,そのまま矢をへし折ってやる勢いだけれど。

卒業研究も年内締切近し。

構想した目次にもとづいて執筆を続けている段階である。開発物などもあって,そちらの方に力をとられているところもあるが,どちらもある程度進めなければ。

20181219_Wed

研究室で仕事。

不思議とゆったり過ごした一日だった。4年ゼミ生達がやってきて卒業研究の作業をしたり,3年ゼミ生がやってきて映画を見て過ごしたり。今年も終わりという頃に3年生と4年生が言葉を交わす場面がようやく出てきたりして,なかなか楽しかった。環境改善で研究室がゼミ生の過ごせる空間になっているのはよい傾向だと思う。

3年生が見ていたのは『スラムドッグ$ミリオネア』だった。壁の穴プロジェクトの絡みで『ライフロング・キンダーガーテン』の第4章で触れられていたのもあってのチョイスであった。

以前観たことがあったはずなのだけれども,話のプロットをすっかり忘れてしまっていたので,私もあらためて映画を眺めた。そうだそうだ,スラム出身の青年の半生がクイズ番組を通して描かれるものだった。

残念ながら時間切れで鑑賞中断。ラストはそれぞれ観ることになった。

20181218_Tue

授業と会議と忘年会。

残りの授業回数が少なくなってきたこともあって,少々慌ただしい雰囲気で過ぎていく。

教育方法技術論の授業では学習に関して心理学の知見をいろいろ紹介している。そこでキャロル・S・ドゥエック氏の『マインドセット』(草思社2008/2016)に出てくる「growth mindset」と「fixed mindset」を扱う。

今どきなら「グロース・マインドセット」と「フィクスド・マインドセット」とでもカタカナ言葉経由で英語を直接知ってしまえばいいような時代だが,初めて触れる人には日本語訳が欲しいところ。草思社の『マインドセット』は2006年の原著を翻訳したもので,今西康子氏は「しなやかマインドセット」と「硬直マインドセット」と翻訳している。

ただ,ドゥエック氏の研究は20ないし30年遡るところから始まっていたため,初期の研究成果が日本に伝えられた時点では,マインドセットではなく知能観として届けられていた。

私が初めて目にしたのは『認知心理学者 教育を語る』(北大路書房1993)の中の「学習意欲を高めるために1:「わかる喜び」を求めて」という章だった。そこで小泉令三氏が「増大的知能観」と「固定的知能観」としてドゥエック氏の研究を紹介していた。おそらく「incremental theory of intelligence」と「entity theory of intelligence」という用語の翻訳だと思われる。

マインドセットと知能観はもちろん異なるし,ドゥエック氏がどのように使い分けていたかは明確に調べられていないが,2大傾向に関しては重ねて捉えても問題はなさそうである。ちなみに「増大的知能観」を「成長的知能観」と表記する文献もあったりする。

さらに『ライフロング・キンダーガーテン』を読むと,これまたこれらを組み換えたような訳語が登場する。酒匂寛氏はマインドセット研究に関して「成長型マインドセット」と「固定型マインドセット」と翻訳されたようだ。

[追記20181231]小島健志『つまらくない未来』(ダイヤモンド社)を覗いてみると,小島氏はもっとシンプルに「成長思考」と「固定思考」という訳語を当てていた。邦訳を参照しないのはどうかと思うが,これはこれでいい訳語かもしれない。

growth mindset
(incremental theory of intelligence)
fixed mindset
(entity theory of intelligence)
グロース・マインドセット フィクスド・マインドセット
今西訳 「しなやかマインドセット」 「硬直マインドセット」
小泉訳 (増大的知能観) (固定的知能観)
酒匂訳 「成長型マインドセット」 「固定型マインドセット」
小島氏 「成長思考」 「固定思考」

表にするほどのものでもないが,こうした表記の多様性を見て,自分なりの理解を深める手がかりにするのも面白い。というか,旧い知識をアップデートする必要性があるという一つの教訓としても。

年内最後の会議をして,夜は職場の祝賀会・忘年会だった。

私にとって唯一の忘年会だが,今年は料理も美味しくいただけたし,テーブルをご一緒した方々とも楽しくおしゃべりができたので,よい忘年会となった。まぁ,残りも頑張ろう。

20181217_Mon

センスメイキング』(プレジデント社)を手にした。

実はほぼ同じ主張をしている同じ著者の本『なぜデータ主義は失敗するのか?』(早川書房)を少し読んだことがあった。

簡単に書けば,データサイエンスといった自然科学的な手法に圧倒されるばかりでなく,人文社会科学的なセンスメイキングもお忘れなくという主張である。もう少し踏み込んで書けば,センスメイキングの方がより重要だということだ。

実はどちらの本にも,プラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・S・パースが整理した「アブダクション abduction」(仮説形成)のことが触れられている。これは推論方法の一種で,よく知られている「帰納法」(induction)と「演繹法」(deduction)に並ぶ第3の方法とされている。

もともとは近代科学の方法を探究していたベーコンによって,単純枚挙による帰納法ではない「真なる帰納法」として模索されていた手法であり,その日本語訳が想起させるように,問題に対する仮説を形成した上でそれを検証するというものだ。単なる帰納法とも演繹法とも違う。

それで宿題を思い出した。

以前,ブログに「プログラミング的思考と論理的思考」を書いた。

そこで「問題解決に際して,帰納的思考を展開するのか,演繹的思考を展開するのか。そういう観点からプログラミング的思考と論理的思考を位置づけて論じること」もできるかも知れないと書いて,そのままにしていたが,ここに「アブダクション」(仮説形成)が登場する展開になるであろうことは容易に想像がつく。

端的に書けば,プログラミング的思考とはアブダクション(仮説形成)による思考のことである。

「プログラミング的思考」なる言葉を持ち出した人々が意図しているのは,プログラミング的思考の育成によってアブダクションにもとづく思考方法や手法が育成されることだといえる。

ところが,そのことを明確に意識して論じたものがほとんどないため,プログラミング的思考を論理的思考として検討する際に,帰納法的に捉えたり,演繹法的に捉えたりする視点が混在してしまい,議論が迷走してしまうのである。

たとえば,プログラミングにおける「順次」「分岐」「反復」という要素について,これらを用いてアルゴリズムを考えることが重要であるといった理解は,プログラミング的思考の演繹的な部分だけを見ているだけに過ぎない。

また,意図する動きを実現する方法に[いくつかの模範解答があると考えて、それらから記号や組み合わせを学ぶといった捉え方も帰納的な部分を試みているに過ぎない。]正解はないのだからどんな命令や記号でもよい,といった多様な方法を許容するという考え方は,逆に単純枚挙な(帰納的)態度が行き過ぎたものにも似たように捉えられる。コンピュータプログラミングには,計算処理コストなどの現実的な制約が存在する。(訂正:当初書いた内容だと、むしろ「真なる帰納法」に」近いものになってしまうことに気づく。アブダクションは発見の方法であり、仮説をどんどん形成することにこそ意味があるのだから。)

ここに第3の方法である「仮説形成」手法がプログラミング的思考を指向する際の基調になり得る余地が見出される。

もともと,教育学でお馴染みのジョン・デューイによる問題解決学習に関する言説を見れば,プラグマティズムの考え方があり,よってアブダクションの考え方も自ずと反映されている。問題解決としてのプログラミング的思考にそれを重ね合わせる考え方もそれほど目新しいものではないだろう。

しかし,いまだ「プログラミング的思考」にまつわる論説や議論において,明確な特性を示しえていない状態が続いているため,プログラミング的思考を「どのように扱うのが妥当であるか」の基準を個々の教員に持たせられないでいる。

ここではっきりと「プログラミング的思考とはアブダクションによる思考である」と措定し,問題解決の文脈で展開されてきた仮説形成と検証の蓄積を土台にしてコンピュータや情報通信技術の課題に取り組んだ方が,同じ悩むとしてももっと明確に悩めるのではないかと思う。