ベイトソン「学習とコミュニケーションの階型論」

今までもそうでしたが、今後もさまざまな議論の前提として重要なベイトソンの学習に関する論を確認し直しておきます。

〈ゼロ学習〉
反応が一つに決まっている

〈学習Ⅰ〉
反応が一つに定まる定まり方の変化。すなわちはじめの反応に代わる反応が,所定の選択肢群のなかから選びとられる変化

〈学習Ⅱ〉
〈学習Ⅰ〉の進行プロセス上の変化。選択肢群そのものが修正される変化や,経験の連続体が切り取られる,その切り取られ方の変化

〈学習Ⅲ〉
〈学習Ⅱ〉の進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化

〈学習Ⅳ〉
〈学習Ⅲ〉に生じる変化。地球上に生きる(成体の)有機体が,このレベルの変化に行きつくことはないと思われる

ベイトソン「学習とコミュニケーションの階型論」(『精神の生態学』)を要約


学習内容の習得といった学習Ⅰを安定させることが長らく学校教育の役目とされてきたとすれば、学び方を学ぶといった学習Ⅱを伴うことが今般(平成29年改定)学習指導要領で目指されているとも言えます。ところが、実のところ私たちに求められているのは、持続可能なシステムへの転換といった学習Ⅲ水準であったりするわけです。そのことがいかに難易度の高いことかは重々承知をしているものの、もはや逃れられない課題として私たちにのしかかっているという文脈を共有しなければ、前に進むことは出来ないのです。

五十の坂を越して

わたくしごと、五十の坂を越えました。

半世紀前に私を招いてくれた両親に感謝しつつ、あっという間の感覚であるにしても50年という年月にはいろいろあったことを思い出したりします。

先に坂を越した諸先輩方の経験談をじっくり聞くような機会を求めてこなかったこともあり、どのような所作が相応しいのか知るのは相変わらず手探りですが、結局は自分なりの過ごし方になるのだろうなと思います。

このタイミングで、とある雑誌にお声掛けをいただき、特集の筆頭原稿を書かせていただきました。

街の書店に並んだ掲載号は、全国あちこちに誕生日プレゼントが置いてあるような気分になって嬉しくもありましたが、一方で、原稿の出来に関しては、私の筆力の乏しさに自身で意気消沈することにもなりました。

坂を越してもなお、自らの未熟さは幾度も自覚しなければならないと思うところです。活躍の場は他の人に譲ること、肝に銘じなくてはなりません。

個人的には、資料集めフェーズにあった歴史研究を、そろそろ畳み込むフェーズに移さねばならないと思っていること。キャッシュレス決済に関する学習教材の開発が出来ればいいなと思っていること。

あと、生きて元気でいるうちにはヨーロッパ旅行が出来るといいなと思っていますが、際どいかも知れません。

残りの人生も、あれこれ過ごせればと思います。