お盆休みもあっちゅう間

職場の計画休業のおかげもあって、自宅で文献資料の整理や新たな調べ物などしながら過ごしている。
コロナ禍始まってからドタバタして、逃避的にプログラミングに没頭することはあったが、何かを読み込んで考える行為に長らく取り組めてはいなかったから、ちょっとしたリスタートの気分で過ごしている。

小中高のプログラミング教育について考えなくちゃいけなくて、その周辺の文献資料を漁っている。過去に入手したものの掘り起こしや、最近のものの検索など。

造語生成の脆弱さや拙速さへの批判もあって「プログラミング的思考」なる用語の利用は多少ネガティブに受け止められているけれども、学習指導要領解説に記載されていることもあり、残念ながら排除することが難しい。今回もこの用語をどうやって括弧に入れるかを思案しなければならない。

とはいえ「コンピュテーショナルシンキング」の動向をあらためて調べ直していると、国によってメインに据える用語はいろいろ異なるという指摘が散見されるのも事実。それぞれの国の文脈にあった用語を採用することは、まぁ、あってもいいよねという雰囲気は以前より強くなっている。
あれから時も経っているので、プログラミング的思考も、日本の事情を反映した用語として受け止めてあげてもいいんじゃないか、という気がしないでもない。が、なんとなく現場の先生の理解が追いつかないから…とか、グーグラビリティが高いから…とかいう理由が見え隠れするところにいまだ許せなさは感じる。まったく…。

嘆いてばかりじゃ芸もない。
プログラミング的思考にしろ、コンピュテーショナルシンキングにしろ、日本の中でちゃんと議論できた機会はまだ少ないのだから、議論の材料をもっと提供したり共有して、気にしていく機会を増やしていくことが必要だ。国が量産しているスライド資料を読み解くばかりじゃ、下手な造語に振り回されるばかり。世界の文献資料をもっと眺めてみたい。

こんなわけで、いろいろ漁っていたら、オンラインで共有するのに都合の良い文献が刊行されていることを知った。

人工知能リテラシーとフィジカルコンピューティングも射程にいれたK-12でのコンピュテーショナルシンキング教育の手引書だそうだ。
印刷書籍は普通に書店で販売されているが、電子書籍は各章毎PDFがオープンアクセスの状態で公開されている。これなら誰でも入手できて、議論の材料として利用するのに都合がいい。

英語が障壁になる人も多い(私も残念ながら流暢に読むレベルにない)けれども、機械翻訳サービスがこの数年でさらに進化しているという朗報がある。
特に2020年から日本語サービスも始まったDeepL翻訳は、翻訳文の可読性が飛躍的に高まっている。英文と対比させながらであれば、翻訳文で大意を掴まえて細部は英文にあたるといった読み方に役立つ。こういう強力なツールの活用を躊躇う必要はない。

材料が揃えば、あとは機会を作ればいい。
関心のある皆さんとご一緒に講読会をしてみたいと思う。

告知が広まるための時間を作りたいので、8月下旬に参加者募集をしようと考えているけれども、参加表明はいつでも大歓迎だし、お近くの仲間と先行して読書会してもらうことだって構わない。分野とか、職業とか、知人かどうかも関係なく、講読に関心を持ってくださる方々が気軽に参加してもらえるものにできたらと思う。そのためのお知恵も募集中。

そんなこんなで文献資料と戯れていると、わりと長いと思っていたお盆休みもあっという間に過ぎ去りそうである。計画休業もっと延長してくれないかな。そういえばサバティカルってどこへ行った?

やっと一息

前期授業と定期試験の期間が終わり,採点と成績処理をしていた。

連日のオープンキャンパスと学生達の実習に関わる様々な対応と個別の相談なども続いていた。

いろんなことは束になってやってくるが,おかげで束になって一段落つくこともあるため,今週末,ようやく普通の休日を過している(あるいは,そうしている)。

京都大学とは直接のご縁はないけれど,京都大学の高等教育研究開発推進センター(CPEHE)が廃止されるというニュースが流れてきたので驚いている。

京都大学CPEHEのセンター長は飯吉透先生。まだカーネギー財団にいらして東京大学BEAT寄付講座でご講演されたときにちょっとだけご一緒させていただいたことがあった。

オープンエデュケーションについて熱く語っていらっしゃった姿はいまでも思い出される。今もまだ,そのときお話いただいた内容に時代は追いつこうとしている最中という感じだ。

ちみなに飯吉先生は,2007年ごろに私が東京で修士大学院生をしていたときに,実物の初代iPhoneを初めて見せてくださった方でもある。あれは感動的だった。

そんな飯吉先生がセンター長になった京都大学CPEHEは,日本におけるオープンエデュケーションの動きを最先頭で牽引する立場にある。事実,その活動や業務取り組みは広範であった。

それが(外部の私たちにとっては)突然の廃止発表となり,取り組みの多くが終了または閉鎖となる。

この界隈の人々の反応も驚きや落胆や憤慨や達観や疑問などなど多様だ。

今回の件が私に思い出させるのは「独立行政法人メディア教育開発センター」(NIME)の廃止である。

NIMEも,まさにこれからメディアやICTによる教育を積極的に推進しなければならないというタイミングに,政府の行政改革推進の一環である独立行政法人整理合理化計画のもと,一部事業を放送大学に移管したのち廃止となった。

京都大学CPEHEが担ってきた様々な業務や事業は,NIMEが存続していれば国の取り組みとして担って,全体を牽引していっていたのではないか,そうあるべきだったのではないかと思わないではない。

今は国立教育政策研究所(NIER)と国立情報学研究所(NII)がそれぞれの立場から教育と情報の分野について事業を担ったり研究貢献をしているけれども,教育と情報を越境的に扱っていたメディア教育開発センター(NIME)を失ったのは痛かった。

そのために現在進行している教育データ標準やCBTなどの取り組みをがっちり引き取る組織がない状態で,文部科学省内のチームが通常の行政事務の傍らで取り組まざるを得ない状況を生んでいる。そのやり方にもメリットはあるだろうけれど,味方が多いに越したことはないはずである。

京都大学CPEHEの廃止に関しては,私たちの知らない攻防があってのことだろうけれど,関係者にとって大きな存在であっただけに影響も大きいのだから,経緯が明らかにされることを願う。