モダン・タイムス

書店の教育書棚を眺めていました。いろんな書籍が出ていましたが、この二冊が平積みで並んでもいました。

気の滅入る書籍で、買うのを躊躇っていましたが、問題理解のために読んでみることにしました。写真右の書には私学や大学のことも扱われているので、他人事でもありません。

私自身は教員養成学部で学び、周りの友人達が教員として就職していった環境にいたので、簡単ではないけれど正規教員になることがキャリアの本流ルートだと考えていた人間でした。

それがいつだったか「正規教員の採用が減り、非正規教員への依存が高まっている」ことを知ったときにはショックを受けたものの、だんだんとそれが普通だと思うようになっていました。一般社会でも非正規雇用の問題が当たり前に語られるようになっていたので、学校教育界も例外ではないと納得してたわけです。

写真左の書では、氏岡氏が2010年頃から調べ始めて、あれこれ非協力的な反応にぶつかりながら、2011年に先生欠員の一面記事を出したときのエピソードを書いています。記事への反応がほとんどなかったというのも、当時の気分を思い返すとさもありなんという感じです。

そして、とうとう正規教員の不足が顕在化したことで、慌てふためいたような対処療法があれこれ打ち出され始めていることもニュースで接するようになりました。

深刻な問題であるから、私たち一人ひとりができることを考えたいと思うわけですが、この頃の問題は、何一つとっても個人には手に余る問題ばかりだし、任せるしかないわりには肝心の人たちは悪い手筋しか打ってこないことに苛つくばかりのことが増えました。

あるいは、そういう苛立ちを抱くことがそもそも違っているのかも知れません。

書店の教育書棚を眺めていると、子連れの方が隣りにやってきました。

小学校中学年から高学年といったところでしょうか、文字を読むのが得意らしく、彼や彼女はくだんの書籍の表紙を声を出して読み上げます。

「先生が足りない…だってお母さん!」

「授業ができない」「代わりがいないから休めない」「どれだけ探しても見つからない」…

と写真左の書の帯に書かれた吹き出しの文を声を出して読んでいました。

こどもの声で発せられたそれらの言葉を、彼彼女は何を思って読んでいるだろうか…と複雑な気持ちで聞いていました。

教育データへの異常な愛情 または学校は如何にして心配するのを止めてダッシュボードを愛するようになったか

教育データの議論から追い出されてから建て込む雑事に追い立てられて過ごしています。

そういえば、こんなニュースが流れているなぁ…と。

教育データの議論には「粒度」という言葉が用いられていて、こうした身体・生体情報にもとづくデータは粒度が細かいと表現されています。

可能性の議論としては当然扱われるわけですし、実験研究としても未知のままにして放ったらかすわけにはいかないので、こういう試みが実際に執り行われて議論の材料を提供することも必要。

今は研究倫理がうるさくチェックされる時代なので、表に出てくる試みは倫理審査を通したり、被験者や関係者の同意を得たうえで実施されていると考えるのが妥当ですが、それにしても記事だけでは、そのような慎重事案であることがうまく伝わってないことが懸念されます。

それに「集中してるかどうか」を指標にすることの安易さもあちこちから指摘されている模様です。

このニュースに欠けているものがあるとすれば、ちゃんとした議論の場がどこに用意されて実際に議論が行なわれているのかを示していないことです。こんな試みもあります(ドヤ)で終わらせず、こうした試みを踏まえて誰がどのように議論していて、一般の人々もその議論をどうやったら傍聴したり把握できるのかを示していないので、「なにやら不穏なことをしている人たちがいる」というイメージしか醸成しない。

とにかく、この分野の科学コミュニケーションは下手すぎて損ばっかり生んでいます。

関連する情報をピックアップ:

それより以前からもいろいろありました。

AI技術がグッと進歩して、取得データの可視化もやりやすくなってくると、ますますダッシュボードへの期待が高まっていくようです。

誰かの何かで済むとき済まないとき

とある教職教科書の執筆にお呼ばれをして、プログラミング教育に関する部分を書きました。

依頼を受けたのは1年以上前でしたが、それ以来、何を取り上げてどう書けば良いだろうか、という宿題が頭の中でずっと渦巻き続け、先日やっと提出し終えたところです。

苦労しました。今年に入って生成系AIの騒がれ振りを目の当たりにしたことで、一旦提出した原稿のアップデートを願い出たりもしました。編者の方にも賛同いただき見直し書き直し。

紙数の制約上、いろんな基礎的情報を端折り(たとえば特定のプログラミング言語の言及が皆無)、一方で、撲滅したかった「プログラミング的思考」という表記を幾度か出すという苦渋の選択もありました。もともと執筆依頼のキーワードだったことや文部科学省文書を扱わざるを得ない手前、仕方なし。

それでも、ずっと海外のプログラミング教育やCS教育の文献資料を漁る中で拾った知見に触れたりして、諸外国のプログラミング教育、コンピュータサイエンス(CS)教育と通じ合うための要素も少しは盛り込むことができたのではないかと思います。

もっとも「プログラミング教育」という窮屈な枠組みはオワコンだという雰囲気もありますが。

これまで、日本のプログラミング教育の言説は、ほとんどが国の審議や報告書、行政文書の中で紡がれた文言が発祥のものばかりでした。

確かに日本の学校教育はそうしたものに大きく規定されながら運営されているので、それらを無視するわけにはいかないのですが、教職教科書といえども、それを語るときの距離感や姿勢には注意を払わなければなりません。他者の言説を無批判になぞるのは望ましくありません。

今回の原稿は、執筆コンセプトに学習科学や教育工学的な観点が求められていたので、国発信の「手引」の二番煎じをしても意味はなく、その次のステップの糸口を提供できる内容を模索しなければなりませんでした。

その試みが成功したのかどうかは、世に出たときに読んで判断していただければと思います。

今回、かなり執筆の時間的猶予を与えていただいたにも関わらず、やはり土壇場まで悩み続けていたことを振り返るにつけ、自分は、すでに誰かが語ったことをどう扱うかについての葛藤を解決するのが上手くないのだなと思い知らされます。

どんなに自らの言葉や考えに昇華したとしても、それを開陳する時点で真似や伝言ゲームをしているだけじゃないかと思えてしまい、ならば原典に当たってもらった方がマシなんじゃないかと思ってしまうからです。

その辺を妥協して、自分なりの言及を付すことで意味ある形に落とし込めればラッキーだし、上手くいかなかったら所詮は横を縦にするコピペ職人なんだろうなと気持ち凹んで過ごすというわけです。

これはつまり、そろそろ私自身の知の貯蓄も尽きてきたといったところかも知れません。

理不尽な状況にほとんどの人々が冷めた状態で接することを余儀なくされて、力なく願いだけが積み重ねられていく様子を見せられると、思いを語る意義さえ見失われます。あるいは躊躇われてしまう。

社会全体でこういう無気力の学習が展開していて、あとはオーソライズされた言葉を違和感なく組み合わせていくだけで何かをまとめた気分になるだけ。そこに人を魅了する熱意や欲望みたいなものはないし、いつも待っているのはこんなはずじゃなかった感のある結末。

切り替えていくことに取り組まなければならない。そう思うこの頃です。