AIの選択肢

京都で日本教育工学会JSETの秋大会が行われているので、久し振りに対面参加しました。

秋大会の基調講演やシンポジウムは生成AIに関係したテーマでした。

生成AIと教育との関係もさることながら、AIそのものについてELSI(Ethical, Legal and Social Issues:倫理的・法的・社会的課題)の観点から考えることが重要であるというのが昨今。世界的にもAIに対する規制をどうするかが法という形で具体化されている段階です。

今回の基調講演やシンポジウムは、そういう動向自体を学会や世間とまず共有しなければならないという問題意識、あるいは段階のものだったのかなと思います。

私も今年に入って真正面から技術的にも原理的にも、あるいは教育的にも取り組み始めたわけですが、正直言えば、「AI好きじゃない人」ポジションの人間なので、「おまえ実のところ何者だ!」的な苛立ち半分が取り組み始みの原動力でした。

私がなぜAI好きじゃない人なのかというと、主にFacebookのせいです。

Facebookがタイムラインに表示する投稿を積極的に制御していることは周知の事実ですが、あの制御に使われている分類AIあるいは選別AIに苛立ちが募り、他の事案も重なって、私は自分の投稿を全て引き上げて連絡・見るだけ用に撤退したのです。

Facebookのタイムライン制御AIに文句はタラタラなのですが、要するに投稿が実際に表示される範囲やタイミングが他者と異なることで、極端に言えば村八分的な感覚を抱かせる時が多々起こるからです。それは逆に言えば、自分自身が他者に対してそうしている可能性をも否定できない。そのことについて投稿者側にまったく権限が存在しないということのAIの選択にやられっぱなし感が苛立ちを連れてくるのです。

これをELSIの問題として扱うべきかどうかは、他にそういう苛立ちを感じている人がいるのかどうかにも拠りますし、「そんなの「いいね」を積極的に連打して関係を制御すれば済む話じゃない?」とたしなめられればそれまでのことかもしれないし、よくわかりませんが、とにかく私はこの分類AIが好きでなかった。

それがAIが好きじゃない人である出発点です。

ただ、ここ数年の生成AIは興味深かった。

何よりChatGPTが日本語をはじめとした多国語を流暢に操るということが衝撃だった。

分類AIが好きじゃない私も生成AIは興味津々で取り組み始めたわけです。

春からの大学の講義に試しに取り入れることを考えて、これはとにかくAIとの応答を軸にした関わり方で触れさせていくことが大事だなと思い「訊いて応えて」というネーミングでAIチャットを体験する課題をやってみたこともありました。(それをちゃんとアンケートとって後期にやってみよう!と思ったら、残念ながら一身上の都合でそれが叶わなくなっちゃいましたが…)

けれども、生成AIを学校教育に導入するとなると、そう簡単な話ではないというのは時間が経ってくるとみんなが段々分かってきたようで、文部科学省が提示した暫定ガイドラインも総花的な書き方で、駄目とは言わないが慎重にやってみようというものになったのはご存知の通り。

というわけで、ここらでELSIという観点でしっかり議論していきたいねということが「今ここ」ということになるのだと思います。

シンポジウムの議論は様々な方向に広がっていたようにも思いますが、最後の方では選択肢を狭めないためにも、いろんなルールや方向性が作られている場にもっと利用者が関わっていくことの重要性が語られていたように思います。

それは学会の場もそうですし、たぶん暫定ガイドラインの更新作業はもっとオープンな形でされるべきだということでもあると思いますし、もっとあちこちでAI談義や雑談が盛り上がって共有されていくのが良いのだと思います。

AIの選択肢が人間の選択肢を狭めないためには、人間が選択肢を広げる努力を怠らないことが必要になる。そのためにはやはり私たちの弛まぬ議論の共有が必要なのだろう。シンポジウムが示唆していたのはそういうことじゃないかなと、あたまコックリコックリしていた私は思うのです。

National AV 誌

立派な見識があってというよりも、なんとなくの理由で「雑誌」が好きです。

といっても学術雑誌ではなく、幼い頃から触れている市販雑誌の類いが好きだということになります。

過去のことを調べる手段として古い雑誌を閲覧しに行ったり、場合によっては売買を通して入手することもしています。最近はメルカリやヤフオクなどの古物売買手段も一般的になり、貴重な文献資料を入手する機会が得られることも多くなりました。

つい最近も古いパソコン雑誌を買い集めていました。

その過程で、視聴覚教育関係の雑誌として出品されていたのが「National AV」誌でした。

たぶん初めて知る雑誌なので、これはぜひ入手してみたいと入札。幸い他の入札者もおらず、すんなりと落札できました。

National AV誌は、当時の松下電器産業株式会社の特機営業本部から発行されていた季刊情報誌で、市販されていたものではなく、全国のショールームや学校教育機関に配布されていたものだと考えられます。

書誌情報をもとめて検索。CiNiiの情報などから1973年に創刊した雑誌であることが推測されます。

国立国会図書館サーチによれば、1991年(NO.73)まで発行されていたことは分かりますが、正確な休刊時期については情報がありません。

いずれにしても1973年から1991年くらいまで18年間は発行されていたというのは、教育をターゲットにした企業提供情報誌としては長生きの部類だったと思います。

インターネットが到来する前ですから、こうした雑誌が当時の大事な情報交換の場だったのでしょう。編集部の取材記事や読者の声欄だけでなく「AVラウンジ」と名付けられた投稿コーナーに全国の学校の先生方から論考や報告が寄せられていたようです。

こうして後世から振り返らせていただくと、ある程度限られた範囲だったのでしょうし、波もあったとは思いますが、当時の先生たちの熱心な取り組みに思いをはせることができます。

もっとも70から80年代という時代性は、こうした企業提供の情報誌が製作されるだけの勢いや余裕が日本全体にもあったことを加味すれば、学校などの現場がボトムアップができる優雅な時代だったともいえます。

「教育とともに歩む情報誌」というキャッチフレーズの付いたNational AV誌は、1986年度発行分までは松下視聴覚教育研究財団が協力をして製作されていました。その後、財団のクレジットは失われ、発行所クレジットは松下電器産業株式会社の「特機営業本部」から「情報システム営業本部」に変更されました。

実際の制作は(株)ビデオ出版という会社が担当していたようですが、検索をすると現在はインテルフィンという編集出版社につらなっているようです。残念ながらNational AV誌に携わったかなどの情報はまったく確認できていないため、あるいは別の会社なのかも知れません。

松下視聴覚教育研究財団は、現在のパナソニック教育財団につらなっていますが、こちらも公益財団法人になる前の記録はほとんど残されておらず、National AV誌のことを遡って調べることすらできません。

所蔵図書館も少なく、すべての号を所蔵しているわけではないとすると、全国の視聴覚教育施設で保管されているものか、何かの理由で講読をしていた方々の所有しているものを確保しなければ、この雑誌も散逸してしまう可能性があるということになります。

ただ、インターネット後のWeb記録に比べれば、こうしてモノとして存在する分、紙雑誌の方が記録として残るときに強い面もあるかなと思います。そのおかげでこうして後世の人間が入手する機会を得られるというわけですから。そして雑誌であるがゆえに、その当時の読者の声や広告など、付随する情報も合わせて触れることができるというのもメリットかなと思います。

形成され、開発され、評価され、修正される場

「国の予算ってどういう流れでつくられるか知っていますか?」

講義のネタとして、池上彰氏がテレビで使っていた解説ネタをずっと拝借しています。

国の予算スケジュールの説明に「学校3学期制」を先行オーガナイザーとして利用する…というネタです。

1学期(4〜7月)に次年度の予算を構想し、夏休み(8月)に概算要求としてまとめ、2学期(9月〜12月)の間で財務省と折衝して、冬休み前(12月下旬)に予算案をまとめ、3学期(1〜3月)に予算成立を目指す…というのが国の予算のスケジュールだという解説です。

そんなわけで、今年も次年度(令和6年度)の概算要求が公表されました。

科学技術関係はちょっと置いておくとして、文教関係予算だけだと4兆3,759億円と金額未定の事項要求を上乗せして要求される予定です。

この要求を組み上げるため1学期中にいろんな動きが展開していたわけで、たとえば毎年示される「骨太方針」と呼ばれるものに予算組み入れ根拠となる文言を書く書かないといったせめぎ合いもその一つです。実際には、そのずっと前からの働きかけの結果次第ではありますが。

一方で、個々の施策などが報道されると、どこか違和感や”これ違う”感が表明されることも珍しくありません。もっと根本的なところを変えて欲しいと考えられている論点においては特に批判的な意見は出やすいです。

たとえば教員の働き方の問題は、学校教育法等で規定されている学校の枠組みそのものが現代的な学校を構成するのに相応しいものとは言えなくなっているにも関わらず、そこを変えていくための議論も手段も乏しいために、現行枠組みに継ぎはぎパッチを施す程度の妥協策しか策定できないジレンマの中で展開しています。

この先、一体どこの誰が「学校教育法 ver2.0」への改正に腰を上げるのか。その実現は、こまめなアップデートの集積で可能なバージョンアップなのか、あいはフルモデルチェンジをほどこすプロジェクトを別途立ち上げて議論すべきなのか。そのことすら、誰もコンセンサスをつくってはいないと思います。

あるいは今後、日本の公教育が管理委託制度や指定管理者制度のような制度を導入して、教員は教育団体や事業者のもとでちゃんとした福利厚生や研修・研究環境を確保することを条件にするような時代が来るとしたら、いま私たちが備えなければならないことは何なのか。

もっとそういう荒唐無稽な話も含めて議論を展開する場も確保しておかなくてはならないと思います。国の審議会みたいなところが議論の場では無い以上、他の場で何かしらオーソライズされた形で展開されていなければならないのですが、催事系は多いものの閉じたものが多く、学会や研究会といったものも波及効果がなかなか高まっていないということは大きな課題だと思います。

概算要求が固まったところで、再び審議会や有識者会議などが動き始めています。

次期学習指導要領の方向性を議論する「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」も第7回(20230901)が開催され、委員同士の発表と質疑のフェーズに入っています。

学習指導要領の方向性自体は平成29,30年改訂もよかったけれども、それが学校現場に行き届いていないのではないかという問題の方が大きいということが委員間の共通理解といったところ。

それについて、学習指導要領自体もより分かりやすくなるべきだし、伝え方にもさらなる改善が必要だし、何よりも教員の働き方改革なくしては受け取ろうにも受け取れないという課題など、学習指導要領と学校との距離や関係性をどのようなアプローチで変えていくのかが、現時点の主題のようです。

この問題に関係する、記述された教育課程と教育実践の関係性に関する議論は、私のもともとの専門でした。

いま思い出して検索したみたら没にした論文「媒介的カリキュラム観と非線形記述様式の考察」というものが出てきました。いまの未熟さに輪をかけたように浅はかな論旨ですが、教育課程自体はもっと共有されるようになるにはどうしたらよいのかを考える問題意識は今も通ずるのかなとは思います。

私自身はこうした思索の末に情報の分野に近寄り、教育工学といった世界に迷い込んで、いまは教育と情報の領域を眺める市井の人という立ち位置へ移行中。今年度最後の記念に学校DX戦略アドバイザー(旧ICT活用教育アドバイザー)は拝命しましたが、名前だけの活動実績はゼロなので、かなり部外者です。

そういう部外者や一般の人々にとっては、文部科学省での議論はほとんど届いていません。

エコーチェンバーの内側にいる人々には、そういう届かなさが信じられないか、知ろうとしていないだけでは?と疑ったりするしかできないと思います。そこが厄介なところでもあります。

「形成され、開発され、評価され、修正されていく場」にもっと多くの人々を誘う努力をしなければならないというのが没論文のモチーフだったと思いますが、それが可能な内側に人々がその問題意識のもとで大胆に動いてもらうことが難しい…というところだと思います。

長い帰省をしていました。そろそろ職場復帰して、研究室を撤収します。