東京で地震に遭遇しました

 3/10からセミナー参加や資料収集のため東京に出かけていました。
 3月10日のお昼の飛行機で羽田に到着して,そのまま東京大学に向かいました。まずは出身研究室にお土産を届け,夕方にある外部でのセミナーまで教育学部の図書室で資料漁りをしていました。
 外部でのセミナーが終了した後は,特に宿も決めずに上京したので,以前住んでいた池袋に足が向いて,そこのカプセルホテルで一泊。
 その日は平穏な東京滞在でした。

 3月11日の朝は,国立国会図書館へ行こうか,東京大学へ行こうか,迷った結果,東京大学で一日粘ることに決めて出かけました。
 普通の金曜日の朝でした。
 午前中は,書棚の間を巡って文献を探し出し,積み上がった文献をひたすらコピーしていました。2時間弱くらい,ずーっとコピー機の前で文献をひっくり返してボタンを押していたわけです。
 お昼ご飯時でしたが,納得のいく資料がまだ探し出せていなかったので,引き続き書棚の間にたたずんで,古い雑誌をローラーで眺めていました。
 欲しかった情報が見つかれば,紙のしおりを挟んで積み上げて,後でまとめてコピーするために,ずーっと書棚の間で探し続けていました。
 そんなことをしているときにゆらゆらと来たのです。

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 少し待てば収まるだろうとじっとしていましたが,揺れは続きます。
 あまりに続くので,大きく広い自習机のあるところに出て,他の利用者と顔を見合わせました。声も出さずに「…大きいですね…」と口の形だけで確認し合いました。
 やがて女性の司書さん達が「きゃ〜たいへ〜ん」とこちらにやってきます。
 「ちょ,ちょ…,動かないほうがいいですよ!」
 揺れは依然として続く中,司書さん達に声を掛けます。
 一人の司書さんが私たちの居る机のところまでやって来たところで,揺れが一弾と強くなって,私たちも「机の下に!」と隠れると,地震シミュレーターで体験したことのある,あの強い揺れが図書室を襲いました。
 教育学部の建物は歴史がある古い建物の上に,私たちが居る図書室は最上階である4階に置かれているので,それもあって揺れ幅が大きかったのかも知れません。
 机の下に隠れている間,文献図書がばっさばっさと落ちてきて,書棚はぐわんぐわんとたわみ,私たちも強い揺れに振られる中で,日頃の冗談を悔いました。
 「本に埋もれて死ぬのは本望」と研究者魂を喩える話として冗談を言うのですが,本当に埋もれて死ぬのは洒落になりません。
 ようやく揺れがおさまって,あたりを見ると写真の感じ。
 みんなで建物の外へ避難し,お互いの安否を確認したわけですが,さすがに図書室に戻ることは出来ない状態。「このまま閉室ですよ…ね」「そうですねぇ」てなことで,欲しかった論文をコピーできずに図書室から強制退去させられてしまいました。
 図書室の復旧もいつになるやら…。

 そして,福武ホールにある古巣の研究室に避難をして後輩たちと再会…
 …したのも束の間,2度目の大きな揺れがやってきて,またもみんなで机の下へ。
 福武ホールは安藤建築として有名で,その安藤さんは阪神大震災のことも念頭に建築物を設計してきた方ですので,耐震性についてはどこよりも安心できます。
 しかし,地面とともに大きく揺れることには変わりなく,乗り物酔いのような気持ち悪さが襲ったりと,不安な事態には変わりありません。
 その後は,大学の避難マニュアル通りに行動することになり,情報学環の本館前に集合することになりました。
 全体の安否確認が行なわれるのですが,外部からの来校者も含む大勢の人々を誘導することも難しいですし,建物の現況などの把握も時間がかかります。その間も,幾度も余震が感じられました。
 とりあえず安否確認後は大学業務も中断され,解散となったわけですが,この時点で,今回の地震の全体像を把握していた人はほとんど居なかったと思います。駅などに帰宅困難者が溢れ返る事態になっているとは誰も想像していなかったのではないでしょうか。
 宿泊先も確保していない私は,とりあえず福武ホールに戻ることにしました。
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 iPhone片手にTwitterを眺めるのですが,断片的な情報からは各地で被害が出ていることくらいしか想像できませんでした。
 ケータイのワンセグでテレビを見ても,直後では地震の揺ればかりに注目が集まる段階で,津波の被害の酷さを知るのは後になりました。
 騒ぎが縁で初めてご一緒した人やリアルでお会いすることになった方々と挨拶や自己紹介などの会話をして時間を過ごしていたので,自分たちが被災しているという感覚は少なかったと思います。
 やがて携帯電話の通話回線が使えないことはもちろん,ほとんどの交通機関が不通になったことが確定的になると「動けない」「帰れない」という事実も実感され,その晩は東京大学で夜を明かすことを理解します。
 私たちは,帰宅難民として福武ホールに一泊することになりました。
 久し振りにお会いした恩師は,緊急事態の対応で奔走され,院生や大学スタッフの皆さんは食料などを調達しに動いてくれていました。
 福武ホールには海外からの学生も多いので,そうした学生達もパソコンを使ってネットから情報を収集しながら事態を注視していたようでした。

 手元の情報源はネットとテレビ。
 iPhoneとiPadでTwitterやYAHOO!ニュースなどを確認したり,ケータイのワンセグでたまにテレビのニュースを見たりという情報収集でした。
 しかし,事態の全体像を把握することが難しい。
 自分たちの関心事は,首都圏の交通機関だったりするし,Twitterで流れてくる断片的な情報だけでは,全貌を描くことは難しい。
 一夜明けて,なんとかかんとか徳島に帰宅した後,ノートパソコンやテレビで落ち着いて情報収集をし直してみると,震源近くの宮城の被災状況と原発事故には衝撃を受けることになりました。
 出来る支援をしていかなくてはならないと思いました。