[1985][02] パソコンとソフトとCAI

 この時代,パソコンといえばNEC(日本電気)のPCシリーズに最も人気があった。とはいえ,今日のパソコンに通ずるマッキントッシュが1984年に登場したばかり。当時のパソコンは文字表示をベースにグラフィックも扱えるという程度であった。
 PC-8801シリーズは,ホビー向け8ビットパソコンの雄として君臨。ユーザーは,雑誌に掲載されたBASICプログラムを手入力したり,フロッピーディスクで提供されたソフトを動かしたりしていた。
 当時のソフトハウスやゲームタイトルには次のようなものがあった。
 ・エニックス「ウイングマン」(コミックアドベンチャーゲーム)
 ・クリスタルソフト「夢幻の心臓」(ロールプレイングゲーム)
 ・光栄「信長の野望」(歴史シミュレーションゲーム)
 ・システムサコム「メルヘンヴェール」(アクションロールプレイングゲーム)
 ・シンキングラビット「カサブランカに愛を」(アドベンチャーゲーム)
 ・スクエア「キングナイトスペシャル」(ロールプレイングゲーム)
 ・T&E SOFT「ディーヴァ」(シミュレーションウォーゲーム)
 ・日本ファルコム「ロマンシア」(ロールプレイングゲーム)
  etc…
 8ビットパソコン市場は,その他にも富士通のFMシリーズ,東芝のPASOPIA,シャープのX1シリーズ,などがしのぎを削っていた。そこに8ビットパソコン共通規格MSXに準拠したパソコンなどが参戦するなど、ゲーム/ホビーユーザーをターゲットとした市場は,今では考えられないほど賑やかであった。

 16ビットパソコンは主に事務向けだった。基本ソフト「MS-DOS」が用意されていたのも特徴的である。NECは16ビットパソコンPC-9801シリーズを投入しており,OAやCADといった用途に販売されていた。
 やがて8ビットに飽き足らなくなったユーザーが16ビットパソコンの性能に引かれて使い始めることが多くなり,徐々に一般向けとしても受け入れられていく。
 こうした流れを後押ししたのは,この年発売された日本語ワープロソフト「一太郎」や翌年発売の表計算ソフト「ロータス1-2-3」などのビジネスソフトでもあった。
 特に1987年に発売した「一太郎Ver3」は,コピープロテクトを廃止した英断とソフトの完成度の高さによって日本語ワープロソフトの代名詞になるまでのヒットアプリとなり,PC-9801シリーズを国民機へと押し上げていく原動力ともなった。
 日本語ワープロソフトのライバルとしては「松」や「ユーカラ」「将軍」といったソフトがあり,他にも表計算ソフトの「Multiplan」,データベースソフト「桐」「dBASE III」,グラフィックソフト「Z’s STAFF」,ファクシミリユーティリティ「STAR-FAX」,財務会計ソフト「二代目大番頭」などがあった。

 ところで当時の教育ソフトにはどのようなものがあったのだろうか。
 『NECパソコンフェア’86 ガイドブック』の「教育ゾーン」を開くと、当時からいくつかの企業が教育向けソフトを販売していたことが分かる。
 ・教育ソフト研究所「マイコンドリル算教シリーズ」
 ・CESコンピュータ教育システム「集団分析システム ソシオメトリック」
 ・トステムハウス ハイネ「成績管理統計システム ユーシック・キング」
 ・スズキ教育ソフト「中学校成績処理SA-1000」
 ・太平洋工業株式会社「教育用CNC旋盤PNC-10L」
 ・データポップ「マイ国語レッスン 中学文法編」
 ・日本シーディーシー「ATMオーサー・セット」
 ・パル教育システム「PAL TEACHERシリーズ」
 ・村田簿記学校「MCAI簿記入門編」
 ・ヤハタOSシステム「塾太郎ミニ」
 ・ライフボート「学習用C言語RUN/Cインタプリタ」
 ・ローヤル カレッジ「教材作成支援ソフト」
 コンピュータ教育元年と呼ばれたこの時期,人々はアメリカで1950年ごろから始まっていたCAI(Computer Asisted Instruction)「コンピュータ支援授業」の成果に注目していた。
 CAIという言葉自体に特別な含意はなかったものの,初期のCAI研究がティーチングマシンでも知られる心理学者スキナーのプログラム学習をベースにしていたこともあり、学習者一人ひとりの履歴に基づいた学習過程を展開できるシステムの名称として理解された。
 しかし,当時のコンピュータ教育に対する漠然とした期待の一方で,技術的には未成熟なコンピュータ自体の限界によって,人間の介在しない機械的なドリル学習といった誤解も生み、結果としてCAIを黎明期の徒花と印象づけてしまったのは不幸なことだった。

 CAIの考え方は,時代を経て技術的な進歩とともに見直されるべき時機がやって来たのかも知れない。
 そうした未来の可能性を語りたいのはやまやまだが,それは過去への旅路を終えてからの楽しみにするとして,さらにこの時代の散策を続けよう。