「教育情報セキュリティポリシーに関するガイドライン(案)」がパブリックコメントを募集中です。
160余ものページで構成されたポリシー例文や解説文は圧巻で、朝日新聞はこれを「指針案」と報じていたりもします。ガイドラインに従ってそのままポリシー作成したとしても、ポリシー維持・運用のコストをそれなりに覚悟しなければなりません。
セキュリティは重大です。
セキュリティポリシーを策定するため、これだけ大きいボリュームの項目を検討するのは必要不可欠なことです。
しかし、ガイドラインはリスク対策をメインとしているため、業務負担軽減について言及はしているものの、利用者側の利便性あるいはフリーハンドを確保するための組織的・制度的な回路の必要性までは読み手に意識させていません。
セキュリティポリシーガイドラインの役目ではないとすれば、セキュリティと利便性におけるせめぎ合いの重要性をガイダンスするのは、どこで担保すべきなのでしょうか。
現時点では、セキュリティの重要性だけが肥大的に受容され、利便性やフリーハンドを犠牲にすることはやむを得ないという考え方が一般的になりつつあります。
しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
厳格なセキュリティポリシーのもとで、学校からの外部インターネット利用に支障が生じている例があることは、一部で知られていることです。そうした事例に陥らないための方策がガイドラインに示されているようには見受けられない点に懸念を抱きます。
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残念ながら、昨今の教育とICT周辺における議論は、様々に偏在しているものの繋がりが乏しく、批判的な対話や多様な解釈を掘り起こして積み上げていくようにはなっていません。もっともこれは教育の言説についても同様な傾向があるかも知れません。
たとえば少し前に、デジタル教科書について推進派と否定派が議論していた、とご記憶の方もいるかも知れませんが、果たして、デジタル教科書の推進派と否定派が真っ当に存在して、ちゃんと対立軸を設定したような議論を展開していたのでしょうか。もっと根本的に見返すならば、デジタル教科書なる論題がそもそも成立し得たのかどうか。それを議論の俎上に載せること自体に商業的・政治的な一種の利益誘導の目論みがあったとしたら、本当の意味で国民や子どもたちのための議論でありえたのか。
こうした多様な着眼によって、教育とICT周辺は議論を交わして検討されなくてはならないはずです。
ところが、困ったことにそういう議論を担う論者が少ない。論者人口の少なさは、多様な着眼による議論には大きな足枷です。まして多くの論者が何かしらの要職についている現実は、ある種の健全さを欠いていることになります。
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文部科学省からセキュリティポリシーガイドラインが提示されたことは、国による指針が示されたことを評価する立場からすれば、善きことのように受け止められます。パブリックコメントを受け付けることによって、策定の透明性を確保することにはなっています。
しかし、パブリックコメントの一往復半のやりとりだけでは、本当の意味でのパブリックコメントの尊重にはなりません。であれば、策定後にも継続的に批判的な検討が加えられ、国民はその議論の蓄積をもう一方の重しとして策定されたものと接することが健全な態度です。
ところが、その批判的な検討を加える論者が不在であっては、国民は無批判な受容を強いられてしまいます。
セキュリティポリシー自体の策定と受容でも同様です。
セキュリティの確保を不断の見直しと努力で維持していくことが謳われるのと同様に、利用者の利便性とフリーハンドの確保を不断の見直しと努力によって押し広げていくことも行なわれて然るべきです。
それが可能になるような仕組みをセキュリティポリシーと並列した次元で構築しておくことが大事になっていきます。
いずれ技術進歩によってセキュリティと利便性の両立はさらに進みます。
その時になってもポリシーを緩めることができず、できるものができない状況を生むことがないようにしたいものです。