学校は知識リソースにアクセスできているのか

物事を調べるには,手始めにインターネット上で情報検索(探索)をします。

Wikipediaはもちろんですが,Twitterを検索すると注目度の高い情報を見つけられます。ネットワーク上にすべての情報が存在するわけではありませんし,偏りがあるかも知れませんから,検索結果で立ち止まることはできません。それでも手がかりを得るにはネット検索という方法は強力です。

位置付けは変わってきていますが,印刷媒体の重要性は今も昔も変わりません。

教育機関にとって図書施設・部門が最も重要であるという認識も変わっていないはずです。分類された豊富な文献資料に接する(アクセスできる)ことは,人の権利であり,私たちが市民として,またそれぞれ属する分野の専門家として,生きていくために必要不可欠な活動です。

最近懸念していることは,提供されている教育関連の知識リソースの少なさです。

またそれ以上に,教育関係者による知識リソースへのアクセス機会の乏しさを憂います。

論理的思考力のたくましさによってカバーできる部分があるとしても,思考対象となる素材に不用意な制約があることは,必ずしも望ましい状態とはいえません。

たとえば学校に,教職員が利用することを前提とした文献資料を十分備えた施設はあるのか。

学校図書館(学校図書室)」として知られている施設は,児童生徒と教員が利用することを前提にしています。しかし,施設や図書の充実度は学校や地域によって様々で,ましてや教員が利用することを視野に入れた目録が充実させられているところは大変限られていると思われます。

先の学習指導要領の改訂に伴って,答申解説書,学習指導要領新旧対象解説書,各教科毎の解説書,さらに研究書や先行実践事例書などが市販されますが,それらを各教員のために取り揃えてくれたり支給してくれる学校や自治体があるなんて話を,私は聞いたことがありません。

つまり,学校の先生方が職場から与えられるのは教科書と教師用教科書など最低限のリソース。それ以外は先生方の自費で購入しているのです。

先生が教育図書を自費購入することは,ビジネスマンがビジネス書を自費購入するようなものだと考えるかも知れません。しかし,本当にそうでしょうか。

その役目が伝達であろうが支援であろうが先生は,知識を媒介して学習者の成長に関わる職業です。その仕事の本丸とも言うべき知識リソースへのアクセスが保証されない条件で,複雑高度化する社会に応える教育活動をどうやって実現するのか。

ビジネスマンに商材がない商売をしろと言うに等しい,実に滑稽な話です。

校内研修や授業準備検討会の場で,先生達が机の上に広げる資料の数がどのくらいか想像したことはあるでしょうか。その場にパソコンやタブレット端末があって利用されていると思われるでしょうか。

すべてのケースがわかっているわけではありません。

しかし,関連図書を積み上げてあれこれ参照したり,パソコンでネット検索をしながら検討会をしているという様子が主流になっていないことはわかります。

場合によっては,教師用教科書のみを囲んで授業内容を考えていたりします。経験がカバーするから,それで十分だとされるのです。

ただ,少なくとも平成29年3月告示の学習指導要領のもとでは,知識リソースへの乏しいアクセスと経験によるカバーだけでは通用しないと,私は考えます。

そのためにも,教職員にとってリッチな知識リソースへのアクセスが保証されなければなりません。

余談ですが,教育の情報化や教育ICTに関わる事柄で,私が大変不満に思っていることは,官製情報による寡占状態が起こっていることです。

もちろん,新しい学習指導要領が成立する過程で行なわれた議論の内容や示された方針などを全国の学校関係者,および世間一般の人々に周知していくためには,統制された官製情報を強力に発信していく必要があります。

発信される情報が不統一で説明の度に食い違いが起これば,周知どころか誤解と混乱を招くことになります。その点で,官製情報が正確に流布することは大変重要なことです。

その上で,官製情報だけでなく,学術情報を始めとした多様な知識に触れることで知的活動が豊かになったり,健全な議論の土壌が生成できるはずです。

しかし,このところは官製情報を参照することから抜け出せていないリソースばかりが目に付きます。官製情報のまとめやキュレーションといった感じです。

困ったことは,研究者などの有識者によって書かれたり語られたりした情報リソースも,有識者自身が官製情報の生成に関与していたり,国家行政に関わっている人であることが多いため,結果的には官製情報発信の一部になっていることです。

たくさんあるようでいて結局は同じ内容でしかない知識リソースと,いろいろな事情があるにしても結果的には乏しいアクセス。

本当にこれでよいのでしょうか。あるいは,もっと巻き戻して考えていくべきことがあるのかも知れません。