公立学校で「プログラミング教育」なるものが必須になると話題です。
平成29年3月告示の学習指導要領に至るまでの「プログラミング教育」にまつわる事象と、学習指導要領とその解説で示されたプログラミングに関わる記述について、本当に様々な事柄が語られる対象となり、いろんな解釈と見解を人々が発信しています。
議論することが必要で大事であると日頃から考えている手前、立場に応じて提示される事実認識や考え方、取り組みや主張について、初めから斬って捨てることはないと考えています。
私がこれから書くことさえ、私個人の一認識でしかないのですから、まずは論じてみて、どのくらい妥当かどうかを闘わせてみるしかないと思います。
そう前置きしつつ、この「プログラミング教育」にまつわる話題が混沌としているとしたら、その理由は何なのか書いてみたいと思います。
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まず「プログラミング教育」という用語について、この文章ではこれ以降「プログラミング体験・学習」という表記を使おうと思います。
理由は簡単で、小学校がプログラミングの体験を重視し、中高ではプログラミングを通した学習が展開するという、新しい学習指導要領が示した初等中等教育におけるプログラミングの体系的な位置付けを、まずは明示的に共有したいからです。
【議論の混沌要因】の一つは、学校段階(小学校・中学校・高等学校)毎に分けて論じるべきプログラミングの扱いが、「プログラミング教育」という体系的な呼称で一括りに論じられてしまうことにあります。
乱暴かも知れませんが、プログラミング体験(小学校段階)とプログラミング学習(中学校・高等学校段階)として、分けて呼称できるように「プログラミング体験・学習」を使ってみようと思います。
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【議論の混沌要因】の二つ目は、国の学習指導要領と学校の教育課程との関係について、その従属関係をどう捉えるかによって議論が難しくなることです。
すでに小学校段階におけるプログラミング体験に関して、「関係する有識者会議は何を言っているのか」、「中央教育審議会は審議をどうまとめたのか」、「学習指導要領と解説にはどんな文言が記されているのか」、それらが内に含んでいる意図に最も沿う考え方とは何か、といった引用・解釈合戦が賑やかです。
学習指導要領は(検定教科書という同伴とともに)、学校現場にとって絶対的な存在として君臨し続けてきた歴史があります。文言としては創造的な学校の教育課程を編成しなさいとは言い続けてきたものの、多くの教育委員会や学校にとってはそうでなかった過去が積み重なっています。
新しい学習指導要領(平成29年3月告示)は、とりわけ学校の教育課程に関して挑発的な言葉が並びます。「社会に開かれた教育課程」の実現を目指すよう促し、「カリキュラム・マネジメント」の実現も求めます。学習指導要領は「学びの地図」であると一歩引いては見せるものの、示された到達すべき地点は膨大です。
より増長したダブル・バインド状況に立ち向かうために与えられたリソースは少なく、当然のことながら、少しでも効率的で、省力的で、手離れがよいものに逃れたい衝動に駆られます。正解探しが終わらないという皮肉な再生産です。
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【議論の混沌要因】の三つ目は、プログラミング体験・学習を学校教育に盛り込んだ側の人々が、その盛り込み方について分からないこと、思い通りにならなかったことがあり過ぎのまま、見切り発車的に決定を重ねた(重ねざるを得なかった)ことです。
小学校英語と比較すれば分かりやすいですが、その準備にかけた時間もステップも、すべてが少なく短過ぎました。たとえば、英語教育の必要不要を扱う書籍と小学校プログラミング教育の必要不要を扱う書籍の数の違いは(あくまで傍証でしかありませんが)議論の少なさ短さの証明です。
つまり、プログラミング体験・学習が学校教育に必要であることが直感的に分かっていたとしても、それを言葉として説得的に積み上げていく助走作業やそのための時間がなかったことを意味します。
その結果、新たな造語「プログラミング的思考」が、有識者会議という場で生み出され、学習指導要領の解説に示されたことが、議論をさらに複雑なものにしているのです。
「プログラミング的思考」について、[1]有識者会議の議論のまとめから、[2]各所各者言及から、[3]英訳検討から、議論の素材を集めていましたが、明確にしようとすればするほど言葉を重ねなければならない事態を招いていて、つまり用語としての明快さに疑念が生じています。
端的に、この語を生み出した人々自身が、中身を分かって用いたのではなく、生み出す必要性に駆られて用いたと理解した方が、むしろ話は分かりやすくなります。
プログラミング的に表現すれば、汎用型変数の宣言あるいはクラスを定義したに過ぎません。
「プログラミング的思考」に実体があるかのように論じても、それは各論者が好き好きに論じているにすぎず、有識者会議のまとめがこれを縛るための規約として、沿っているかどうかのチェックに利用される。そういう形だと理解すると現状をうまく捉えられるように思います。
すみません。何を書いているのか分からない方々もいらっしゃると思います。
「プログラミング的思考」という言葉は、生まれたときからバズワードであり、そうである以上、文脈に依存するため、議論する者同士がその文脈を共有しないと、この言葉を要にして議論することはできないのです。
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【議論の混沌要因】の四つ目は、役者(アクター)の配置が複雑になっていることです。
ここでいう「役者(アクター)」というのは、省庁や関係団体(産官学)、政治家や事業家や研究者、教育者、保護者、子ども、関心を持つ一般人など関わっている人々をまとめて呼ぶための言葉です。ステークホルダーという言い方もあります。
アクターが多様で複雑なのは、どんな物事にでも当たり前にあることですが、プログラミングに関してはアクター毎の知識や認識・理解も様々で、それゆえプログラミング体験・学習に対するイメージについて共有していることはとても少ないことが特徴です。
そのうえ、プログラミング体験・学習に関わっていこう、提供していこうとする人々も一枚岩ではない以上、非常に多様なものが発信されているため、それらを整理することがなにより重要なことになっています。
対象読者を絞ったガイドブックが少しずつ出始めていますが、これも増え過ぎれば、あちらはああ言う、こちらはこう言う、どちらが私に合っているのかを判断するのが難しくなってくるかも知れません。
(ちなみに堅いことを言わなければ、保護者向けと思われる『図解・プログラミング教育がよくわかる本』は、時節を捉えた内容でイラストとレイアウトなども上手に編集された無難な一冊と思います。)
プログラミングということでいえば、学校教育を管轄する文部科学省だけでなく、情報通信政策を管轄する総務省、そして情報通信産業を管轄する経済産業省が関わってくるテーマだけに、業界団体も巻き込んで、それぞれの思惑が交差していることも複雑さの一因です。
知らないうちに私たちが、この三つの省の代理戦争をしている状況さえ起きています。
他にもたくさんのアクターがいるわけで、その分の文脈が増えれば、議論が混沌としないはずがありません。
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【議論の混沌要因】の五つ目は、教育の情報化(学校教育のIT対応化)がネガティブなイメージを払拭できずに、長らく足踏みしていたことです。
ゆえに混沌要因の三つ目(議論の少なさ短さ)が引き起こされたともいえますが、日本では、教育の情報化の取り組みが仕組み的に難しくなっている現実があって、それを放置したまま今日に到っているのです。
平成元(1989)年の学習指導要領の改訂時、「情報基礎」という領域が中学校の技術・家庭科に新設され話題となりました。
公立学校に大量の教育用パソコンが必要になる!と業界が湧いたことをご記憶の方もいらっしゃるかも知れません。当時、主流であった「NEC PC-9801シリーズ」が採用されるのか、それとも海外から入ってきたIBM PCを日本向けに規格化した「AX規格パソコン」が採用されるのか、あるいは国産OSとして通産省も期待をした「トロン規格」が採用されるのか。
いまはJAPET(日本教育情報化振興会)へと合併しましたが、CEC(コンピュータ教育開発センター)という組織が学校の教育用パソコンの規格を策定して、それを導入機器のガイドラインにしてもらおうと動いていたことが知られています。1990年7月に「学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書 CEC仕様’90」が出されました。
しかし、その裏側では、様々な思惑の衝突と、貿易問題としてのアメリカからの圧力などで業界の勢いは削がれ、CECを中心とした教育用パソコンの普及計画は事実上消えてしまいました。あとは、パソコン各社それぞれ入札案件を取りに行く形で導入が進められましたが、入札疑惑、入札談合、入札収賄と事件が続き、導入しても宝の持ち腐れ論もかまびすしく、パソコン導入に関する世間のイメージはすっかりダークに染まったのでした。
そこから四半世紀近く、日本の学校の情報化(IT対応化)は極めてネガティブな空気感を伴ってしか、展開されてこなかったのです。たとえば、情報モラル教育が危険性を強調することでしか存在をアピールしてこなかったことは象徴的です。ある種の情報が人を喜ばせ、生活を豊かにするといった明るい方向性のモラルはほとんど語られてこなかったのではないかと思います。聞こえがいいこと言うのは宣伝ばかりだったともいえます。
その反動か、平成29年3月改訂の新しい学習指導要領やその関連文書には、環境整備の必要性を読み取らせ整備を迫る文言があちこち巧妙(?)に編み込まれており、呪縛を解こうと案じた様子が見えてきます。
ツケが大きくなり過ぎたことのケリをどうつけるのか。
Raspberry PiやIchigoJam、micro:bitといった比較的安価な選択肢が目の前にあっても、これをすべての子どもに配布するといった大胆な選択をとれない日本の現実こそ、本当は何とかすべきですが、すでに話が大きくなり議論の混沌を引き起こしているのは、これでお分かりいただけると思います。
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十分な検討を経ず、徒然に書いたプログラミング体験・学習の議論に関する5つの混沌要因。
5つはもっと整理できるかも知れないし、5つだけではない他の要因もあり得るし、そもそもこの要因がわかったところで本来の議論に貢献できるとはいえないかも知れず、そういう意味でこの主張も、異論反論を必要としているものだと思います。
もう少しいろいろ考えて書ければと思いますし、もっと具体的に特定の論考を相手に議論を闘わせることもしてみたいと思います。