先日,出張先の書店で手にしたのは『ここが知りたい! デジタル遺品 〜デジタルの遺品・資産を開く!託す!隠す!』(技術評論社 2017)でした。
残念ながら,私の世代にとってなじみの昭和を象徴する諸先輩方がこの世を去られる知らせを聞く機会が増えました。それ自体とても哀しいことですが,同時に遺品のこと,特にこのご時世的に残されたデジタル遺品(digital remains)について,考える必要性があると強く感じるようになりました。
情報教育の分野では,情報活用能力や情報リテラシーなどについて学ぶわけですが,これらは社会生活を営む上で必要な知識や技能等を学ぶことが大きな前提になっています。「生きる」ことを前提とした内容です。しかし,ここで話題にしたいことは人生の終活。つまり人生を「終える」ことを前提とした内容になります。
日本だと「終活」という言葉もまだ話題になって数年ですし,「デジタル遺品」もCiNiiという学術検索サービスで「デジタル遺品」を検索した結果は2017年10月29日現在で10件しかありません。まして,学校教育の中でこのような話題を扱うこと自体,ほとんど議論は深まっていません。
ちなみに英国ノッティンガム大学のサイトに「Digital Remains: The technological traces we leave behind」というe-ラーニング教材が見当たります。こうした学習教材が日本でも必要になると思います。
放っておいてもデジタルデータは増え続けています。そのほとんどが機械処理するためのデータであるとしても,人間の人生に関わる情報もどんどん入力・更新・蓄積されています。そういった生涯デジタルデータにはたくさんの未解決な問題がありますが,その一つとして,個人が管理するデジタルデータの管理権限が,管理する個人が逝去してデータがデジタル遺品となったときに,物理遺品とは違って自然に誰かに移管されることはないことです。
Facebookの場合「故人の近親者であることを証明できる方にかぎり、故人のFacebookアカウントの削除をリクエストできます。」とあります。この他に「追悼アカウント」という考え方を導入し,故人のアカウントに残されたデータを凍結したまま,メモリアルなデータとしてシェアできる仕組みを用意しています。
訪れる「死」がいつになるのか分からないという点で,死後の生涯デジタルデータの扱いをどうしておくのかという問題は年齢を問わない問題です。
個人のデジタルデータが収集され,ビッグデータとして分析対象として価値が見出されている時代においては,特に意識を高めておかなくてはならない問題の一つといえます。どこまでの生涯デジタルデータに権利を主張できるのか,すべきなのかといった問題は,そう簡単に結論が出る問題ではないものの,議論を重ね論点を見極めていく必要があります。
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デジタル空間やデジタル環境という言葉に対して,物理空間や物理環境の写し鏡であるという捉え方があったとすれば,もはや地続きか,場合によっては取って代わるものであるという世界もあるのでしょう。ARやVRに対する関心の高まりも,その一つといえます。
デジタルというものの特性と私たちの生涯デジタルデータの行方について考えることは,昭和の人間にとっては想像以上に難しいことだなと思います。かといって平成の人たちにその先が見えているようにも思えませんから,こればかりは「私たちがどうしたいのか」ということを語り合って考えを紡いでいくしかないのかなと思います。