2018年8月11日に行なわれた三重県教育工学研究会の夏季セミナーに参加してきました。
「新時代の教育を切り拓く プログラミング教育を探る」というテーマで企画され,「子どもが主役のプログラミング教育で学びを深める」と題して開催されました。授業実践事例の報告とプログラミング教育に関する講演,パネルディスカッションが行なわれました。
ふらっと参加したのですが,お声掛けしてくださる方々も多くて,思わぬ歓迎を受けたりしてました。
講演では,千葉県柏市の教育研究所にいらっしゃる西田光昭先生が,プログラミング教育に関する最新動向と柏市での長年の取り組みを紹介されました。パネルディスカッションでは,NPO法人みんなのコードの竹谷正明先生と亀山市立能登小学校の谷本康先生が議論を展開しました。
企業ブースも多数参加があり,各社PRで製品に触れる機会もあり盛りだくさんでした。
こうしたセミナーのような場を粘り強く展開することは大事なのだなとあらためて思いました。
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さて,プログラミング教育。
最近は,関連ポータルサイト(「小学校を中心としたプログラミング教育ポータル」)もインタビュー記事を掲載するなど情報発信にも力が入ってきたようです。
プログラミング教育について書くと,二文目には否定的なことを書いてるんじゃないかと思われがちですが,それは私の職務上,疑問を投げかけることから思考を発動させるのが定石になっているからです。
実は,夏季セミナーのパネルディスカッションで,発言する機会をいただきました。
登壇者の発言をフムフムと聞いていたものですから,そのタイミングで気の利いた質問を用意するのがとても難しく,また思い付いた言葉を唱え始めてしまいました。
曰く「なぜプログラムではなくプログラミングという言葉なのだろう。あるいはプログラミングという言葉は消えて使われなくなるのではないだろうか」とか。
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頭の片隅で「このセミナーは先生たちが集まっていて,これからどうプログラミング教育すればいいかを学びに来ているのだ」と分かっていたというのに,どうしてこうも自分は疑問を呈する思考回路の持ち主なのか,自分でも困ってしまいます。
私がそのとき抱いていたのは,西田先生がお話しされていた「プログラミング教育を普及させるために先進・先導事例を通して多くの人の理解を得る」必要性に対して,多くの人の理解を得る際に提示されるイメージがもっと鮮明でなければならないのでは?という疑問でした。
つまり「プログラミングって何?」という問いで生起するイメージを共有できるかどうかです。
そのとき「プログラミング」という言葉を使っていることの不思議さも感じないわけにはいかない。
たとえば音楽に喩えるなら,私たちは「作曲」に相当する言葉を使っていることになります。「作曲教育」自体は大変興味深い議論対象ではあるけれど,それは普通の感覚で考えたとき,音楽の範疇で最優先に取り組まれるべき事項だろうか。大概は,作曲する前に「鑑賞」することを優先するのではないか。
これをプログラミング教育に引き付けて考えるとき,私たちは「プログラミング」よりもまずプログラムを「観察」することから始めているのではないか。「プログラム観察」を経て,やがて「プログラム作成」を体験するという区分を明確にすることが必要なのではないかとも思えてくるのです。
「プログラミング教育とは,プログラム観察とプログラム作成の体験と学習から構成される」といった暫定的な共通イメージを描く必要があるのではないかという問題提起です。
もちろん,プログラム観察とは何か,プログラム作成とは何かという,さらなる描き込みは必要になりますが,プログラミング的思考なる言葉で煙に巻くよりは潔いのではないかと考えます。
こうして考えていくと「プログラミング」という言葉が代表面して学習指導要領に書き込まれるのは今期改訂の範疇限りで,次期改訂の際には「プログラミング」という言葉は消えて「コンピューティング」という言葉が後継候補に上っているかも知れません。仮にプログラミングという言葉が残ってもコンピューティングの中の一部分として登場する位置付けになると思います。
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そんなことを夏季セミナーに参加しながら考えていたわけですが,今一度,現時点で何をすべきかということに頭を切り替えるなら,先生方は,徹底的に「プログラム観察」をすることかなと。私たちの日常生活に潜んでいるたくさんのプログラムを掘り起こして再認識するだけでも,大変な作業です。
そのうえで,プログラム作成に挑戦すると,観察の成果が生きてくるかも知れません。