20190101_Tue テクノロジーのための思索を

新しい年となりました。

4月30日の天皇陛下譲位と翌日の改元によって,平成という時代が区切りを迎えます。1985年がコンピュータ教育元年であるとする教育と情報の歴史にとっては,平成という時代にほとんどの出来事が展開して今に至っているわけです。

昭和時代は,技術開発や製品・サービス化等の敷居は必ずしも低くありませんでした。それが平成時代は,技術開発と製品・サービス化の敷居が徐々に低くなり,両者を行き交うサイクルも加速したと考えられます。

それが高度化して第四次産業革命であるとか,それを内包する社会をソサエティ5.0(超スマート社会)とでも呼称して,よりスマートに展開する社会の将来像を描いているのはご存知の通りです。我が国の「科学技術基本計画」はその基本文書と言えます。

2017〜2018年に「EdTech」というキーワードで教育分野を対象としてイノベーションを持ち込もうとする動きが話題になったのは,この流れの一環です。

技術開発によってもたらされる可能性を,いち早く製品・サービス化することによって持ち込み,教育や学習の分野に変革をもたらしたいという衝動は理解できます。なぜなら,教育や学習の領域には変革を必要と感じさせるほど課題が山積しているからです。

そのような衝動を是としつつも,ハイパースマートなテクノロジー駆動型の教育・学習活動を支える理念的・哲学的な知見をもっと醸成する必要性があることも私たちは同時に認識していかなければならないと考えます。

ある種の可能性が実現すると,私たちの選択の幅は広がるように思われますが,実のところ選択の幅が狭まってしまう事態をも招き得ます。

特に,選択の幅の維持がコスト負担を強いると考えられる場合などは,コスト軽減を理由に選択の幅が捨てられてしまうのは容易に想像がつきます。

たとえば技術的可能性が教育や学習に変革をもたらすという場合,懸念されることは,そうした技術的方法が低コストを一つの特質として社会的課題の解決に導入されようとすることです。課題解決にとってプラスであることは明白ですが,裏返せば教育や学習にコストをかけることへのインセンティブが薄まっていくことになり,そのような事態が私たちが望むものかは,全く別の話であると言えます。

よって,EdTech等の動向を尊重しつつも,ある程度の距離感を保ったところで,私たちは何を目指すべきなのかという議論を歴史的な視野と日本に住む人間としてのあり方を踏まえて展開しなければならないと思います。

今年もいろいろ思索を深められれば。