別れはさりげなく

私の在職する大学でも卒業式がありました。

卒業するのは,私が現所属になったのと同時に入学してきた学年でした。お互い1年生というこちらの勝手な同士意識と1年生担任として迎え入れるという縁で始まった4年間でした。

こうして4年の月日が過ぎ,晴れて卒業の日を迎えられること,喜ばしく思えます。

私は,学生に伝える事柄を「3つのこと」として絞ってきました。

  1. 正しいことができるよう気づき考えること
  2. 人に寄り添うこと
  3. 異なること,特に反対のことについても考えること

これを決めたのは今回の卒業学年が入学してきた時でした。そういう意味でも感慨深いのですが,実は今回の卒業で,この3つについての続きを話そうかと思っていたのです。

私は卒業生たちを1年生時に担当したものの,それ以降は担任変更もあり,授業で関わるだけ。3年生,4年生向けの授業を受け持っていないこともあり,多くの学生たちとは学内ですれ違うか,ほとんど会わずに時が流れてきました。

私の存在感があるのはせいぜい前半の2年くらいだけ。卒業までの後半2年間に積み重なる思い出の中に私の姿はさして現れないというのが大勢の学生たちの意識だろうと思います。そして,それが大学という場の当たり前だと思います。

「3つのこと」を常に話そうと決めたのは,そうなることが分かっていたからでした。

私のことが眼前から消えていても,私が「いつも決まって話をすること」は憶えていて欲しい。それが何だったのかハッキリ思い出せなくても,正しいとか何とかの3つのことを話していたなぁと思いを巡らせて欲しい。

そんな願いを込めて繰り返しているお話でした。

けれども,話そうと思っていた「続き」は,「3つのこと」の裏話ではなく,それが意味する事柄の方でした。

卒業生たちの多くが歩み始めようとする「先生」という仕事。そして,そうでない道に進む卒業生たちにとっても他者にとっての「自分」というものについて。これらを考える時に私が伝えたかったこと。

それは,私たちが多くの他者と「記憶で接する」ということです。

「3つのこと」は,人と接する時に大事にすべき事柄のように見えるかも知れません。

確かにそのような内容ではあるのですが,実のところ,その内容が3つのことである必然性は何もありません。人と接する時に大事にすべき中身は,別の考えがあってもよいのです。

むしろ重要なのは中身ではなく,私たちがその人と「眼前で接する時間」よりも「記憶で接する時間」の方が断然長いということの方なのです。

私たちは,相手から直接言われた言葉を,その直後から,記憶の中で反芻しながら受け取ろうとします。

相手が眼前にいるうちは,あるいは通信ツールを使ってやりとりできるうちは,反応を返し合うこともできるかも知れない。

しかし,私たちは遅かれ早かれ直接関わる関係の卒業を迎えます。そうなれば,私たちは相手と「記憶で接する」しかありません。

私たちが眼前の相手に対して行う事柄は,相手の記憶に留まる。

「先生」という仕事は,そういうことに深く関わる職業であるということです。

「3つのこと」は,そういう立場に立つ人間として考えたいことを絞り込んだものでした。もちろんそれは私という人間が考えたものであって,普遍的なものではありません。

そもそも,3つのことを完璧にできる人間なんて居やしません。3つのことが完璧にできないからこそ,常に意識したい。記憶というものを介して存在しようとする「先生」という立場に立つなら,そうありたい。それが私なりに伝えたかったことでした。

とはいえ,記憶に囚われて生き続ければ,それは単なる原理的・機械的な生き方でしかなくなってしまいます。そうならないことも個人個人が努力を続けなくてはなりません。

3つ目に「異なること,特に反対のことを考えること」を含めたのは,そうした囚われからの解放も忘れないで欲しいというシグナルです。私たちはいつでも自由なのですから。

卒業生たちが巣立つ日。

4年越しの「3つのこと」の続きを語る機会を待ちわびていましたが,残念ながら,その願いは最後に叶いませんでした。

4年前の関わりや記憶よりも,直近の関わりと記憶の方が勝っているのは当然です。卒業行事の中で,直接担当していない人間の割り当て時間は少なく,せいぜい「3つのこと」を思い出してもらうだけで時間切れとなりました。しかし,それも織り込み済みと言えば織り込み済み。

すでに彼ら彼女らとも「記憶で接する」時間が長かったわけですから,あとは新たな門出をお祝いし,応援するだけです。

卒業おめでとう。