昭和の少年少女雑誌を中心に掲載されていた「空想科学画」や「未来予想図」は,ときどき話題になることがあるのでご覧になった人は多いだろう。
ネットで検索すればいくつも閲覧できるが,そうしたイラストを収録した図書も刊行されている。
『昭和ちびっこ未来画報 - ぼくらの21世紀』(青幻舎) https://www.seigensha.com/books/978-4-86152-315-1/
『昭和少年SF大図鑑』(河出書房新社)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309750378/
こうしたイラストレーションを描く画家としてブームの初期から活躍した人気の挿絵画家が小松崎茂氏だ。そして教育の情報化に関心を寄せる私たちにとって,無視することができない作品が「コンピュータ学校出現!!」である。
小松崎茂(1969)「コンピューター学校出現!!」
「みんな未来予想に夢中だった 100年前に描かれた「百年後の日本」」(朝日GLOBE+)
https://globe.asahi.com/article/12786581
シュールな設定とサスペンスフルな絵柄が相まって,小松崎の未来予想図作品は独特な雰囲気を纏う。半分は下手な空想だと笑えるし,半分は得体のしれない不安を抱かせる。
GIGA端末は,コンピューター学校のロボットのように子どもの頭をこづきはしない。
その代わり,学習の難所を気づかせるようなガイドやナッジ(つつき)をきかせてくる。
ホッとしてもよいだろうか。
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今日は大学院の学生と1 on 1授業だった。
授業の議論は教育ICTをテーマにしていなかったが,昨今の文教施策のほとんどがICT活用や教育DXを推進する流れにあって,議論も自然とそちらに向いてしまった。
ICTやデジタル技術の活用による教育現場の変革は,本当に私たちの望むものなんだろうか。そんな身もふたもない疑問を,恥ずかしげもなく私より若い世代に投げかけた。
デジタル化がもたらす効用は確かにある。実際,それで便利に物事を処理している。仕事のやり方も変わったかも知れない。その変化は価値観にも及ぶだろう。
しかし,さて,完璧ではないとしても,その効用はまだ足りていないのだろうか。「デジタルならでは」の何かを享受し足りない!と渇望しなければならない立ち位置なのだろうか。
もちろん,行政事務や業務処理の中にわんさと残っているアナログな部分を速やかにデジタル化して欲しいという要望はある。けれど,これは「デジタルならでは」の希求というよりは,単に「デジタル化する」ことの要望である。
私たちは,後手に回してきた第1段階「デジタイゼーション」の宿題に取り掛かり,あわよくば第2段階「デジタライゼーション」を成果として見せたがっている。そのうえ,タイミングはSociety5.0の議論を要請しているため第3段階「デジタルトランスフォーメーション」が論じられている。
第2段階を成熟させていく中で,何を必要として何は必要と見なさないかが各人の中で見極められなければならないにもかかわらず,まるでそのまま第3段階が連続的に接続されるかのように描いているポンチ絵は,人々の鵜呑みを誘ってはいないのか。
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学習の難所を気づかせるシグナルが,通知表示やインフォグラフィックといったガイドやナッジであるうちは,スマート技術などによって順当な第3段階がもたらされるかも知れないと思えたりする。
けれど,腕のデジタルウォッチが通知のための振動を伝えてきたとき,頭ではないにしても,機械にこづかれている自分が居ることに少し驚いてしまうのだ。