OECDという組織と新しい時代の学力

 日本の教育政策は「教育振興基本計画」という計画のもと進められています。

 しかしながら,教育振興基本計画という言葉も,その動きについても,多くの教育関係者には届いていないというのが実情で,一般の皆さんにいたっては,本当にそんなものが進んでいるのか信じられない方も多いと思います。

 基本的に,日本で何かが起こっていることを感じるには,マスコミに頻繁に取り上げられて,話題にしやすい物語にならないと難しいかなと思います。

 特に教育関係は,ネガティブな出来事の方がマスコミ的に話題にしやすいため,淡々と進行している取り組みは存在しないも同じのようです。

 従来の知識伝達・知識注入で達成する学力だけで立ち向かうことが困難な世の中になり,むしろ複雑な状況にも対応し得る新しい知識を生み出せる知識創造的な学力の育成こそが今後重要なのだ。

 こうした考え方に基づいて,教育振興基本計画は「自立・協働・創造モデルとしての生涯学習社会の構築」と4つの基本的方向性を打ち出しています。

 ところで,一つ戻って…知識伝達から知識創造の時代に変わっているといった考え方は,どこからきているのでしょうか。

 これは国際世界にも流れている見解で,「21世紀型スキル」という新しい学力の考え方とセットで世界中の学校教育で注目されています。

 もう21世紀も10年経過してしまいましたけれど,「21世紀型スキル」という言葉が一般に人々に届かないのは,なかなか心苦しいところです。  苛ついた私はこんなツイートしていました。


 いじめ問題がトップなのは,それが重要な問題である以上当然ですが,それにしても他の項目について見直しが足りないんじゃないの?という皮肉でありました。

 この世の中は変わったので21世紀型スキルのようなものが必要だという考え方を広く流布する役目を負っているのはOECD(経済協力開発機構)という組織です。

 前身がヨーロッパの経済組織であったOECDが,なぜに世界の教育政策の分野に深く関与しPISA学力調査の実施にまでいたるのかの経緯については,福田誠治氏による論文「ヨーロッパ諸国の教育改革からの示唆」でまとめられています。

 もともとは,ヨーロッパ諸国が統一するににあたって必要とした「協力社会」という考え方と,複雑な世の中を生きるために絶えず自己学習する必要のある「生涯学習」という舞台の必要性を,教育に影響力を持ったOECDが国際的に認知させたといえそうです。  

 PISAまでの流れを論文をもとに,かいつまんでご紹介すると…

===

・1968年に「CERI(教育研究革新センター)」を創設した。 ・関係国の思惑複雑な中,1988年より「国際教育指標事業」を開始。
 →指標公表の積み重ねによって徐々に影響力を増す。

・1990年代にOECDのCERIは,従来の学力調査では学校教育の重要な部分が測定されていないために,学校が十分な力を発揮していないのではないかと考える。
 →PISA国際学力調査の誕生へ

・では何を測るべきか
 →「教科横断的コンピテンシー」(コンピテンシー:実践的な能力といった意味)
 →実社会から学校教育の目的設定を試みる(DeSeCo計画のスタート)
  人間が望ましい社会生活を送るのに必要な力

・2002年末にDeSeCo最終報告 〜汎用能力としての3つの「キー・コンピテンシー」
 →「異質集団の中で相互交流する」   「自律的に行動する」   「相互交流的に道具を使用する」

・「キー・コンピテンシー」から測定可能な形で取り出したもが「リテラシー」
 →「言語・情報リテラシー」(読解力)
  「数学的リテラシー」
  「科学的リテラシー」  →PISAはDeSeCo計画が結論する前に見切り発車して実施された。

・PISAにおいて「省察,それはキー・コンピテンシーの心臓」
 →キー・コンピテンシーをつなぎ止める決定的な能力として「省察(reflectiveness; reflection)」ないし「省察的な思考と行動」に着目。

===

 このようにPISA調査は従来の学力調査(たとえばTIMSSなど)では捉えられていなかったものを測定しようとしたのであり,知識伝達中心の学校教育だけでは対応することが難しくなっています。

 フィンランドでは,1994年からすでに新しい学力に向けたカリキュラム改革が始まっていたため,PISA学力調査に対して高成績がとれたともいえます。

 DeSeCoのキー・コンピテンシーもPISAの「リテラシー」も21世紀型スキルと銘打っているわけではありませんが,いずれも新しい時代(つまりは今日)に必要な能力を描いているという点で21世紀型スキルの議論に深く関係します。

 日本では,「学びのイノベーション」という呼び方で,新しい時代の学力に対応した学校教育を生み出そうと取り組まれています。  これもあまり知られていませんが,とにかくそういう動きがあります。

 一体,何を目指しているのでしょうか。

 それは「一人ひとり異なる特性をもった児童生徒が,学級やグループの学習活動で関わりあうことを通して,気づきを得て自らを変化させたり,児童生徒同士の知識が掛け合わされることによって新しい知識が生み出されること」です。

 教育振興基本計画に「自立・協働・創造」という言葉がありますが,そのようなキーワードも踏まえて,このような場面を積極的に取り入れた授業をつくり出していくことが目指されています。

 もちろん,これまでも授業の中にそのような場面や瞬間は多々あったと思いますが,今後は,それを意図的にねらって授業づくりして欲しいということです。

 その際,新しい時代には「ICT機器」といった避けることが出来ない道具も登場しているので必要があれば活用することも奨励されているわけです。もちろん必要なければ遠ざける術も学ばせなければなりません。

 こうした考え方が日本の学校教育に浸透するためには,まだ時間がかかることを覚悟しなければなりませんが,少しずつ前進していることは確かです。

20121102-03 全日本教育工学研究協議会2012金沢大会

Untitled
 11月初めに日本教育工学協会(JAET)主催の全日本教育工学研究協議会が金沢で開催されたので参加してきました。
 日本教育工学協会とか,全日本教育工学研究協議会とか,これと似たような名称の組織に日本教育工学会(JSET)とか,日本教育工学振興会(JAPET)とかありますし,教育と情報分野にかかわる学会は他にもたくさんあります。
 教育の情報化界隈に関心を持つ人間としてそれぞれを気にはしていますが,正直なところバラバラ過ぎて把握し切れません。^_^;
 教育情報化や情報教育のトピックスは,似ているようで違いますし,それぞれ論者によってこだわり,主義主張がありますから,正直なところコンセンサスのようなものがあるようでなく,一般の人々にはあらゆるバラバラなメッセージが届いているというのが実際のところです。健全といえば健全ですが,議論の土台さえバラバラなので意思決定に結びつくのが難しいというわけです。
 日本教育工学研究協議会という場は,「実践者」「研究者」「事業者」が集って研究や取組みの成果を発表し会い,教育工学分野から教育を向上させていこうとする会です。主催団体である日本教育工学協会の略称を取ってJAET大会と呼称することがあります。
 そういう意味でJAETは間口の広い会ですし,全国の都道府県毎にある先生達を中心とした教育工学関係の研究会との関係を持っている点もユニークです。必ずしも学会ではないので性格付けが難しいところもありますが,同じ土台で異業種が交われるのは大事な機会と思いますので,もっと多くを巻き込んで一般の方にもメッセージが伝わるような場になることが大事かなと思います。
 つまり「実践者」「研究者」「事業者」の輪に「生活者」も入るように向かっていけたらいいなと思います。

 さて,そんな日本教育工学協会には,たくさんの理事がいらっしゃいますが,今年度から私もその末席に入れていただくことになりました。
 初めて「理事会」なるものに出席し,ものすごい緊張…。
 ずらっと並ぶ先生方の顔を見ることも出来ず,もじもじしておりましたが,聞いてみたかったこともあるので,いつもの調子で質問したりと,これからたくさんご迷惑をおかけするにあたっての仁義は切ったみたいな感じになりました。
 まあ,何にも出来ないでしょうけど,賑やかしくらいには役立ちたいと思います。
Untitled

研究発表「日本の教育情報化の実態調査と歴史的変遷」

 徳島県FS実証校である東みよし町立足代小学校の公開授業の翌日に岡山大学へ移動して,JSET(日本教育工学会)研究会で研究発表しました。

20121027 日本教育工学会研究会@岡山大学
林向達「日本の教育情報化の実態調査と歴史的変遷
 日本教育工学会研究報告集, 12(4), pp139-146
発表原稿PDF
https://dl.dropbox.com/u/6195338/rin_jset20121027.pdf
(Googleドライブ:https://docs.google.com/open?id=0BxBSvLJGifj0S1RrZ3JRMWs4SGc)同一ファイル
発表スライド
http://www.slideshare.net/kotatsurin/jset20121027
(グラフ:編集利用可能)
コンピュータ整備台数内訳.ai
https://docs.google.com/open?id=0BxBSvLJGifj0SmRDZDJIQ1VON28
コンピュータの周辺機器台数.ai
https://docs.google.com/open?id=0BxBSvLJGifj0UTNubVhrcV9RTkE

 文部科学省が昭和62年度から継続して行なっている教育の情報化の実態等調査について,コンピュータと周辺機器の整備について過去のデータを整理しグラフ化したのと,1985年以降の教育情報化に関する歴史年表をまとめたものです。
 電子黒板や1人1台端末,デジタル教科書といったキーワードで人々の関心が高いはずの「教育の情報化」という領域ですが,実はその実態や歴史を知る手ごろで正確な情報はほとんどありませんでした。
 実態に関しては,毎年調査結果が更新され提示されていますが,文部科学省が出す資料のグラフをコピペするだけでは見えないものもあります。今回はコンピュータと周辺機器に絞って,経年的かつ視覚的にも実態が反映されるようにグラフ化しました。
 歴史に関しては,強いて挙げれば文部科学省「教育の情報化に関する手引」という文書が,教育の情報化の進展に関して解説していますが,それを除けば,年表を掲げて広い範囲を概観しているものは,ほとんど無いと思います。
 まあ,忘れたい過去もたくさんありますでしょうが,逆に,たくさんの取組みをちゃんと繋げて見る努力も必要で,今回作成した年表はそのための基礎資料となるはずです。

 この研究は,もうしばらく集中的に情報収集して,データを充実させていこうと思います。そのあとはライフワーク的に史的記述を進めていければと思っています。
 なお,年表作成にあたっては細心の注意を払って情報の確認をしているつもりですが,紙面スペースの関係上,言葉足らず情報が不足していたり,誤解を招く部分があったり,明らかな間違いもあるやも知れません。お気付きの点ありましたら,ぜひ情報お寄せください。

20120818 日本デジタル教科書学会 設立記念大会

 2012年8月18日に青山学院大学・青山キャンパスで日本デジタル教科書学会の設立大会が開かれました。
 その他にも東京への用事があったので,一般参加者として,いつものように「ふらっ」と寄る感じで参加してきました。
 実際に参加してみれば,それぞれの発表やシンポジウムは面白かったし,賑やかな感じは出だしとして良いなと思いました。

 私自身は「デジタル教科書」という言葉が曖昧さを抱えていて,何かしらの合意もないところで,この語を冠した学会が出来ることに否定的というか,不安視をしています。
 特に2009年末頃に発表された「原口ビジョン」に記され,年明けのiPad発表以降,「デジタル教科書」という言葉にまつわる様々な動きは目まぐるしく,私には狂騒曲のように思えてなりません。
 この言葉の曖昧さと周辺の騒がしさを強調する場合に〈デジタル教科書〉という山括弧で括った表記にして区別しようと考えているくらいです。
 本来「デジタル教科書」という言葉は,2009年末頃以前の動向も捉えて,議論を積み重ねなければならないと考えます。2009年末頃以降の騒動を捉えて,現象を追いかけるだけではいけないと考えます。
 果たして,日本デジタル教科書学会は〈デジタル教科書〉を括弧無しのデジタル教科書という語にし得るのか,あるいは特別な語でなくすることが出来るのか。
 単なるイベントではない,学会の大会ということもあって,気になり参加したところもありました。

 事前に抱いていた危惧のようなものは,参加してみて,もう少し学会の活動が積み重なってから判断してもよいかなという感想に変わりました。
 確かに当日は,デジタル教科書というキーワードをとっかかりに大変雑多な人々が集まっており,デジタル教科書について共通認識があったとは言えない感じでした。
 しかし,学会長がシンポジウムで語った「デジタル教科書・教材」の学問的ハブになるというコンセプトには合致するわけで,世代と研究領域を超えて知性を結集したいという考えのもと,デジタル教科書という言葉についても議論を通して明確にしていけるのではないかとも感じました。
 学会に集まる様々な知見を織りなすにしても,もう少し時間は必要でしょう。
 私自身は,その間も外部の立場から緊張感を持って議論に臨むことで,少しでもデジタル教科書という言葉の周辺を整理できたらと思います。

 さて,大会当日は様々な発表が平行していたため,残念ながら全ての発表を聞くことは叶いませんでしたが,上のような問題意識にもとで発表を選んで聞きました。
 発表を聞き始めて気になったは,発表要旨がA4サイズ1〜2ページと決められており,引用・参考文献を記載できなかった発表があるということです。
 願わくは,制限の中でも最低限の参考図書はリストアップすべきだと思いますし,逆に,デジタルなのだからページ数を1〜2ページにせず,6ページぐらいまで許してもよかったのではないかとも思います。
 学問領域をまたがるということは,領域による発表方法や要領違いが出てしまいがちにもなるので,この辺の学会文化はこれから育んでいくのかなという感じです。

 研究者や大学院生による学術的な発表と,現場の教育者による実践の報告発表とは,おのずと性格が異なるので,違いをうまくバランス出来るといいかなとも思いました。
 シンポジウムでも登壇者の赤堀先生が,研究も大事だが,実践をもっと集めるのが大事と指摘されていたように,様々な実践報告が積み上がるとよいと思います。
 ただし,気をつけなければならないのは,教育実践もデータや客観的な視点を盛り込んで報告されなければならないということです。そうしないと単に「やりました」と受け止められて「あっそう」で終わらされることにもなりかねないからです。
 だからといって実践報告は緻密なアンケートを取らなきゃいけないとか,学問的に難解な用語を使わなければならないとか,そういう話ではありません。
 赤の他人に伝えるために「形式に則って整理して簡潔に漏れなく語ろう」ということを心がけることが大事ということです。その方法がアンケートの場合もあるでしょうし,学問の言葉かもしれませんし,児童生徒の様子かも知れませんし,いろいろです。

 一方で,学術研究発表の方は少しでも厳しくすべきと思います。
 大学院生の皆さんの発表がいくつかありました。大学院生の皆さんは,こういう場を踏んで学会発表のやり方を学んだり,聴衆からの指摘や議論を通して発表内容について理解を深めるということがあります。
 それだけに,学会発表の場がある程度厳しくないと,悪いやり方を学ばせたり,逆に学会がなめられたり,発表しっぱなしで学びがなかったりしてしまいます。
 また〈デジタル教科書〉という曖昧さの中で議論をしようとしている分だけ,しっかりとした根拠にもとづいて発表や議論がなされなければなりません。
 今回,いくつかの発表を聞いて,私は質問をしました。
 一つは政策や言説に関する分析をしたという研究でした。私の関心事とも重なっていましたから期待もあったのかも知れません。どのように政策動向を捉えて,どのように言説を分析したのか,とても気になっていました。
 しかし,私にとっては少しもの足りず,何よりも分析対象の選択が曖昧だったので,調べた範囲と分析対象の設定基準を質問したのです。
 その返答は〈デジタル教科書〉という範疇にすっぽりはまり込んだものでした。
 それも一つの切り取り方かも知れませんが,まあ,ガクッとしてしまったのはご想像の通りです。
 もう一つは,デジタル教科書のための「学」を提案する発表。2009年末頃の「原口ビジョン」前後におけるデジタル教科書関連の文献数を示すことでその語が注目された変節点を押さえ,「教科書」と「デジタル」という語の整理から「デジタル教科書学」を提案するというものでした。
 それぞれの整理はよいとして,そこから何故「デジタル教科書学」が必要なのか,繋がりがよく分かりませんでしたので,質問しました。
 変節点以前から「デジタル教材・電子教材」関連の文献はそれなりにあったわけで,それらと「デジタル教科書」を分けて扱わなければならない理由(メリットやデメリットや具体例)などはあるのか聞きたかったわけです。
 その場ではすぐに納得する返答は得られなかったため,課題の残る印象でした。
 たぶん提案が早過ぎたのであろうし,それゆえ大ざっぱになったのだろうと思います。本当はもっと議論を重ねなければならないテーマでしょう。

 シンポジウムについて(後日)

 他いろいろな実践報告も興味深く聞くことになりました。それらは様々な学校段階や教科や取組みの次元があって面白かったです。
 いろんな切り口があることは良いことだと思いましたが,これはこまめに整理したりまとめていかないと,学会としても収拾がつかなくなるかも知れないなぁと勝手に考えたりしていました。
 それが可能性だといえば可能性ですし,こまめに整理し情報発信することが大事であることもその通りなので,今回の設立大会の成果を継続的に出力していただきたいなと思いました。
 残念ながら全ての方々と挨拶したり労うことは出来ませんでしたが,学会や大会を実現するために努力されている皆さんがいらっしゃることもいろいろ見えていました。素朴に学会設立と大会の開催をお祝いするとともに今後の継続に期待したいと思います。
 

20110917-19 日本教育工学会 第27回全国大会に参加しました

 2011年9月17日から19日まで,首都大学東京にて日本教育工学会 第27回大会が行なわれましたので参加してきました。

 教育の情報化関連のお仕事を追いかけていて,末端とはいえ国の事業である「フューチャースクール推進事業」と「学びのイノベーション事業」に関わる人間となった今,それに関して学会の場で報告することは当然のこと。

 今回の学会大会では,事業1年目の報告を兼ねて,研究者としてどう関わるべきかについて投げ掛ける発表を行ないました。それについては発表スライドが別のエントリーに掲げてありますので,そちらを参照してください。

 今年は、とても良い会場と運営に恵まれた大会でした。

 その部分に関する不満がほとんど意識に上らなかったのは珍しいことかもしれません。いや、珍しいかどうかさえも考えなかったくらいトラブルもなくスムーズに運営されていました。ですから、素晴らしかったのだと思います。

 これは、これまでの大会運営から真摯に学び、実際の準備と運営に活かすことに専心したきた関係者の皆さんのおかげだと思います。

 一方、今年の学会の中身については、複雑な気持ちを抱く結果となりました。

 特に、学会の取り組みを象徴するといってよいシンポジウム企画において、「この国の現在」と学術研究をどう交わらせるのかといった学会としての姿勢が読み取りづらかったことは、私の不満を大きくしてしまいました。

 

 たとえばシンポジウム「デジタル教科書時代の新たな学びと指導方法」は、実にタイムリーなタイトルであり、文部科学省が学習者用デジタル教科書を開発して実験していることもあって、どのような示唆が得られるのか期待されていました。

 しかし、一つ一つの発表は興味深かったものの、そこから示唆されたことは、小柳先生の発表にあったTPCK (Technological Pedagogical Content Knowledge) などから見通される教師の新たに必要となる知識技能を持つことの重要性や、柴田先生の発表が指摘するように授業のありようを「持ち帰り型」から「持ち寄り型」へと変革することの必要性が了解されたところに留まりました。

 もちろん、ここから自分なりに読み取り、現在進行中の国家事業を検討する観点として適用することは可能かもしれませんが、むしろそこをシンポジウムの場で議論したり、一定程度の共通理解としてまとめていただきたかったと思うのでした。

 一つ一つの商品をショーケースに持ち込んではみたものの、お客が見やすいようにショーケースの中をアレンジせずに終わった感じになっていると言えます。

 それよりも大きく不満を募らせたのは、2日目のシンポジウム「グローバルな時代において日本の教育工学は何ができるか」でした。

 シンポジウムの事前紹介文には、こんなフレーズが含まれていました。

「日本の教育工学研究は,これまで以上にグローバルな教育のための研究を模索し,国際的に成果を発信し,国策をリードしなくてはならない.」

 このような前提で「日本で教育工学を研究するということは…」を考えていく企画意図であったわけですが、気がつけば「日本教育工学会はどうあるべきか」といった課題も巻き込んで議論が進められようとしていました。

 その混在が物事の理解を混乱させたように思います。

 

 テーマに関する基本構図は次のようなことだと私は理解しています。

  • グローバルな時代において教育工学研究者として生きる以上、海外フィールドで活躍することは大変重要である。
  • 海外のフィールドで活躍するためには、様々なノウハウがあり、また心得なければならない姿勢や態度のようなものもある。
  • また、日本人である以上、自国の教育について見識を持ち合わせなければならず、その立場から研究成果を発進して国際貢献すべきである。
  • 日本教育工学会は、若手が海外フィールドへ進出することを奨励しており、積極的な支援策を講じる用意があるのでアイデアが欲しい。

 ところが、このようなことに「日本の教育工学は何ができるか」というタイトルを被せて考えようとしたところでおかしなことが起こります。

 

 「日本の教育工学」とは何かを考えたとき、解釈がバラバラになっていたのです。

 それは日本人が生んだ教育工学研究の知見という意味なのでしょうか、それとも日本人(もしくは日本をフィールドとする)教育工学研究者のことでしょうか、あるいは日本教育工学会などの日本の研究学術集団のことなのでしょうか。

 指定等論者は特に、日本の教育工学のことを日本教育工学会のこととして考えながら議論しようとしていたように思います。

 

 私にしてみると、シンポジウムの混乱も不満の対象となりましたが、そこで展開するやり取りから透けて見えた無意識な「国際重視・国内軽視」の姿勢に愕然としました。

 この調子では、いくら海外で活躍しても日本の文脈を捨てない限り世界から認められることはできなくなるのではないかという危惧を抱きました。

 もう一度、先に引用したシンポの紹介文を見てください。

 私たちはまずグローバルな教育のための研究をして国際的に成果発信をしてから、その後に国策をリードすると書いてあります。この場合の国策はもしかしたら日本のことではないかもしれませんが、日本も含まれていると信じましょう。

 どうも企画者側の通念としては、「国際→国内」という経路の方にプライオリティがあるようです。

 そのうえで、登壇者の国際活躍のためのレクチャーを聞いていると、総じて次のようなことを前提しているように私には聞こえました。

 「国内作法・流儀は通用しません。日本の文脈から抜け出て国際標準的な作法・流儀で研究を進めることが肝要です」と。

 そこで議論すべきことがあるとすれば、「日本の文脈に寄り添う教育工学研究をグローバルな文脈に乗せるためにはどうしたら良いか」ということであったはずです。

 しかし、残念ながら登壇者のほとんどは日本の文脈を離れることによって研究を進めてきた人たちばかり。おそらく、海外文献を年間300本読み、国際学術誌に投稿し続ける中で、日本の文脈をロジカルに発信することができるようになりますと言いたかったのかもしれませんが、必ずしもそう明言したわけではなかったので真意はわかりません。

 それならそれで、海外で活躍したい人たちは、今回のレクチャーを参考にして羽ばたいていけばよいだけのことですから大した問題ではありません。日本の文脈を離れて研究に慢心し、その成果を日本に持ち帰ってくれるなら、それも立派な学術活動です。

 しかし、もう少し広い視野で考えたとき、日本の文脈を後回しにしているツケは早晩やって来るように思います。

 そのように思ったのは、シンポジウムの議論が、日本教育工学会としてどうすべきかという議論にすり替わろうとしていたときでした。

 学会のあり方を論じる場として適当であったかどうかは議論の余地があるかもしれませんが、そもそもシンポジウム企画は昨年の続きという位置づけも与えられており、主催者側には学会の今後を議論してもらうという願いが当初からあったことは事実です。それもあって、最後は学会はどうあるべきかみたいな話になりました。

 ここで、例年なら私が手を上げて議論をふっかける展開も十分予想できましたが、私はTwitterを使ったバックチャネルの方で問題意識をツイートしており、それがどうも取り上げられる気配がないというところで、手を上げることも諦めました。

 私の考えはこうでした。

  • 国際的な活躍をすることは大事なことで、そのためには様々なリソースが必要になるから、大学機関や学会は多様な支援をすべきと思う。
  • 日本人である以上、やがて他国の研究者から「あなたの国は教育にどう取り組んでいるのか」と問われる場面が必ず訪れる。
  • 問いかけに対し、自国の教育の取り組み、自国の研究者たちはどのような取り組みをしているのかロジカルに説明できる準備があるのか。
  • 日本教育工学会に限ってみれば、自国の現在進行中の国策や国家事業についてまとまった発信も取り組みも見つけることが難しい。
  • このような国内を軽視した状態をそのままに、国際的な活躍の部分だけをクローズアップして論じることは、方輪走行のような不安定な状態ではないのか。

   だから私は登壇者よりも口悪く、こうツイートしたのです。

「私にはよくわかんない。かつてNIMEのような組織が国から消えたこともスルー、教育の情報化ビジョンのことも触れず、国家的な事業に対するコミットも無し。そういうのが普通だとすれば、私にはよくわかんない。国際的な活躍をしようというのは異論無いけど…」(20110918のツイート

 まあ、こんな危ないツイートを紹介できるわけもないでしょうから、無視されて当然だったかもしれません。それに企画でやりたいことも別のことでしょう。だから私は、今回は学習の成果を活かして、手を上げませんでした。

 海外で活躍する若手研究者の皆さんにとっては有意義なレクチャー企画だったと思います。また、研究とは何かを考える材料を提示してくれたという意味でも興味深いものだったと思います。

 

 私がたまたま国のお仕事に関わっているために、ネガティブに考えてしまったのだろうと思います。

 とはいえ、日本の教育工学は、国策や国家事業について、何ができるのでしょう。日本教育工学会は、所属会員に学会として何か示唆を与えてくれないものでしょうか。私が間違ったことを言っているのなら諭してくれることはないのでしょうか。

 一人でやっているわけではないはずなのに、私は一人で考え込んでいます。