20181225-28_Tue-Fri

授業のない週。

クリスマスを含む連休中は,研究室の蔵書整理をしたり,我慢しきれずに映画『カメラを止めるな!』などをデジタル配信で視聴したり,のんびり過ごした。天皇の会見はあとからネットで拝見し,平成という時代が終わるのだなと感慨にふけったり。

火曜から金曜日は,授業もないので久し振りに文献とにらめっこしていた。プログラミング的思考を論理的思考の角度から論ずる際に「アブダクション」が重要になると考えているので,あらためて米盛裕二氏の『アブダクション』(勁草書房2007)を紐解いている。

27日あたりTwitter上でプログラミング的思考に関するツイートが賑やかになっていて,それぞれの立ち位置からの認識を垣間見れる状態にあるが,結局,最初の無理がいろんな形で波及してしまった当然の展開なのかなとも思う。本来ならば,これがちゃんとした舞台の上で論争なり議論として扱われて,もともとの言い出しっぺに返っていく通路が形成されるべきなのだけれども,このままだと単なるノイズとみなされて終わりになってしまうところが,教育とICT界隈の残念な現実である。

文部科学省が「プログラミング教育プロジェクトオフィサー(非常勤職員)」を新たに1名募集しているので,こうした界隈の交通整理がしたい方は応募してみてはどうだろうか。

プログラミング的思考の育成をアブダクションによる思考方法の獲得として考えることは,問題解決学習や主体的・対話的で深い学びを指向する今後の学校教育にとって自然に受け入れられる方向性だと思われる。

ただ,学校教育にとって最大の問題は「時間」に他ならず,プログラミング教育を小学校・中学校・高等学校における体系的な取り組みとする時の「割振り」をどう描き分けるのかが,実のところ専門家にさえ見通せていないというのが実情である。

アブダクションによる思考法を獲得するには,演繹と帰納による思考方法もステップとして踏まなければならないのが筋である。だとすれば,時間の限られる小学校で一足飛びにアブダクションまでたどり着けると考える方が難しい。では,どこから手をつけるのか。そうやって割振りを見積もり始めると,小学校だけで全てが完結し得ない事態も覚悟した上で,中学校への接続を前提とした現実的落とし所を描かざるを得ない。むしろ,中学校と高等学校は大丈夫なのか?それが関係者のもっぱらの心配事である。

平成の30年間は社会のIT/ICT普及活用の時代だった。次は,人間とコンピュータとの関係を再構築する時代に入ってきている。AIはその格好の入り口だったわけで,私たちはもっと熟考を重ねてコンピュータをデザインしていく必要がある。そのデザインにアブダクティブな思考方法が不可欠だと考える。

28日は年内出勤も区切りとなり,早々に帰省の途についた。

名古屋栄のAppleに寄って,仕事用のMacBook Proを修理に出した。バッテリーが膨らみつつあったので,深刻な事態になる前に対応したかった。事前の予約もAppleのサポートアプリからバッチリ確保して,万一のハードウェアリセットでも困らないようにバックアップも済ませた。基本的に「預けるだけ」「返ってくるの黙って待ち続けるだけ」にするとAppleの対応はシンプルで気持ちがいい。店先でごちゃごちゃする余地を残すと具合が悪くなる。

伝票を見たら「日本NCR」の文字。おそらくグループ会社のグローバルソリューションサービスが修理を引き受けているのかもしれない。長くAppleの修理プロバイダーをやっている企業である。それも安心材料。

というわけで年末年始はiPad Proのみで過ごす。

20181221_Fri

専門ゼミナールは年内最後も文献講読。

ライフロング・キンダーガーテン』は第5章「遊び」について。いよいよ4P(Project, Passion, Peers, Play)の4つ目ということになる。

最初に出てくるエピソードは,著者であるレズニック氏がアムステルダムの会議の隙間に訪れた「アンネ・フランクの家」での気付き。アンネが置かれた当時の状況と日記から垣間見られる彼女の「遊び心」(playfulness)の精神の対比を印象深く綴っている(217-218頁)。ここから「遊ぶこと」(playing)に対する一般的な認識への吟味と4Pのもとでの「遊び」(play)の議論が始まる。

筆者が特に触発されたというのは,ジョン・デューイが「遊ぶこと」(play)という活動的な側面から「遊び心」(playfulness)という態度という側面に着眼点を移したことだという(220頁)。つまり,ここで述べる「遊び」とは遊び心の発動や駆動のことであり,必ずしも笑うことや楽しいことをして過ごす時間のことではなく,「実験すること」「リスクをとること」「限界を見極めること」といったことから得られるのだとしている(218,219頁)。

このあとレゴ財団のあるデンマークにおける「遊び」を表す語(spilleとlege)についての紹介(228頁)も出てくるが,学生たちとの話し合いの場では,playの多様な語義と日本語の「遊び」「遊び心」について,ごっちゃ状態が残っていたようなので,あらためて学生たちに,アンネの心情と重ね合わせながら自分が遊び心を発動する場面について考えて発言してもらった。自分のシチュエーションで遊び心が誘われるコントラストある状況を感じてもらおうと考えたからである。

さて,創造的思考者として成長するための遊びとは?

この章では「ティンカリング」という言葉も登場し,序章で紹介されていた「クリエイティブ・ラーニング・スパイラル」のプロセスをぐるぐると回していくのが得意そうな「ティンカラー」という存在にスポットが当てられている。ティンカラーはボトムアップなアプローチを得意とする人たちのことである。

対比する存在として,トップダウンなアプローチで,みっちりとより良く正しい方法で計画を立てて,一度で物事を済まそうと努力するタイプを「プランナー」と称している。

レズニック氏は,プランナーを否定しているわけではないものの,創造性と俊敏さを得るのはティンカラーで,予期せぬことが起こったときや新しい機会が生まれたときに有利な立場であるのもティンカラーだと考えていることを勘案するとティンカラー推しであることは明白だ。むしろ,一般の人々や教育者が,すべての科学者をプランナーだと誤解していることやティンカリングという在り方に懐疑的であることを,不思議に思っている。

「創造的思考は創造的ティンカリングから生み出されるのです」(237頁)とまで書かれれば,問題はその創造的ティンカリングを保障する条件や環境と,その評価ということになる。

このあとも,遊ぶ子供たちを「ドラマティスト」と「パターナー」とに種類分けしたり,ドウェック氏の2つのマインドセット(本書では成長型と固定型)について触れたり,学習者に十分な時間を与えることや各人のコンフォートゾーンを安心して踏み外すこと,間違いは作成過程の一部であることが触れられており,盛りだくさんだ。

学生たちは,なぜかアンネ・フランクのくだりが気になったらしい。

アウシュビッツを見学してみたいんだとか。そういえば映画「シンドラーのリスト」が25周年を迎えるタイミングである。それから何の偶然か,レズニック氏のMedium(ブログ)のアンネ・フランクに関わる記事のリンクがメールで舞い込んだりした。

ちなみに252頁の「留学生評価プログラム(PISA)」は,正しくは「生徒の学習到達度調査(PISA)」だと思われる。単なるチェックミスだと思うので,いつかは訂正が入るだろう。

20181214_Fri

専門ゼミナールでは文献講読。

ライフロング・キンダーガーテン』の第4章「仲間」を読んだ。全体の中でも重要な部分で,空間デザインや学習コミュニティといったキーワードが出てくる。

グラフィカルなプログラミング環境として知られるScratchの誕生秘話というか,何を目指して開発されていたのかが読めるという意味でも本章は興味深い。

168頁で「多くの人はスクラッチをプログラミング言語だと考えています。もちろん,間違いではありません。しかし,スクラッチに取り組んでいる私たちは,それ以上のものだと見なしています。」と書いており,「若者がお互いに,創造し,共有し,学び合う,新しいタイプのオンライン学習コミュニティを創造することでした。」と書いていることはもっと広く知られるべき箇所だろう。他にもスクラッチの名前の由来なども書かれている。

学習コミュニティのオープン性について,たとえば他の人の作品をもとに何かを作るリミックスという仕組みに関して,従前の学校だとそれは不正行為と見なされていることではあるが,スクラッチのコミュニティではむしろリミックスされることは誇らしいことだと思える文化を醸成しようとしていることなども述べられている。

発表担当学生が一番気に入ったというのが「気遣いの文化」という節であった。

学生が印象に残ったとした部分は…あるスクラッチユーザー(スクラッチャー)の子が「スクラッチコミュニティの良いメンバーであるとはどういうことか」という質問に対して返した答えが「最も大切なことは,コメントで『意地悪に振る舞わないこと』」だった点(184頁)。

さらに,スクラッチのモデレーターがコメントやプロジェクトを削除しなければならないときに説明する内容として「スクラッチャーは,他のスクラッチャーが自分は歓迎されていないんだと感じさせない限り,自分の宗教的信念,意見,そして哲学を,自由に表現することができます」という部分(190頁)。この「歓迎されていないんだと感じさせない」という箇所が特に関心を引いたようだ。

またこの章では「教え方」について,良いメンターが「触媒」「コンサルタント」「媒介者」「コラボレーター」といった役割の間を行ったり来たりしていることが書かれていたり,仲間がいるだけでも十分ではなく,「専門家」を必要とする場合もあることなども指摘されている。

ここで論じられている学習コミュニティにおける気遣い文化を考えるとき,日本文化の角度から見るとまた違う課題もありそうな気もするが,その点についてはまた機会をみつけて考えてみたい。

残業はWindowsに泣かされる。

たまに使おうとするせいだとわかってはいるが,いざというときにまともに動いてくれないのが困る。

20181207_Fri

専門ゼミナール。

ライフロング・キンダーガーテン』を講読中。私のゼミの学生だからといって必ずしもコンピュータに詳しいわけではないため,Scratch等のテクノロジーやプログラミングの話への敷居は低くないものの,それぞれ頑張って担当部分をまとめてくれている。

先回,第2章「プロジェクト(Projects)」の発表者は,「考える玩具」ではなく「考えさせる玩具」を…という部分に関連してクリエイティブ・ラーニング・スパイラルが興味深いと語った。ただ,「流暢に表現できる能力」という節部分(92頁)がよく分からなかったというので,それをみんなで議論して読み解いてみた。

たぶん文献の該当部分がプログラミングやコーディングの例をベースに記述されていることが,難しさを生んでいたのかも知れない。たとえば「コーディングには基本技術と表現力の両方が必要だ」という記述やそれに続く文章を読むと,「流暢さ」が何を指し示したいのか分かるようにはなっているはずだが,たぶん先制パンチを受けて確信が持てなくなっているのだと思う。

ゼミ生それぞれの得意とする物事に置き換えて考えれば,流暢さに続く「思考力」「声」そして「アイデンティティ」についてもなんとなく見えてくる。そうしたものを発揮するにもプロジェクトは重要なのだと考えられる。

今回は第3章「情熱(Passion)」について読んだ。

いろいろ興味深いキーワードが登場する章なのだが,先回と同じように印象的なところはどこだったか聴くと,「低い床」「高い天井」そして「広い壁」という喩えがあがった(118頁)。それから,「ハードファン(Hard Fun)」について触れたところの,教師や出版社の多くは子どもたちが「物事が簡単であること」を望んでいると考えて学びをより簡単にしようとしている(128-129頁)…という部分も印象に残ったらしい。

「情熱」という日本語だと,どうしても燃え上がるほど熱狂している様を想像してしまいがちだけれども,今回の章を読んで,それぞれが思い入れのある事柄をや互いの様子を共有し合って,他人からすると凄いことなのにどうやら本人は知らないうちに苦もなく続けていたり,取り組んでいることもPassionにあたることが見えてきた。

Passionを意識すべきかどうかは,もしかしたら文化的なものもあって,日本だと自覚しない方がむしろよかったりするのではないかとも思える。もちろん,自覚するメタ認知を働かせて,よい方向に調整できればよいとも考えられるが,日本だと気恥ずかしさがたってしまう可能性もあって,素直なメタ認知が発動しなくなってしまうかも知れない。

議論はそこまでいかなかったけれども,深堀すると面白いのかも知れない。

20181130_Fri

金曜日はゼミ一色の日。

卒業研究では,算数・数学アプリ開発で問題解説画面に表示したい立体図形の展開図で試行錯誤が続いていた。JavaScriptやcanvasタグあたりの情報を学びながら,参考になるサイトがないかどうかを探しているようだ。

イメージに近いものとして見つけたWebページについて報告を受け,参考にさせていただく以上連絡を取るべきであるとアドバイスして,そのサイトを学生と一緒に調べたら,なんだか見覚えあるデザイン。

サイトの説明を読むと,学習ソフトウェア情報研究センター主催のコンクールに応募入賞したと書いてある。私はそのコンクールの審査に関わっていたので,道理で見た記憶があるはずだ。『学習情報研究』を引っ張り出して,学生にその旨を共有し,丁寧にお願いするよう念押しをした。

専門ゼミナールは文献講読。

あれやこれやで遠回りをしていたが,ようやく学生たちの発表も本格的に始まった。