4月13日早朝に地震がありました。
まだベッドで寝ていましたが、ガタガタという振動とともに安アパートが揺れたので飛び起きてしまいました。
この地域は東南海地震に対して警戒をしていますし、18年前あった阪神大震災を経験していることもあって,短い揺れとはいえすぐに着替えて最低限の避難荷物を探し回りました。
ニュースで津波の心配がないことや,その後,構えていても余震は感じられなかったので、とりあえず平常モードへ。
その後,大学に出勤したら,さすがに一部の本や資料は散乱していました。
つっぱり棒のおかげで本棚がひっくり返ることはなかったのですが,積み方の悪い本の山はグラッとした痕跡を残していました。
ニュース報道には,震源近くの淡路島で液状化や亀裂があったとか,水道が止まった話などが出てきていますので,決して安心できる状況ではありませんが、とりあえず徳島市内は平穏な一日として時間が流れているように見えます。
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東日本大震災の日に東京でグラッと体験したので、用心には用心を,という気持ちが強くなってしまいます。
物入りの季節で,この春は少々懐が寂しいのですが,もう少し余裕が出来たら「つっぱり棒」を追加購入して備えたいものです。
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ぼちぼち年度替わり
昨年末のご挨拶で書いたように,りんラボは…
・フューチャースクール推進事業
・学びのイノベーション事業
・徳島県デジタルコンテンツ出前講座実施事業
・教育情報化の後先(教育情報化の歴史研究)
・教育フォルダTwitter(教育ニュース見出し収集)
・iOSアプリ開発
といった事柄を手がけている研究室でした。
2012年度が終わり,2013年度が始まります。お世話になった取組みにも一区切りがつくことになります。国と県の事業はともに終わりを迎えましたので,ようやくフリーの身となりそうです。
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「教育情報化の後先」は,地道に資料集めと基礎データの蓄積に励んでいます。まだ雑多な事象同士を関係づけて流れを描くまでには至っていませんが,基本となる年表づくりに力を入れることが大事かなと思います。
「教育フォルダTwitter」は,その出来事記録という点で立派な研究活動ではあるのですが,一方で教育情報を概観する便利ツールとしても役立っているようです。
現在のところ5700程度のフォローと400程度のリスト購読をいただいているので,合わせて6000程度のユーザーに情報をお届けしていることになります。
教育関係のニュースを拾っては,日付,タイトル,サイト,リンクという形式に揃えてツイートしています。ツイート履歴を閲覧できるTwilogサービスを使うと,簡易な教育情報データベースとして利用することも出来ます。
最近はFlipboardというアプリを使って雑誌風に眺めるのがいいかなと思っています。
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来年度は,Ruby言語が2.0になったのを機に,RubyとRailというフレームワークを勉強しようかと思っています。Webサービスを開発してみようかと。
教育系のWebサービスがいろいろ立ち上がってはいるのですが,ここは一つ自分もそういう世界を知るために挑戦してみようかと思う次第です。
手頃なデバイスも登場し,Web開発環境も充実してきて,道具立ては揃っています。あとは欲しいと思ったものを実現すればよいだけのこと。残りの人生でもう一回くらい冒険するチャンスをつくるため,仕込みをしておきたいと思います。
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とはいえ,ここ数年は外部の仕事にかまけて,足下のことが出来ていませんでした。いま一度,自分自身の身の回りに目を向けて,仕事に取り組み直したいと思います。
また今後ともよろしくお願いします。
Note Anytime 活用事例
徳島県上勝小学校での出前授業の様子をNote Anytimeのサイトでご紹介いただきました。研究室に開発者の皆様をお迎えしての楽しい時間でした。
MetaMoJi Note Anytime ユーザー事例
https://product.metamoji.com/ja/anytime/showcase/index.html
子どもたちの様子や作品はこちらのサイトでもご紹介しています。
デジタルコンテンツ出前講座(上勝小学校)
http://www.our-think.or.jp/digital/?p=1170
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Note Anytimeも着実にアップデートし,デジタルキャビネットの同期機能も学校で複数台が利用するのに都合よいように改良されています。
現在,Android版も開発の仕上げにかかっていて,これでiPad版,Windows8版,そしてAndroid版というクロスプラットフォームで利用できるアプリになります。デバイス混在環境でもデータが共通で利用できるのは学校利用において安心です。
まだまだこれから大きな動きもありそうなので,応援したいですね。
なぜ『ほんとうにいいの?デジタル教科書』は書き直されるべきか
歴史を遡るためには史料を漁ることが大事なのだけれど,史料があるだけで正しい史実が浮かび上がる十分条件にはならないことは,歴史学の素人でも分かっている。
自らの立場を明らかにしつつ,公正な議論へ開かれるように努力する方法論はいくつかあるとは思うけれども,少なくとも史料を丁寧に扱わなければならないことは不可欠だろうと思う。
丁寧に扱うという方法にしたって,寸分たがわずというやり方や、筋は曲げずというやり方など,様々あるが,いずれにしてもそのやり方で,論者への信頼や論の信憑性が左右されることも事実だと思うのだ。
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何の因果か,新井紀子氏の『ほんとうにいいの?デジタル教科書』(以下、新井本)につっかかる契機をもってしまい,少しずつ本戦のための準備をしている。
私個人はデジタル教科書なるものについての議論は、歴史や事実を幅広く整理し確認した上で展開され深められていくことを望んでいる。その上で建設的な見解や行動に結びつけることがベストだと考えている。
膨大な論点があっては、議論も拡散するとは思うが,だからこそ、論点の位置づけや論点と論点の関係性を整理し確認する必要がある。それも恣意的になる危険性もあるが,そのことへの配慮の仕方が論者への信頼や論の信憑性を左右するのだと思う。
そして、私が新井本に対して批判的なのは,冷静公正な議論のために執筆したと表明しながら,こういう部分について乱暴だということにほかならない。
もしこの本を入り口にデジタル教科書議論に参加しようとすると,間違った知識と偏った議論を踏まえて始めることになり,これを軌道修正するのにエネルギーが必要となり,本来の建設的な議論へのエネルギーが削がれてしまう可能性がある。
ただそれだけのことではあるが,そのことが契機となって私は新井本を批判的に検討する作業に関わることになってしまったのである。
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いったい新井本は何を間違っていて、何が偏っているのだろう。出だしの「はじめに」の1頁分だけで、この本の酷さが現われている。
○(2頁)「協同教育」
→【誤記】:正しくは「協働教育」。参照した資料に誤字があったのかも知れないが,少なくとも原口一博議員や総務省は「協働教育」という表記で進めていた。著者も編集者もチェックが甘い。
○(2頁)「この事業はいわゆる事業仕分けの影響もあり二年間で幕を閉じたが、現在も実証実験は続いている」
→【誤認と矛盾記述】:二年間で幕を閉じた事実はない。現在も続いていたらそもそも幕は閉じてないので矛盾した記述である。読み手が混乱する。
○(2頁)「明治以降、私たちは紙の教科書で教育を受けてきた。それがデジタルに置き換わるとするならば、(後略)」(中略)「そもそも、紙の教科書を今デジタルに置換える必然性はあるのか。」
→【偏った前提】:「置き換え」論は可能性として論じられることはあれど、「組み合わせ」論の方が大勢であり,どのように組み合わせたり,使い分けたり、遠ざけるべきかが議論されている。そのような議論の全体構図が示されず,「置き換え」論だけにふれて議論を進めるのはミスリーディング。
上の問題点は、まだかわいい方である。
この調子で、勢いに任せて論点が書き綴られていくのであるが,その勢いに面食らってほとんどの読み手は「批判的に書く=冷静な議論」だと勘違いしてしまうのである。
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勢いに任せて書いてしまったとする根拠はいくつかある。
○(36頁)「(オンラインサービスについて)このようなユーザ向けソフトウェアの開発目的は、教育ではなく消費にある。にもかかわらず、現在出回っている教育ソフトウェアの多くが、消費者向けのソフトウェアのインタフェイスを模倣している。そのことに、開発者の多くは残念ながら自覚的ですらないのである。」
→【乱暴な適用】:オンラインサービスの批判を「模倣している」とだけ書いて、教育ソフトウェアに適用しようとしている。模倣している事例があるなら明記すべきだし,すべての教育ソフトウェアに問題があるかどうかも書かずに「開発者の多くは自覚的ですらない」と書くのは乱暴ではないか。
○(54頁)「「光回線への需要喚起による「光の道」構想」という政策目標が「デジタル教科書」の出発点となったことは,教育にとっては不幸であった。光回線が必須であるような形態で「未来の学校」(フューチャースクール)の青写真を描かざるを得なくなったからである。」
→【勝手な価値判断】:なぜ教育にとって「不幸」であるのか理由が明記されてない。逆にどうだったら「幸せ」なのかも明記されていない。行間や続く記述を深読みすると推察することはできるが、それが不幸か幸せかで表現すべき事柄なのか疑問である。
35〜36頁あたりの記述は,NetCommonsという情報共有基盤システム(コンテンツ・マネジメント・システム)を開発者と一緒につくった人物とは思えない配慮の無さである。もしかして自分が作ったシステムにはそんな問題がないと自信を持っているのか,あるいは開発者と一緒の仕事で意思疎通に困難を感じたことの表われなのか,それこそ余計な詮索を誘ってしまう。
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デジタル教科書に関する議論部分についても様々あるが,それは本戦にとっておくとしても,こういう調子で議論を進めていたら,正しい正しくない、メリット・デメリットとか以前に、冷静で公正な議論に入りづらくなってしまう。
だから私は、新井本こと『ほんとうにいいの?デジタル教科書』に批判的なのである。
新井氏は数学者なのだから,こういう文章構造も美しくない著書を出すことになって、内心は苦々しく思っているのではないかと私などは推察するのだが,その点も含めてこの本は書き直されなくてはならないと思う。少なくとも収められている論点自体は重要なものもあるのだから。
岩波ブックレットの最終頁には「「岩波ブックレット」刊行のことば」が常に掲げられている。
「(前略)現代人が当面する課題は数多く存在します。正確な情報とその分析、明確な主張を端的に伝え、解決のための見通しを読者と共に持ち、歴史の正しい方向づけをはかることを、このシリーズは基本の目的とします。」
いま一度、新井氏と編集者にはこの趣旨を思い出していただき,正確な情報と明確な主張でこのブックレットを書き直していただきたい。それに見合う何かを発信するでもいい。
(「教育らくがき」20130225より転載)
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そして、〈デジタル教科書〉関連本の件である。
2010年頃から賑やかになってきたテーマであるから,それに関連する書籍がいくつか出版された。関心の高い問題にいろんな文献資料が登場することは好ましいと思うが,問題を抱えたものもある。
特に私は次の2冊については、問題が大きいと考えている。
○中村伊知哉・石戸奈々子『デジタル教科書革命』ソフトバンククリエイティブ2010
○新井紀子『ほんとうにいいの?デジタル教科書』岩波ブックレット2012
この2冊の著者達は〈デジタル教科書〉に関する動向の中枢に関わる当事者でありながら(であるからこそかも知れないが…)、劣悪な著作を活字として世に出した。
何をもって「劣悪」と書くのかといえば,先々の時代に過去の文献資料として参照された場合、信憑性のある資料としての価値を大きく落としているからである。
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たとえば、中村伊知哉氏と石戸奈々子氏の著作は、他者の著作物の一部を無断引用した疑惑を抱えている(関連情報)。この事実に対して釈明などがないまま著作は絶版化し、図書館などに所蔵されたものが閲覧できる状態にある。
当世の読み物としての価値を重視しただけなのかも知れないが,デジタル教科書に関して理解を得て推進しようとする立場の人間が、このような中途半端な著作の放置の仕方をするのは褒められた姿勢ではないし,記録として残る文献資料としては信頼性に大きく欠けることになる。
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新井紀子氏の著作は、上記のような問題はないものの、著者自身が謳っているような平等な議論の理解をしようとするには、大小多くの問題点が含まれている。
この本を「あるデジタル教科書懸念派の数学者が書いた問題提起」と割り切って読めば,それほど大きな問題ではない。その偏った問題意識も乱れた文章展開も、懸念と批判のためであると明らかであれば、読み手はいくらでも調整が可能だからである。
しかし新井氏は、あくまでも論点をまとめサイトのように分かりやすく提示しているだけだと主張し,自分自身は当事者ではなく中立な第三者な風を装っている。これでは、記録として残る文献資料として後世の人々を欺くことになってしまう。
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過去の文献資料を調べる作業をしている身としては,このような記録の残し方がとても腹立たしく思えるのである。こんなことは、現在の私にとって損得にはならないが、未来の私と同じ作業をする人間にとっては面倒な苦労になる。そう思うと恥ずかしくすら思う。
一般書に対して何を怒っているのかと思われるかも知れない。昔の一般書だって正確さや出来に関して褒められるものが多いわけじゃない。そもそも一般書ってそんなもんじゃないと割り切ることが自然なんだと多くの人が思っているだろう。
私もそれがジャーナリストや作家や編集者が書いたものなら、目くじら立てる気もない。斉藤貴男が『世界』誌の連載でフューチャースクール実証校の数を間違えて記述したとしても,別にそんなの気にしない。
けれども、この3人はそろいも揃って研究とか大学とかと深いかかわりにあり、デジタル教科書に関しては主要なアクターという当事者の立場にある人間である。そういう立場にある人間が,印刷書籍においてこんな乱暴な仕事をしていることを、受け手である私たちが腹立たしく思わず、他に誰が腹立たしく思うべきなのか。
私はこの3人に猛省を促したいし、この2冊の著作について無批判に扱っている人間に対しては、その真意を問うなど厳しい態度をとらざる得ない。
(「教育らくがき」20130226より抜粋)
いま何が起こっているのか…
2012年師走も残る日数が少なくなりました。
クリスマスの日、東京大学BEATメールマガジン「Beating」に私のインタビュー記事が載り、Webサイトにフューチャースクールの様子紹介を含んだ全文が掲載されました。
Beating 特集 「いまどきのミレニアムキッズ」特別編
林向達先生(徳島文理大学/准教授) ロングインタビュー
「日本の初等・中等教育における教育情報化の現状と課題」全文
http://blog.beatiii.jp/beating103_note.html
どこかで読んだことのある内容をパクって話してるだけなんじゃね〜か?と感じるプロパーな皆様には大変物足りない内容ではありますが、クリスマス放談ということで3時間も自由に語らせていただいた結果です。
要点は「歴史的な観点と世界的な観点から私たちの立ち位置を見直して理解を深めないといけませんね」ということ。そのためにも,教育の情報化の問題に取り組むことは大切である…と言いたかったわけです。
教育の情報化が大事なのは,私たちが歴史的にも世界的にも自分を見直し育んでいくためであると言い直した方が良いでしょうか。他により良い代替があるなら,それを否定するものではないですし、共存或いは競争して切磋琢磨するまでです。
多くの人は「私」が歴史的・世界的にどうあったり生きるかに関心が小さいので,漠然とした感覚で処理する人も多いのですが、「私たち」(社会)にとっては大問題なので、そのことを1,800もある地方自治体単位で理解してもらわないといけない。でも,説明説得するための材料も人材もぜんぜん足りないじゃん…という苦言を呈しているのがインタビュー前半というわけです。
とにかく,教育の情報化を歴史記録や調査結果などを踏まえて議論できるよう,またその議論が散逸せずに交わるよう結びつける努力も合わせて取り組んでいかなくてはならないと思います。
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フューチャースクール推進事業は,自民党政権から民主党政権に交代したのを機に始まりました。気がつけば政権は再び自民党へと戻ることになりましたが、事業自体はあと残りの1年間,最後まで継続できるのではないでしょうか。
『世界』2013年1月号から短期連載「デジタルは教育を変えるか」が始まったようです。筆者は,ジャーナリストの斎藤貴男氏。
初回は「電子黒板のある教室」と題して,フューチャースクール実証校の一つである大阪府箕面市萱野小学校への参観や取材をベースに,まずはICTを取り入れた学校がどうなっているのかを描いくことから始めています。途中,何か言いたげな部分は出てきますが、元総務大臣の片山善博氏や「『デジタル教科書』推進に際してのチェックリスト」に関して日本物理学会理事の三沢和彦氏に取材するなど,基本的には淡々と現状を書き綴っています。
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デジタルと教育のことを考えたり議論したことがある人々からすれば、教育を変えるのはデジタルではないという結論は分かり切ったことです。
一定の模範的な手続きで生きていくことが困難な世界になった以上,多様で複雑な条件を前提に自らの最適解を見出す生き方に長けていかねばなりません。あるいはその前提条件をひっくり返す力量や戦略を学ばなければなりません。そのために教育が変わらなければならないとすれば、実に様々なことを変化させなければなりません。
その入り口を,教育改革と銘打って制度的な変化から取り組むのか、学校改善と銘打って経営や施設等の変化から取り組むのか、授業改善と銘打って教育方法や実践の変化から取り組むのか,教育の情報化と銘打ってICT活用や校務の変化から取り組むのか…いずれにしても入り口一つ選んで終わるわけではない以上,どの手段も等しく重要であり、等しく断片でしかありません。
その上で,私は教育の情報化を入り口にすることが,教育へ変化をもたらす効果が高いのではないかと思い,この界隈で活動しています。
教育の情報化議論をするとデジタルにのみ込まれて終わるような印象が先行してしまいがちですが、デジタルをどうバランスさせながら教育の場に生かすのかこそ,この問題において重要な論点だし、そのためにどんなリソースとサポートが必要なのかを教育の実践と平行して未来永劫問い続けなければならないのです。
わりと誰もが好きな「黒板」も,教科教育や教授法の中で,「授業でどう板書すべきか」が延々と研究や議論されてきました。
「ICT機器」の場合も,これから教科教育や教授法の世界で「授業でどうICT活用すべきか」が延々と研究や議論されることになるでしょう。それを先送りする余裕はなくなりました。ここで腹を決めて取り組むことが必要だということです。
デジタルが教育を変えるのか?
この乱暴な問いが生まれてしまう背景にある漠然とした不安が明確にされ、デジタルとのよりよい向き合い方を見出すのに役立つ示唆が,『世界』の連載から示されるといいなと期待しています。
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2012年12月19日にDiTTシンポジウム「地域から広がるデジタル教科書~先端自治体が描く未来~」があったようです。ニコニコ生放送でも中継されたので鑑賞しました。
デジタル教科書教材協議会(DiTT)の活動報告とパネルディスカッションという構成でした。視聴した感想としては,大風呂敷を広げ,構想をいろいろぶち上げ賑やかだった立ち上げ当初に比べると,現実に即して堅実に活動を進めた一年だったのかなという感じです。
学習者用デジタル教科書に関しては,2015年目標で実現することが困難なのは明確になってきたので、著作権に関わる問題などを解決する法案の検討作業とか,様々なメーカーが参戦できて利を分け合えるためにも標準化の作業を進めたり,賛同してくれる著名人や自治体を増やすなど,わりと地道な作業に着手しているという報告。
後半は,先進的な取組みをしている自治体の首長や教育センター長,文科省の大臣官房審議官と総務省の政策統括官が登壇してのパネルディスカッション。
確かに物事を決めるのに重要なポジションにいる方々なので、キーマン達であることは間違いないのだけれど,積極派ばかりだから話は簡単「決断するだけ」と問題を一蹴。あとは他の自治体に広めるためには様々な事例を出して真似したくなるように煽ることが大事というシンプルな結論に至ってました。
1,800もの地方自治体を説得するのに,教育の情報化に関わる若手やコミュニティを増やさなくてはならない,繋げなくてはならないと私が考えているのも同じ発想なので、パネルディスカッション全体には異論なし。
結局、DiTTのような団体の大きな問題は,教育分野に対する理解が深まっていなかった人々が「デジタル教科書」というキーワードだけでドンチャン騒ぎしながらやって来て、あちこちぶつかりながら渋々学習していく様子に,こっちが付き合わされていたことに起因する苛立ちや面倒くささにあるのかなと思います。
いわゆる著名人グループと業界繋がりの人々によってコミュニティをつくって活動展開することは悪いことではないのですが、そういう人は雲の上の人たちなんですよね。
たとえばパネルディスカッションに登場する文科省の大臣官房審議官という方は,政策決定に近い人ですが、実務を担当しているような局や参事官付とは違う立場の人なので,どこか縁遠さがあります。その代わり著名人の人たちと仲がいいわけです。
「DiTTが何か活動している」とか「文科省の人が何か発言している」とかは,一般の人からすると何か事態が動いているように見えるのかも知れませんが、それが現実的な部分と繋がるには一段も二段も手続きをかいくぐってこなければならないのだというくらいの距離感で見ていただいた方が事実に近いのだと思います。
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でも,どうやら雲の上の人たちは,平成26年度以降にも何かしら教育分野の情報化事業を予算化できないか考えているようです。
自民党政権になりましたから,たとえば「デジタル・ニッポン」戦略に沿うように復興に焦点を当てた教育の情報化を優先する形のものが出てくるのかも知れません。
フューチャースクールでも防災対策や避難時のネット環境確保などが実証の課題に挙がったりもしていましたから、それをより推し進める形も可能でしょう。
とはいえ,正直なところ,新しい政権が具体的にはどのような体制で今後の日本を運営していくつもりなのか,まずは見定めることが先決なのかも知れません。