テクノロジーへの依拠と無縁

日本のインターネット利用が一般社会で始まって20数年経過しました。仮に1995年を基点と考えれば24年ということになります。

メディアの普及にかかる年数(Consumption Speeds)については,あれこれ調査研究がありますが,大概のものは30年も経過すれば普及率8割9割といった「当たり前のもの」になっているというのがこれまでの知見です。

たとえばインターネットに関しても,あと5年くらい経てば「当たり前のもの」と言える…なんてことを待つ必要がないほど,今日の私たちの社会生活はインターネット基盤の存在を前提に成り立っていることに異論を唱える人は少ないと思います。

ただ,その現実をすべての人が認識する立場にあるかと問われると,直接的にインターネット基盤と関わらなくて済む仕事もあるでしょうから,インターネットテクノロジーに対する印象が俗にいう〈ネットの世界〉といったプライベートな娯楽世界の印象に引っ張られてしまうのは致し方ないのかも知れません。

また,日本は1980年代から高度情報通信システム(INS)構想といった先行する取り組みが華々しく喧伝されながらも多くの日本人の実生活になんら届けられなかった経験をしているため,技術で何かができるという期待感よりも,サービスとして現実に提供されているものを享受する姿勢が強化されていったのだと推察されます。

サービスや消費財を介してテクノロジーの恩恵を受けることはあるけれども,テクノロジーが社会や生活をより良くしてくれているという認識があるわけではない。だから,テクノロジーが使えないことで自分の生活が成り立たないとは思っていない。ただし,具体的なサービスや消費財が利用できなくなると社会や生活で困るとは思っている。

日本人のテクノロジー観はだいたいこんなものだと見立てられます。

そういう日本人が,ある意味ではもっとも目の肥えた消費者であると世界中から思われているのもさもありなん。テクノロジーがいくら高度でも,プロダクトの完成度という点で満足できなければ消費者としての日本人は納得しない。それもまた一つの特徴なのだろうと思います。

ただ,大半の消費者日本人を守るために国が発展を続け,制度も規則も慣習も枠組みとして出来上がってしまうと,枠を超えたものを創ろうとする人々にとっては能力を発揮し難い国になったのでしょう。

あらためて,そんなことを書き留めてみたのは,蛯原健『テクノロジー思考』(ダイヤモンド社)を書店で見かけたからでした。

正直,「ナントカ思考」はもう食傷気味だったのですが,「テクノロジー思考」という言葉で技術の価値を理解する必要があるという趣旨は重要だと感じました。

日本は技術の国だというスローガンのような言葉がありましたが,そのことを超えては,日本の技術のことも,世界の技術のことも考えたり知ろうとしなかったのではないか。深く依存しながらもテクノロジーに対して思考停止という無縁状態を維持し続けてきた日本人の距離感覚がいま各所で危機的状況を招いていると思います。

巷のSociety5.0(スマート社会)の話は,4.0(情報社会)を経たうえでのお話ですが,あらためて情報通信技術がどれだけ社会生活と密接に関わっているのか,個々人のテクノロジに対する認知を高め,理解を深めることが必要なのだろうと思います。

「教育クラウド活用と今後の展望」

岡山県教育センター主催のタブレット端末の授業活用研修講座に招かれました。公開授業の参観と講演を依頼された形です。

今回は教育センターにとって出張(サテライト)研修という扱いになるようで,岡山県立林野高等学校を会場として借りての開催でした。場所は岡山県美作市(みまさか市)。岡山三名湯のひとつ「湯郷温泉」があるところです。

岡山県立林野高等学校は,生徒数379名,教職員数64名という規模の普通科高校ですが,2年次生以降は「特進〈Ⅰ〉」「特進〈Ⅱ〉」「特進〈Ⅲ〉」「スポーツ探究」「地域創造」という5類型から選択して学びを深めていく特色を持っています。平成29年度後半には,生徒各自がChromebookを所有した上でアクティブ・ラーニングに取り組んでいて,タブレット端末研修にはうってつけの会場というわけです。

今回の研修対象は小中高・中等教育学校・特別支援学校の先生方。実際には中学校の先生方の参加が多かったそうです。先進的な取り組みの概要を聞いたり,実際にタブレット端末(Chromebook)操作体験し,活用している授業を参観しながら理解を深め,最後に私の話を聞くという構成でした。

お題の「教育クラウド活用と今後の展望」で話したこと。

徳島からやって来たので,徳島のことをお話することにしました。上勝町の「葉っぱビジネス」でタブレットを活用するおばあちゃんたちの話。神山町の「サテライトオフィス」でブロードバンド回線を利用した遠隔業務をしている人々の話。Society 5.0とか言われる前から行なわれていた取り組みの方が,わりと話としては伝わりやすいように思いました。

そして定番として,クラウド活用に至るまでの技術進歩の歴史をお話しながら,その特徴を1人マルチアカウント時代だとご紹介するあたりも,いろんなサービスやアプリの利用に伴って登録している情報を考えてもらうことで理解していただけたのではないかと思います。

デバイスの活用がすべてではないという観点で,最近あちこちで話題になる「タキソノミー」についても触れました。タキソノミーそのものというよりも,たとえばマーク・プレンスキー『ディジタルネイティヴのための近未来教室』(共立出版)で触れられている「動詞スキル」と「名詞ツール」といった考え方に表れた,(行動)目標を分解して動詞的に理解する捉え方について紹介しました。

あとは,実際に私自身がG Suite for Educationでどのようなどのような活用をしているかをご紹介してました。たとえば完全にクラウドで何でもやるというよりも,一歩手前のアナログ的な活用との組み合わせについてご紹介。たとえばスマホのカメラや書類スキャナーを使って,紙のワークシートも利用しながら情報をデジタル化する方法などです。

最近,サービスがリニューアルされた「Plickers」も実際にコードを配布して体験してもらいながらご紹介しました。児童生徒の1人1台環境がすぐに構築されないとしても,先生側のツール活用次第で面白いこともできるということをご紹介するためです。やってみたくなればしめたもの。

最後は「わかる」とは分かっているもの動詞が結びつくことであるという話と,さらに様々なものがデジタル化されていくことをご紹介しながら,まだまだこれからたくさんの失敗や試行錯誤を繰り返して,情報時代.デジタル時代の学校教育を積み上げていかなくてはなりませんねと締めました。

20181008_Mon

体育の日で祝日。

ニコラス・G・カー『クラウド化する世界』(翔泳社)を覗く。

コンピュータネットワークにどっぷり浸かった日常を,もう一度,その始まりから考えたいと思って開いていた。

ちょうど10年前,2008年の著作。原題は”THE BIG SWITCH”(大転換)であり,様々なソフトウェアがネットを介したサービスとなっていく流れの幕開けを記録した本である。カー氏は『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』※(ランダムハウス講談社)や,『〜・バカ』という邦題を付けられてしまう著作をあれこれ書いている人だ。(※『もはやITに戦略的価値はない』という電子書籍になっている。)

気になった部分。

「技術と経済の相互作用が最も明らかに見ることができるのは,社会に不可欠な資源が提供される方法に変化が起きるという,ごくまれな機会である。」「その他の重要な多種多様な資源−−水,輸送,文字,政治組織など−−の供給が変化したことは,社会を形作る経済的取引をも変化させた。百年前に人類は,テクノロジーが人間の身体的能力を超える瞬間に到達したのである。そして今日,我々は同様に,テクノロジーが人間の知的能力を超える時を迎えている。」(27-28頁)

カー氏は,人々の技術進歩の受け入れを,経済の問題として語る。

私たちが電化について,電力インフラを構築した世の中を受け入れたのは,「経済的な力の帰結」と指摘する。これと同じ事が情報化についても起こっているとカー氏は述べているし,実際,私たちはそうやってインターネットに支えられた社会を受け入れている。

「クリックがもたらす結果が明らかになるまでには長い時間がかかるだろう。しかし,インターネット楽観主義者が抱きがちな希望的観測,すなわち「ウェブはより豊かな文化を創造し,人々の調和と相互理解を促進するだろう」という考えを懐疑的に扱わなければならないのは明らかだ。文化的不毛と社会的分裂もまた,等しくあり得る結果なのだ。」(199頁)

経済という観点から電化と情報化を類似的に見ることは容易であっても、文化的な観点から考えた時には,かなり異なる影響のしかたをする。その後に続くカー氏の一連の著作(『〜・バカ』)が,それを掘り下げてたものになっていることも興味深い。

結局,私たちは何をして生きたいのか。そういうベタな問いに戻ってしまった。