プログラマー「を」育てる教育を

小学校にもプログラミング体験を導入することとなった新たな学習指導要領のもと、学校教育でコンピュータを学ぶ体系的な教育実践が求められています。

情報教育という取り組みは、「情報活用能力」の育成を目指すものです。コンピュータを学ぶということは、情報教育の一部「情報の科学的な理解」に位置づく包含関係にあると考えられます。

またプログラミングは、コンピュータについて学んだことを活用するという点で情報教育の「情報活用の実践力」に位置づけることができ、プログラミングによって生み出した成果が社会に影響を与えると考えれば情報教育の「情報社会に参画する態度」を養うこととも無関係ではありません。

そう考えるとプログラマーは、「情報教育」の目標を極めて高度に体現した存在と言えます。

「プログラミング教育」(プログラミング体験・学習)について語るとき、私たちは注意深くあるべきだと思います。暗黙のうちに抱いているステレオタイプ的な見方を排して、フラットに語れるように間口を広げておくことは重要だからです。

だから小学校段階でのプログラミング体験について人々が語るとき、その取り組みは「コーディングを学ぶことではない」「プログラミング言語を学ぶことではない」「現職の先生たちはプログラミングの技術的なことは学んでいないのだから技術的なことは扱えない/扱わない」「コンピュータ機器等の整備格差があるのだからコンピュータ機器等を使わない方法も必要だ」といった注釈を伴うことも少なくありません。

結果的に小学校段階の学習指導要領やその周辺の語り口は、最大公約数的なところに落ち着くように配慮が働きます。プログラミング体験が「論理的思考力の育成」に軸足を置くのはそのためです。その方が間口が広いからです。

中学校・高等学校に進学し、さらにコンピュータの専門性の高い学習へと進むようになれば、そこで将来的な職業と学校での学びを結びつける際、プログラマー(あるいはIT人材)を目指す子供たちも増えるだろうという組み立てになります。

小学校段階のプログラミング体験と中学校・高等学校段階でのプログラミング学習という流れ。組み立てとしては分かりやすい一方、この組み立ては「悠長」としてないか、という指摘は一つの論点かもしれません。

現状、小学校段階で想定されているプログラミング体験は、「すべての人がプログラマーになるわけではない」という理由で、プログラミング言語や技能を学ぶことは目的としない代わりに、論理的思考力を育成することで「情報の科学的な理解」部分を代替し、社会がコンピュータで支えられていることの理解にもとづいて身近な問題に取り組む「情報活用の実践力」と、コンピュータを上手に活用することでよりよい社会を築こうとする「情報社会に参画する態度」の3つが目指された「情報教育」の営みとして描かれています。

ただ、小学校段階のプログラミング体験が論理的思考力の育成色を強めれば、仮にコンピュータを学ぶ機会の確保が十分できなかった場合、中学校・高等学校でのプログラミング学習との結びつきは期待するほど太くならない可能性もあります。そもそも中学校と高等学校のプログラミング学習にもその充実には課題が山積しています。

この話は、「すべての人がプログラマーになるわけではない」という路線を選ぶのか、「すべての人がプログラマーになること」という路線を選ぶのか、という選択の問題とも関わります。

すべての人がプログラマーになる世の中なんてあるはずがないと、鼻で笑われるかもしれません。

ただ、情報教育の目標を高度に体現した人がプログラマーであると考えることができるなら、私たちはプログラマーという意味をもう少し緩やかに捉えた上で目指してよいことになります。

それに「すべての人がプログラマーになるわけではない」という選択肢が、消極的な理由(エクスキューズ)として使われている、どこか後ろ向きな忖度感を抱かせることが残念な気もします。

小学校段階の教育は、特定の職業に結びついた特化した内容を学習することが目的ではありません。とはいえ、情報活用能力が言語能力と並ぶ教科の枠を超えた資質・能力の一つであると位置付けられ、情報教育の取り組みが強く求められていることを考えたとき、その高度な体現者であるプログラマーがこの日本にはもっと必要だと考えることは、決して不自然なことではないと考えます。

その場合の「プログラマー」は、特定の職業ではなく、数理系に偏るものではなく、高度な情報活用能力の体現者であると人々に理解されていくことが必要になります。それを働きかけていくのが社会に開かれた学校の役目となります。

そのことができるのであれば、さらに小学校段階でプログラミング言語や技能を扱ってもよいと考える。それを、直接的には言えない文部科学省の代わりに、いまは総務省や経済産業省が(つまり文部科学省の言外で)そのことを強く発信してくれているのだと考えるべきでしょう。

現状、プログラマーの人たちはそのようなタイプからは程遠いかもしれませんし、日本におけるプログラマーの職業事情は必ずしも幸せでない部分も多く、職業として勧めることが憚れている風潮もあります。

そう考えるとプログラマーと教員というのは、似ている部分もあると思わないではありません。どちらも日本という国での働き方をもっと考え直さなければならないし、社会的な認知や印象も向上さなくてはなりません。

「すべての人がプログラマーになること」を目指すという言葉のもとで、プログラマーという言葉にもっと前向きな意味合いを込めて世の中へと送り出す、そう社会に胸を張って主張していけるような教員へと変身することも含めて、新しい学習指導要領と新しい学校教育に取り掛かりたいものです。

「プログラマーも育てる教育」というよりも「プログラマーを育てる教育」を考えてみることから見えてくるものがあるかもしれません。

学校は知識リソースにアクセスできているのか

物事を調べるには,手始めにインターネット上で情報検索(探索)をします。

Wikipediaはもちろんですが,Twitterを検索すると注目度の高い情報を見つけられます。ネットワーク上にすべての情報が存在するわけではありませんし,偏りがあるかも知れませんから,検索結果で立ち止まることはできません。それでも手がかりを得るにはネット検索という方法は強力です。

位置付けは変わってきていますが,印刷媒体の重要性は今も昔も変わりません。

教育機関にとって図書施設・部門が最も重要であるという認識も変わっていないはずです。分類された豊富な文献資料に接する(アクセスできる)ことは,人の権利であり,私たちが市民として,またそれぞれ属する分野の専門家として,生きていくために必要不可欠な活動です。

最近懸念していることは,提供されている教育関連の知識リソースの少なさです。

またそれ以上に,教育関係者による知識リソースへのアクセス機会の乏しさを憂います。

論理的思考力のたくましさによってカバーできる部分があるとしても,思考対象となる素材に不用意な制約があることは,必ずしも望ましい状態とはいえません。

たとえば学校に,教職員が利用することを前提とした文献資料を十分備えた施設はあるのか。

学校図書館(学校図書室)」として知られている施設は,児童生徒と教員が利用することを前提にしています。しかし,施設や図書の充実度は学校や地域によって様々で,ましてや教員が利用することを視野に入れた目録が充実させられているところは大変限られていると思われます。

先の学習指導要領の改訂に伴って,答申解説書,学習指導要領新旧対象解説書,各教科毎の解説書,さらに研究書や先行実践事例書などが市販されますが,それらを各教員のために取り揃えてくれたり支給してくれる学校や自治体があるなんて話を,私は聞いたことがありません。

つまり,学校の先生方が職場から与えられるのは教科書と教師用教科書など最低限のリソース。それ以外は先生方の自費で購入しているのです。

先生が教育図書を自費購入することは,ビジネスマンがビジネス書を自費購入するようなものだと考えるかも知れません。しかし,本当にそうでしょうか。

その役目が伝達であろうが支援であろうが先生は,知識を媒介して学習者の成長に関わる職業です。その仕事の本丸とも言うべき知識リソースへのアクセスが保証されない条件で,複雑高度化する社会に応える教育活動をどうやって実現するのか。

ビジネスマンに商材がない商売をしろと言うに等しい,実に滑稽な話です。

校内研修や授業準備検討会の場で,先生達が机の上に広げる資料の数がどのくらいか想像したことはあるでしょうか。その場にパソコンやタブレット端末があって利用されていると思われるでしょうか。

すべてのケースがわかっているわけではありません。

しかし,関連図書を積み上げてあれこれ参照したり,パソコンでネット検索をしながら検討会をしているという様子が主流になっていないことはわかります。

場合によっては,教師用教科書のみを囲んで授業内容を考えていたりします。経験がカバーするから,それで十分だとされるのです。

ただ,少なくとも平成29年3月告示の学習指導要領のもとでは,知識リソースへの乏しいアクセスと経験によるカバーだけでは通用しないと,私は考えます。

そのためにも,教職員にとってリッチな知識リソースへのアクセスが保証されなければなりません。

余談ですが,教育の情報化や教育ICTに関わる事柄で,私が大変不満に思っていることは,官製情報による寡占状態が起こっていることです。

もちろん,新しい学習指導要領が成立する過程で行なわれた議論の内容や示された方針などを全国の学校関係者,および世間一般の人々に周知していくためには,統制された官製情報を強力に発信していく必要があります。

発信される情報が不統一で説明の度に食い違いが起これば,周知どころか誤解と混乱を招くことになります。その点で,官製情報が正確に流布することは大変重要なことです。

その上で,官製情報だけでなく,学術情報を始めとした多様な知識に触れることで知的活動が豊かになったり,健全な議論の土壌が生成できるはずです。

しかし,このところは官製情報を参照することから抜け出せていないリソースばかりが目に付きます。官製情報のまとめやキュレーションといった感じです。

困ったことは,研究者などの有識者によって書かれたり語られたりした情報リソースも,有識者自身が官製情報の生成に関与していたり,国家行政に関わっている人であることが多いため,結果的には官製情報発信の一部になっていることです。

たくさんあるようでいて結局は同じ内容でしかない知識リソースと,いろいろな事情があるにしても結果的には乏しいアクセス。

本当にこれでよいのでしょうか。あるいは,もっと巻き戻して考えていくべきことがあるのかも知れません。

現在の記録と発信が未来の情報

私が学際情報学という学問を学んでいたとき,アーカイブについて勉強する機会がありました。

資料の保存と公開,そのための管理。

それがアーカイブというものの漠然とした説明になりますが,私はその奥深さの一端を垣間見て,専門家には程遠いとしても,その行為や活動の重要性を尊重しなければならないと思ったのでした。

いま,りん研究室が取り組んでいるのは,教育と情報の歴史です。

歴史資料の蒐集,整理,分析を行ない,現在と今後への示唆となる考察を加えていく活動を柱としています。基本的に過去を追いかけています。

しかし,過去を追いかけるためには資料が必要になります。記憶だけでは無理です。

過去に資料が作成されて保管され,現在の私たちが資料を入手し参照することで,初めて過去を追いかけることができます。人間の記憶も,何かしらの資料として記録されていなければ,忘れられてしまうか,そうでなくとも呼び覚ますことが難しくなります。

資料の保管と公開。

歴史を追いかける活動にとって,それがどれほど重要であるか,調べ事をするたびに痛感します。

過去を扱うのはとても難しいです。

分析や考察の際,何を拠り所にするのかという問題と,どう解釈するのかという問題とそれらをもとに何を示唆するのかという問題が複雑に組み合わさるからです。

たとえば,残された情報が無かったり少な過ぎても困るし,逆に多すぎても困ります。一次情報(primary source)と二次情報(secondary source)の扱いにも注意は必要です(世の中には三次情報 tertiary sourceという言葉さえ出てきています)。

たとえば,記録された情報をポジティブに読みとくのか,ネガティブに読みとくのかで,過去の見せ方が変わり得ます。

たとえば,過去の歴史事象を踏まえて,肯定的な示唆や助言をするのか,否定的な示唆や批判を加えるのかも選択次第です。

資料があれば,すべて解決されるわけではない。これも肝に銘じなければなりません。

私自身,いま生きている日々の出来事について,分かっていると思い込んで,あえて記録や発信することを面倒くさがったり,後手に回したりすることがあります。

しかし現在は過去に移行して,磨りガラスの向こう側へと移ってしまうことに気づきます。まだ見えているつもりでも,確実に遠ざかり見えなくなっていきます。そうなってからハッとして記録を残そうとすることを繰り返しています。

確かにこの界隈では「ポスト・トゥルース」「オルタナティブ・ファクト」「フェイク・ニュース」といった言葉が飛び交い,日本の私たちも「風評」や「デマ」や「虚偽」や「誤報」といった言葉に悩まされ続けている毎日です。過去だけでなく,現在をつかまえるのさえ難しく感じます。

情報があれば,すべて解決されるわけではない。これも肝に銘じなければなりません。

 

それでも「今日の記録と発信が明日の情報になる」のだということ。

 

そのことを,今日という日にあらためて思うのです。

20150930 岡山県新見市教育情報化推進協議会

 岡山県新見市で教育情報化推進協議会が開催され,外部識者として会議に出席しました。

 文部科学省「ICTを活用した教育推進自治体応援事業(ICTを活用した学びの推進プロジェクト)」の「ICT活用実践コース」に岡山県新見市が採択されたことで,私にご依頼いただいた次第です。

 新見市は,これ以前から総務省「ICT絆プロジェクト」「フューチャースクール推進事業」および文部科学省「学びのイノベーション事業」を利用して市内の小中学校を実証校として学校の情報対応を試みてきた地域です。

 フューチャースクール実証校巡りをしていた私は,iPadを導入機器として選んだことでも話題となった新見市立哲西中学校にお邪魔をしたことがあり,2度ほど新見市に足を運んでいました。そんなご縁もあって,今回,外部識者としてお声がけいただきました。

 昨年には,新見市内6校の中学校に1人1台のタブレット端末が配布されました。

 先行して実証実験に取り組んでいた哲西中学校での成果を踏まえて,「ネットワーク環境」「1人1台タブレット端末」「教室の端末とIWB」「ICT支援員」という4点セットが重要性であるとして他校も整備したそうです。

 現時点で,各校の進捗は様々で,先生方のスキルや意識を醸成しながら,各校のテーマに沿った取組みを加速していくことが求められているようです。

 また対外的には,端末導入による成果を具体的に提示することが求められていて,端的に「学力向上」に結びつく何かしらの数値を求める声も強いのは,関係者として悩ましい課題です。もちろん,今回の新見市の事業は,学習指導の質の向上を通して,その先の学力向上を目指しています。とはいえ,決して小さくはない予算を使っての取組みです。分かりやすい成果を必要とする世界が隣り合わせていることは,どの地域の取組みでも同じことだと思います。

 ただ,ICTの効果に関して,次のように記している文献があります。

「(前略)学習に対する「ICT」の効果に関する議論は、あまりに曖昧で広すぎる。それはまるで、学校教育における本の効果はどのくらいかを尋ねるようなものだ。もちろん、それは本自体に左右されるし、読みのプロセスや学習者、そして期待される成果によっても異なる。同様に、コンピュータ代数システム(CAS)や補習用数学ソフトといった数学のソフトウェアで学習するのと、非同期型学習ネットワーク(ALN)、電子書籍、SMS、Google、コンピュータゲーム、知的認知システム、あるいはWikipediaなどを併用して学習するのでは違う。この点について、エビデンスに基づきながら導き出せる一般的な結論は、次の2点である。すなわち、1)ICT環境の効果は慨して、ICTの特徴のみならず、学習プロセスや成果をモニタリングし、制御し、振り返る生徒の能力によっても大きく左右される。2)以下に述べるように、様々なICTの特徴に合わせて、メタ認知的足場づくりを修正することができる、ということである。(後略)」

(OECD教育研究革新センター『メタ認知の教育学』明石書店2015、
217-218頁)

  つまり,ICTの効果は,活用に際して働くメタ認知の在り方に深く関係するのだとする考え方です。よって,そのようなメタ認知が育まれるためには,盲目的な利用に陥らないように学習活動への配慮をする必要があるということなのです。

 分かりやすい学力向上を示すのであれば,読書やICT活用よりも,ひたすらドリル練習でも繰り返せば結果を示すのは簡単です。しかし,ドリルを解くようなやり方ではこの時代の問題に対応できなくなっているというのが,そもそもの話の発端だとするならば,読書やICT活用をどのように運用すれば課題解決に結びつけられるのか,その能力こそ求められていると理解してもらう必要があるのだと思います。

 「メタ認知」や「自己調整学習」といった言葉は,専門領域では少々過剰摂取されすぎた感も無きにしもあらずですが,そろそろ一般社会における議論において理解してもらうべき段階に来た言葉なのかも知れません。

 今回の文部科学省「ICTを活用した教育推進自治体応援事業(ICTを活用した学びの推進プロジェクト)」では,各自治体において,「メタ認知」の獲得について,どのように分かりやすく指標や記述を表していくのか,そのことが共通して通底する課題になっていくのではないかと私自身は思っています。

 岡山県新見市までは,徳島から電車に揺られて4時間。都合で岡山に前泊してから翌日会議で帰宅するというスケジュールでした。お出かけ前にいろいろあって大変でしたが,なんとか無事に行って帰ってきました。

アプリやサービスをレビューするということ

 日頃,教育と情報のフィールドを眺めていると,様々な製品やサービスに触れることになります。自分に合っているものを選択できるというのが一番よいことなので,基本的には「あるべき」形が一つに定まることはないと考えています。

 しかし,教育関係のアプリやサービスについて評価したり論じる必要もあるため,私なりにレビューの観点を持たなければなりません。とはいえ,これも固定的な観点があるというわけではありません。対象のアプリやサービスの目指しているところで評価するに当たって,次の問いかけを軸にして観点を探していくことにしています。

 「なぜ他の方法や形式をとらず,どんな理由でそのようになったのか」

 この問いかけに尽きます。

 私個人は構造がシンプル(簡潔)で柔軟性があり,飽きのこないデザイン,外部に対してオープンなものであることを嗜好します。その方が利用者側として「分かりやすい」と経験的に感じているからです。

 しかし,もしそうしない理由が他にあるのであれば,その理由を尊重すべきと考えています。つまり複雑なものになった理由が目指すものに照らして納得できれば,そのことを否定はしません。ときに簡潔さと柔軟さは相反要素になりますし,バランスの問題は常に悩ましい論点ですから。

 けれども,ときどきその理由が見えないものにも出くわします。

 他に分かりやすい方法がありそうなのに,そうしなかった例を見ると,その理由を探ろうと試行錯誤したり想像を巡らせるのです。アプリやソフトの場合は,プログラミングのレベルに遡って,たとえば「基本ソフトの制限だから」とか「設計上で別々に扱わざるを得ないから」とか,考えられる理由があります。それが納得できれば仕方ないことになりますし,納得できなければ努力が足りないということになります。それはそのアプリやソフトが何を目指しているかによるわけです。

 ネットサービスの場合も設計やプログラミングの話がありますが,サービスを利用することで,利用者がどのような行動をとって,どう変化したり,どう利用を継続していくのかという利用モデルやユースケースといったものを描いて,それが納得できるものかを検討することになります。たとえば授業支援システムの類いを利用すると先生や児童生徒はどんな行動を強いられたり,どんな学習活動を実現できて,その後もどのようにサービスと関わっていくのかを想像しなければなりません。それが現実的か非現実的かを見極めるわけです。

 教育工学という学問は,まさにそういう研究をしているものということになりますが,実験環境を整えて統計的な調査をするという次元に至らずとも,「なにゆえそうなのか」という問いかけはいくらでも可能です。場合によっては哲学的な問いかけとして考えることもできると思います。

 私のこうしたスタンスは,レビューを文字にすると相手に対して厳しい批判になってしまうことは重々承知しています。ダメ出しばかりしているように読めるのは私の文才の無さゆえですが,しかし,「なにゆえそうなのか」という問いかけはとても大事だと考えます。

 もちろん多くの場合で「なにゆえそうなのか」という問いに答えがないこともあります。考えていなかった,気づいていなかった,分かっていたけどできなかった,そう問う必要はなかったから…そういう答えもあり得ます。ならばそれが現時点での問いへの答えというだけのことです。

 「なにゆえそうなのか」という問いを踏まえて,その後,アプリやサービスがどう更新されていくのかが淡々と評価されていくわけで,悪くなるのか良くなるのかは,その時々の評価結果次第ということになります。

 そう考えると,巷のアプリストアで書き込まれているアプリレビューの内容は,レビューする立場としてもう少し考えてから書いて欲しいと思えるものが多すぎます。「使えね,氏ね」なんてレベルのものはかつてより少なくなりましたが,それでも感情丸出しのものは今も少なくありません。

 プログラミング教育に注目が集まっているような雰囲気もありますが,そのような取り組みの中には,同時に他者のプログラミングに対する視点を育むということも含まれてくると思います。単にプログラミング言語を習得し,ソフトウェアの構造を知るだけではなく,その知識を踏まえてソフトウェアやプログラミングの文化をどう育んでいくのかという考え方や態度の面についても関心を高めていく必要があると思います。

 私自身もダメ出し文章が多いことを自戒しながら,もう少し建設的なレビューを会得したいなと思います。