日本教育工学会2019秋季全国大会20190907
林向達(2019)「キャッシュレス時代に対応した消費者教育教材の開発」,日本教育工学会2019年秋季全国大会講演論文集, 239-240.
ポスター
https://www.dropbox.com/s/b25dze31dnskcfg/rin_JSET2019.pdf?dl=0
講演論文
https://www.dropbox.com/s/apcv1k711epkpi8/rin_jset201909fin.pdf?dl=0
日本教育工学会2019秋季全国大会20190907
林向達(2019)「キャッシュレス時代に対応した消費者教育教材の開発」,日本教育工学会2019年秋季全国大会講演論文集, 239-240.
ポスター
https://www.dropbox.com/s/b25dze31dnskcfg/rin_JSET2019.pdf?dl=0
講演論文
https://www.dropbox.com/s/apcv1k711epkpi8/rin_jset201909fin.pdf?dl=0
授業最終週。
研究会の発表論集に投稿する原稿の締め切りが迫っていたので、頭の中はずっとそのことばかり考えていた。材料となる点は集められても、それを線でつなぐとなるとそう簡単な話ではない。
本来は10集めて考えて、上澄みの2を書くのが理想だが、今回は2集めて考えて2でまとめる綱渡り。思考の余剰がないので、今のところ広がりを持ち得ていない。
書いていたのは、論理的思考力から考えるプログラミング教育という、わりとベタなお話である。先行知見がプログラミング的思考とは何ぞやと、さまざまな角度から分析しているのに対して、プログラミング的思考を何とするやと、考えることを提案したものである。
今回の原稿では「プログラミング的思考」が登場するまでの経緯を記録としてまとめる目的もあった。この部分が難産だったが、「プログラミング的思考」を論ずるなら最低限これぐらいは押さえてから肯定否定して欲しい、というところをまとめておいた。
見直しの余裕は足りなかったが、滑り込みセーフで提出をした。3月の研究会で発表する予定で、今度はあまりしゃべらずに済ませて、参加者と議論する場にしたいと考えている。
2015年10月17日と18日に日本大学文理学部キャンパスで「日本教育メディア学会年次大会」が開催されたので出席してきました。今回から学会理事の仕事を拝命したので,理事会出席も兼ねてでした。
日本教育メディア学会は,名前にカタカナが使われているので比較的新しい学会のように見えるかも知れませんが,実はこの分野では老舗中の老舗,長い歴史を持った学会です。
というのも,もともとは「日本視聴覚教育学会」(1964年発足,前身の協議会は1954年発足)と「日本放送教育学会」(1955年発足)が1994年に統合してできた学会で,1998年から「日本教育メディア学会」と改称したからです。
というわけで,日本教育メディア学会とは視聴覚教育と放送教育を主な研究領域とした歴史の長い学術団体ということになります。そしてメディアはICTと無縁ではありませんから,教育と情報に関心を持つ私も無縁ではなく,いろいろご縁をいただいたことで理事へのお呼びがかかったということになります。
正直なところ,視聴覚教育も放送教育も,私個人としてはまだ十分深められていないので,歴史を追いかける作業の中でこれから学ぶということになります。そのような人間に理事が務まるのかはなはだ疑問ではあるのですが,せっかくの機会をむしろ利用していろいろ学べたらと思います。
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そうそう,今回の年次大会の基調講演は,国立情報学研究所の新井紀子先生でした。新井先生といえば,デジタル教科書懐疑派としていろいろなメディアにコメントを求められたり,問題提起の書を書いたりしていることは,この分野ではよく知られています。
この日,私のサイフの資金が空っぽになってしまい,金策のためATMを探しに出かけて,基調講演には遅れて出席しました。その後の懇親会も,いつものように片隅で過ごしていたのですが,突然呼び出しがあって,連れて行かれた先が新井先生のもと。
デジタル教科書問題提起本が出たときに,その出来に不満を抱いた私があちこちに書いたものをお読みになって,たぶん私が何か言いたいのだろうと気にしてくださっていたようで,直接呼び出しとなったそうな。こってり絞られました ^_^;。
周りの皆さんも巻き込んで,いろいろ宿題をいただいた感じになりましたが,私たち学会関係者が取り組まなければならないことがあるというのも本当のことですので,可能なところから取り組みたいと思います。
岐阜大学で日本教育工学会(JSET)の第30回大会が行なわれました。
30回という節目ということもあり,従来の「課題研究」を発展的に解消し,新たにSIG(Special Interest Group)を立ち上げ,6つのテーマについて継続的な活動を志向して行こうという取り組みが始まりました。SIGは複数立ち上がり,関心があればどのSIGに参加してもよいことになっています。
SIG-04とナンバリングされたのが「教育の情報化」というテーマで,私も最初はこのグループへの参加から始めることにしました。
どんな活動をしていくのかも含めてこれから議論するので,この日は参加者同士のディスカッションを通して課題を整理し,何を達成するのか見通しを立てたといったところです。もちろん,これからどんどん変化していくと思います。
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自由にやることを認められているSIGですが,それぞれのテーマは3年後に継続するかどうかを含めて成果を評価されることがルールになっています。また,テーマは必要に応じて追加できるので,将来的にはSIGの数が増えたり減ったりするということです。
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今後は,SIGにおける活動を通して学会としての情報発信がなされていくことが期待されています。
私は大学教員を生業にしています。
もちろん研究者でもあります。論文をバシバシ書くタイプではない自称熟考派ですので,あまりお役には立っていませんが,学術界の片隅でお仕事をしています。
いまは「教育情報化史」に関心を持っています。
もともとはカリキュラム研究の立場から教育実践や教育方法を考えることに関心がありました。やがて情報通信技術の社会への浸透を意識するようになり,教育と情報技術について考えることが多くなりました。
そして,その歴史への興味関心が強まって今に至ります。
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デジタル教科書界隈がまた騒がしくなってきました。
佐賀県のICT機器導入(県立高校生全員タブレット端末購入)のニュースも同時に流れて,話題はごちゃまぜになりながら関心を呼んでいます。
推進派,慎重派,反対派ともとれる発言がTwitterやブログなどで発信され,議論が展開しているようにも見えます。
しかし,残念ながら私には議論が相変わらず混乱しているように思えます。
私はこういうものを交通整理したいと思う立場です。
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私自身はデジタル教科書やICT機器の導入に対して「慎重派」だと思います。
正確に記せば「条件付き推進派」なのでしょう。そういう意味で「懸念派」や「反対派」に立つ人々からすれば敵対関係にあるかも知れません。それに条件付きなどとするあたりがいかにも学者的な逃げ口上と映りそうです。
しかし,幼稚園・保育所,小学校(低中高),中学校,高等学校,中等教育学校,特別支援学校,大学・短期大学・高等専門学校,大学院など,学校種を考えるだけでも様々な条件が存在します。
「教育の情報化」という言葉が指す範囲には,大きく分けても「情報活用能力の育成」「学びにおけるICT活用」「校務の情報化」といった領域があり,目的も効果も様々です。
学校教育経費は限られており,ましてや割かれる歳出が減少傾向にある中では,教育と学習のためのフリーハンドは失われつつあるといえます。つまり,それぞれの教育学習活動にどんなリソースを与えて,どのように支えるのか考えることは,方略をもって選択と集中がなされなければならなくなっているということです。
私が半ば推進派に属するのは,教育と学習に振り向けられるリソースを豊かにしたいからです。またフリーハンドが増えれば,教育と学習に試行錯誤が許されることになります。
ここでいう「リソース」とは,予算はもちろん教材や整備などの学習環境も含まれますし,学校に対する社会的信頼といった無形のものも含まれます。また「フリーハンド」とは学校教育における自由度や自律性であり,旧来の規則や制限を見直して緩和するか,新たな規則をつくることを含んでいます。
そうしたリソースとフリーハンドの獲得には,丁寧な議論と設計が必要であり,新たに構築したものを継続的に見直していく必要性もあります。これが「条件付き推進派」という私の立場です。
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丁寧さを求める立場からすると,大胆さを求める「推進派」は好きになれません。だから私は中村伊知哉氏があんまり好きではありません。
2010年初頭に彼の人がデジタル教科書への関わりを表沙汰にして活躍し始めてから,すれ違う機会はいくらもありましたが,直接話しかける気持ちが湧きませんでした。
そもそも中村氏は教育研究者ではありません。教育に対する関心が人一倍強く,MITメディアラボとの関わりや100ドルパソコンのエピソードなど,氏なりに教育に関わってきたことは知っています。
それでもたぶん関心が異なりすぎて,話がかみ合わないだろうと思われたのです。それにお互い担っている役割が違います。中村氏は「旗振り役」となったのであり,私は「学校現場支援」に立とうとする人間です。仕事ぶりに文句は言えても,互いの立場の必要性を否定しようもありません。
だから,話しかけようという気分が湧かず,それゆえ好きとも嫌いとも言えない中途半端な認識のままに済ませています。
あとは,少しでも混乱する議論を整理して理解し,この時代のことを後世にも知ってもらえるような仕事をするのみです。私が教育情報化の歴史に関心を強めているのは,そういう作業のためでもあります。
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「反対派」の懸念や否定意見について聞くべきものが多いと思います。
しかし,反対意見にも丁寧さに欠けるものは少なくありません。
人の直感や感情は危機や危険を回避する点においてあながち間違っていないと私自身も思います。しかし,問題を敷延してみた時,見えていなかった別の問題が背後に隠れていることもあります。
危機や危険の回避だけでは解決し得ない問題を含めて,どのように考え対応していくべきなのか。こちらも丁寧な議論が必要だと思うのです。
そういう意味で『ほんとうにいいの?デジタル教科書』という本が嫌いです。そういう本を書いた新井紀子氏は好きではありません。
あの本はデジタル教科書の問題点を簡潔にまとめたという評価にはなっていますし,確かに問題点となり得ることを総花的に含んでいるかも知れませんが,冷静平等なまなざしで書いたとする前口上に反して,偏った観方でまとめられています。
新井氏がそもそも反対派あるいは否定派であることは良いことだと思います。そういう意見を表明する意義があります。
けれども,それだけでは不完全なのです。
あの本の結論は,結果的に自己矛盾に陥るものでした。
規格品であるコンピュータを活用する教師は信じないが,愛情を持った規格品ではない教師とその育成には期待を寄せる。様々な問題点を指摘した結末をそのように飾った本は,どうにも好きになれません。
私は,規格品であるコンピュータを子どもたちに愛情を持って活用できる規格品でない先生は在り得ると思うし,その育成が大事だと思います。
その観点からこの本を読み返すと,筆者がいかに問題点をあげつらうために一生懸命書かざるを得なかったか,気の毒な状況で生まれた本であることも見えてきます。
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(追記 20130908) デジタル教科書をめぐる議論のもっとも不毛な点は,どの立場も現在の学校や教師の実態に即したり,代表していない点にあります。発言者も大学関係者や業界関係者あるいは一般の方たちばかりです。
発言によっては「教員意識調査」などの結果を引き合いに出すことがあります。
たとえば中央教育研究所による「教師と児童・生徒のデジタル教科書に関する調査」の結果は,報告書冒頭で次のように要約されています。
「デジタル教科書とこれまでの紙の教科書の併用を望む教師」が小学校では71.8%、中学校では60.2.%と最も高く、「紙の教科書を廃止してデジタル教科書のみを望む教師」は小・中とも非常に少ないです(4%弱)。「デジタル教科書不要」という考え方は小学校では24.8%、中学校では34.4%です。
これをもとに,反対派は,6〜7割の先生がデジタルと紙の併用を求めているのだと引用することも出来ます。推進派は,デジタル不要と考えているのは3割程度に過ぎないと抜粋することも出来るでしょう。どちらも現場の声に立脚して主張できてしまいます。
発言者は学校現場から遠い人たちばかりで,アンケート調査結果はそれぞれの主張に合うように用いられるのでは,現実の文脈に即した議論というよりも可能性の範疇で議論が展開してしまいがちです。
私自身は,教員調査などのアンケート結果のほとんどが,学校の教師の皆さんの慎重さを示した結果になっていると捉えています。
そもそも日本の学校は,多くの人々が解体や再構築の必要性を望むほど硬直化した官僚体制になっています。従来の日本の公教育とは,そのように統制された世界観のもとで構築されてきました。
と同時に教師の教授学習文化としては,教科教育の伝統が強く継承され続けてきました。日本的な教材研究や授業研究の文化は,世界的にも注目されているほどです。
そのような文化や文脈の中で,デジタル教科書やICT機器の活用に対して,無批判に使おうとする先生はごく限られた人たちであると考える方が自然です。むしろ教師の方が懸念を大きく抱いていて,デジタル教科書やICTの活用を抑制あるいは制御したいと考えているほどです。
そのような学校現場の空気もまた私個人の理解でしかないと言われるかも知れませんが,私自身が小中高校の現場に接する中で感じ取るのは,そのような傾向なのです。
反対派や否定派の人々の意見は,こうした学校現場の現状や考えを代理しているというよりも,そことは別個に考えて捻出した懸念に基づいている点で,説得力に欠けます。
また推進派の人々は,現場の懸念を丁寧に拾い上げるまでには至っていません。大きな流れや機運を盛り上げることが優先されると,そうした部分は後手に回るか,他の人たちに任せるかといった感じになるからです。
今回のデジタル教科書の議論は,いわばいつもの空中戦といった感が強く。誰がだれに向けて何を主張し,どう在りたいのかが発言者自身も不明瞭なまま,懸念や主張表明が続いているように私には見えてしまいます。
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過去の出来事を掘り起こし,現在の出来事を整理しつつ,未来を見通すことに役立たせるのが私の仕事です。過去の掘り起こしが意外と大変なので時間がかかっていますが,その成果についてはこれから徐々に世に問うていきたいと思っています。
デジタル教科書やICT機器導入で起こっている様々な出来事には,それぞれ奥深いものがあり,それらは繋がっているのだということを,私自身まだまだ新たに発見して勉強しているところです。