Kotatsu RIN's Personal History

林向達

 このページでは,林向達が何者で,これまで何をしてきた人間なのかを紹介するために,未完成ですが個人年表を公開しています。私の言動の由来みたいなものが発見できるかも知れません。結構な遠回り人生を,こっそりお楽しみください。

1971 ●愛知県で生まれる
→小さい頃に階段から転げ落ち,頭を打ったらしい。ねじの緩みはここから始まっていたかも知れない。とにかく生んでくれたことを両親に感謝。
1977 ●小学校入学
→入学式の日,運動場から昇降口に入るために並んでいた様子を覚えているが,どうしてそこだけ覚えているのかよくわからない。
1979 ●小学3年生で渡米
… 米国ボストン近郊・Thompson Elementary Schoolに転校
→1年間,見知らぬ土地で過ごし,アメリカの小学校教育をチンプンカンプンのうちに経験する。ハーバード大学のキャンパスは印象深い遊び場だった。
1980 ●帰国
… 新しくできていた小学校に編入
→小学校高学年時代は旅好きで,友達と時刻表を眺めながら旅行プランを立てるのが好きだった。この時代,日本の国際化意識は高くなく,音読み名字をよくからかわれた。
1983 ●小学校卒業
… 中学校入学
→愛知県の管理教育,校内暴力の時代を過ごす。でも校内暴力していたS君が優しい子だと知っていたので,そうさせている世の中がよくわからなかった。
1985 ●友達と「つくば万博」旅行へ
→マイコン少年であり,科学技術の夢に浮かれていた時代。つくばの科学万博へと乗り込み,ジャンボトロンにうっとりしていた。シャープや富士通やNECのマイコン・ポケコンなどに夢中となり,雑誌「POPCOM」(廃刊済)をむさぼり読んでいた。パソコン通信に興味を持ったのもこの時期で,国産ビデオテックス規格CAPTAiNシステムにも憧れていた。
1986 ●中学校卒業
…高校入学
→新聞部に所属し,編集長として新聞づくりにのめり込む。当時,全国コンテストでトップランクに位置していた伝統ある部活。NHKから取材を受けたこともあった。逆に新聞の特集のため,東京に乗り込み,NHK若者番組製作者にインタビューをするようなこともした。他には,当時流行り始めていたC言語に興味を持って自学し,「TURBO C」でプログラムを組んでPDSとして通信ネットに公開したりした。学校の勉強はあまりしなかった。
1989 ●高校卒業
… 受験失敗
→図書館情報大学(現在は筑波大学と統合済)などを受験したが,勉強しなかったツケがまわってきて,見事に不合格。その他,当時できたばかりの慶応義塾大学SFCも記念受験した。この辺から遠回り人生が本格化する。
●台湾留学
… 台湾華僑青年語文研修中心に入学
→機会があったので,ご先祖様の国に留学する。北京語の勉強をして,いろいろ見聞を広めるため,華僑青年向けの語学研修プログラムに参加。世界中のいろんな人達と接した。
1990 ●帰国
… 受験勉強開始
→逃げ回っても仕方ないので,再度受験勉強に取り組む。
1991 ●信州大学教育学部教員養成課程教育学科に入学
→先生の職もそうだが,教科書や教材をつくる仕事に関心があったので,教育学科のある信州大学を受験,拾ってもらう。入学してから教育社会学への関心が強まっていたので,そのゼミの所属希望を出したのだが,人数調整が難しいという理由で,教育課程のゼミへ。カリキュラム研究者になったのは,その振り分けに端を発する。
1992 ●演劇部に誘われる
→学生寮で同室になった先輩から「劇団・おまつり研究会」(通称:おま研)の裏方をしてくれないかと誘われて手伝う。そのうち役者が足りないとかなんとか理由を聞かされて,気がついたら舞台の上で芝居をしていた。そのせいで人生も芝居がかってきたのかどうかはわからない。
●平安堂でアルバイト
→大学入学とともに書店でアルバイトを始める。1年生の時は松本市にある丸善グループの小さな書店「ロクサン」(閉店済)で,2年生以降は長野を中心としたチェーン書店「平安堂」長野店で仕事をした。平安堂では,客の前で社員とアルバイトは違わないということで接客サービスの何たるかを教えてもらった。
1993 ●教育実習
→小学校3週間(3年生)と中学校1週間(英語)の教育実習を経験する。経験したがために,もう少し勉強する必要を感じて,大学院進学を志す。
●集中講義… 安彦忠彦先生と出会う
→その年,集中講義で来た名古屋大学の安彦忠彦先生に出会ったのをきっかけに,名古屋大学大学院を目指す。大学院へ行ったら,小学校の先生になるつもりだったので,大学院選びはあんまり深く考えていなかった。実は安彦先生が有名な先生ってこともよくわかってなかった。
●パソコン通信局「信大SNOW-Net」立ち上げ
→大学の教育実践総合センターに出入りするなかで,パソコン通信局の立ち上げを任され,初代シスオペをする。マシンのセッティングからホスト・ソフトの管理まで。学校現場との交流の場として,その実践は日本教育工学会でも報告されたらしい。
1994 ●友人たちと「信大YOU遊サタデー」立ち上げ
→のちに文部省が教員養成大学・学部「フレンドシップ事業」として全国展開した取組みの先駆けとして参考にした応用教育実習活動を友人たちと生み出す。小さな子どもから大人まで相手にワークショップや講座など様々な活動を実践した。それがNHKに取り上げられ,いまでは全国の教員養成大学・課程に根付いている(迷惑がっている人もいるけど…)。
1995 ●信州大学卒業
… 名古屋大学大学院教育学研究科教育学専攻カリキュラム計画講座に入学
→面接にスケッチブックを持ち込みプレゼン風に応対するなど無茶をしたにもかかわらず,先生方に拾ってもらい入学。けれども,ゼミの先輩はほとんどいないし,安彦先生は海外出張から帰国後に事故して入院するなど,いろいろ事情が重なって,独り本を読んで過ごした2年間だった。ここでカリキュラムや社会学や哲学の世界に染まる。ちなみに教育工学系のO先生の授業も受けるはずが,教員養成上がりの人間にとって内容がよく理解できず,席を立ってしまった。また教育工学とすれ違う。
1996 ●「米国の学校週5日制の歴史と動向」調査助手
→安彦先生とN先生の海外調査をサポートするために同行。スタンフォード大学,シカゴ大学,ウィスコンシン大学と各地の図書館で文献を漁る。膨大な文献を複写する技はここで培われる。
1997 ●名古屋大学大学院(修士)修了
… 岡崎女子短期大学初等教育学科助手に着任
→「パソコンのできる人はいないか」との声掛けに引っかかり,短大教員の公募に応募してみることになった。小学校の先生になるはずが,あれよあれよと短大のパソコンの先生へ。最も縁がないと思っていた女子学生を相手にするとは… 異性は好きだが,束になるとまた話が違う。
1998 ●愛知学院大学で非常勤講師
→インターネットで八田昭平先生に声を掛けられて,愛知学院大学の「教育学」の講義を担当することになった。本来の専門に近い授業が出来るので喜んで引き受ける。200名前後の学生相手の講義で,大福帳シートをつくって一人一人のコメントもチェックしたり,ワークショップっぽいこともした。
1999 ●本務校で講師になり,学生委員長を任される
→時間も経ったので講師に昇格し,若いということもあって学生委員長を任された。当時,新しく採用された若手事務職員のT君とともに,一から仕事を組み立てながら学生対応に励んだりしていた。事務職員化への入口。
2000 ●アフリカ・ジンバブエを訪問
→市民団体の活動と同僚先生の調査に協力するため,アフリカのジンバブエに渡航した。20世紀の終わりにアフリカ大陸を訪れることができたのは貴重な経験だった。世界は広いことを改めて感じて,いつでも飛び出せるのだと確信を持った旅だった。現地の協力者にパソコン操作の指導を行なうのが私の仕事だったが,様々なトラブルに見舞われて大変だった。
2001 ●日本教育工学会大会シンポジウムに登壇する
→黒上先生から「総合的な学習の時間でどのように学力を保証するか」というテーマのシンポジウムに呼ばれる。このときの私はコテコテの文系カリキュラム研究者というアイデンティティだったので,教育工学の世界の何たるかを知らないまま乗り込みアウェイ状態。教育工学とのすれ違いが決定的なものとなった鹿児島での出来事だった。以来,私は悪夢にさいなまれるようになる(半分冗談)。
2002 ●椙山女学園大学の非常勤講師
→愛知学院大学での授業を引き受けてから4年経ったことや,先輩のお声掛けもあって椙山女学園大学の「教育の方法と技術」を引き受ける。その後「視聴覚教育メディア論」なども受け持つ。そして他学部の集中講義「カリキュラムデザイン」も任される。椙山女学園大学との付き合いも長くなってきた。今も集中講義は続いている。
●ニューヨークの旅
→米国の同時多発テロの翌年,私は現地に訪れた。ある個人的な反省に端を発して,3週間ほどニューヨークに滞在する旅に出たのである。21世紀に入ってすぐに戦時下に置かれた世界。たとえ感傷的だと言われようとも,グラウンド・ゼロを確認するところから,21世紀で生きるとは何かを考えなければならないと思っての行動だった。
2003 ●情報メディアセンターの立ち上げと初代センター長就任
→学生委員長や入試委員の仕事などで事務職員化する中,職場の情報環境が不十分だと感じていた。周囲の支援もいただき,情報メディアセンターを立ち上げて,抜本的に改革することになった。新しい部屋をもらい,新しい事務員さんにも来ていただいて,一から部署を作り上げるのは大変だったが,よい経験だった。翌年,職場のネットワークを全面的に張り替え,サーバーも再構築した。
2004 ●看護専門学校の非常勤講師を始める
→愛知県蒲郡市にある看護専門学校で「教育学」を担当して欲しいという依頼を受け,事情を聞くうちに断れなくなって引き受けた。看護学校生に合う教育学講義とは何かを暗中模索しながら担当していた。教務部長を兼務していた市立病院の婦長さんは,とても親切で,看護の世界のことについてもいろいろ教えてくださった。思い出深い非常勤先である。
2005 ●本務校の助教授となる
→さらに時間が経過して,助教授に昇格。情報メディアセンター長も継続していたが,職場のネット環境も刷新し,パソコン教室の機器更新作業も目処が立ったところで,事務職員化に一区切りついたと感じた。この調子で大学教員を名乗ることは精神的に耐えられなかった。クリスマスイブの前日,退職の旨を伝えた。
2006 ●退職
… 東京へ
→いろんなご恩を徒で返す無礼をして,東京で勉強することにした。といっても何の当てもなかった。漠然と大学院受験をしようとは考えていたが,具体的なことは何も決めずに上京した。職を辞めて東京に引越したことだけ,再会した方々に挨拶とともにご報告する程度だった。
2007 ●東京大学大学院学際情報学府 文化・人間情報学コース入学
→セミナーなどで出入りしていた東京大学。山内祐平先生から「受けてみたら」と声を掛けてもらって決意した大学院受験がうまくいき,晴れて大学院生となる。ここから文系アタマを理系アタマに転換するための苦しい日々が始まる。いろいろうまくいかないことが多くて,本当に何度も泣いた。それでも大学院で出会った人々や知的な刺激は,大きなプラスになった。
2008 ●東京学芸大学の非常勤講師を引き受ける
→カリキュラム研究の分野でお世話になっている根津先生から「ヒマ?」と聞かれ「何ですか?」と事情を聞くうち,断り知らずで引き受けてしまった。「初等教育の内容と方法」と「教材論」という授業の担当。週一の授業は久し振りなので,だいぶ緊張したが,白熱したものだった。最後の授業で拍手をもらったのは初めてだった。
2009 ●東京大学大学院(修士)修了
… 徳島文理大学 短期大学部准教授(一般総合科目担当)に着任
→学際情報学(修士)学位を得て,東京大学を離れる。ご縁をいただいて徳島文理大学に就職することになった。ぼちぼち生活資金も底をつき,これからどうやって生きていこうか,本当に悩ましい問題に直面していたので,募集の話があったのは幸運だった。おかげで指導の山内先生や周りの皆さんに深刻なご心配やご迷惑をかけずに済む。とはいえ,引き受けたばかりの仕事や,ご恩返しが十分でないまま東京を離れることは,心残りも多かった。
2010 ●タッチデバイスの教育利用の集いを開く
→政権交代や「原口ビジョン」そしてiPadの登場など,タッチデバイスにまつわる話題が賑やかになりつつあったので,iPadが発売される前に「iPad/iPhone(タッチデバイス)教育利用の集い」を東京で開くことにした。実機が登場した後では議論が絶対にモノに引っ張られるので,ちょうど出るか出ないかの頃に開いた。Twitterで呼びかけ,80名ほどを集めた,日本で最初のiPad教育利用系イベントである。
●総務省・フューチャースクール推進事業の徳島地区研究者となる
→総務省が全国10校の小学校で行なう実証実験を現場で支援する研究者が選ばれるが,足代小学校の中川斉史先生のお声掛けで徳島地区の担当を仰せつかる。徳島に引っ込んだのに,大仕事が待っているとは思わなかった。国民の税金で勉強させてもらったのだから,国費で賄う事業をお手伝いして良いものにするのも課せられた義務。客観的視点も批判的視点も維持しながら,頑張ろうと思う。
2011 ●まずは地震に遭遇する
→東京出張中に東日本大震災に遭遇する。被災者の皆様に心からのお見舞いを申し上げます。
●新幹線予約アプリ「EX489」を開発リリースする
→新幹線を頻繁に使う機会があったときにiPhoneから手軽に予約できるアプリが欲しかったので開発。エクスプレス予約のシステムを地道に研究して「EX489」をリリース。他の利用者からも支持を得て,2013年末までに8万ダウンロードを達成。話題にならないが一部の人々には定番アプリとなっている。
2012 ●『デジタル社会の学びのかたち』翻訳チーム参画
→Rethinking Education in the Age of Technology: The Digital Revolution and Schooling in America という洋書の翻訳をしようという呼びかけに参加。4章と8章をぐちゃぐちゃと翻訳して,いろんな人に日本語を手伝ってもらいながら無事に完成。重要な文献に関われたのは嬉しい。
2013 ●文部科学省・学びのイノベーション推進協議会 小中学校WG構成員
→総務省のフューチュースクール推進事業は終わったものの,文部科学省の「学びのイノベーション事業」はあと1年間残っているので,今度は文部科学省の方でアルバイトを始めた。指導方法等検討WTに所属して,実証校からいただいた実践をもとに指導方法モデルの手引を作成するお仕事。
2014 ●教育と情報の歴史研究を開始
→教育と情報に関係する諸領域の歴史を振り返り,様々な研究の資する記録として残していく活動「教育と情報の歴史研究」を本格的に開始。ニューズレター「教育と情報の歴史通信」と研究会「教育と情報の歴史研究会」を開始した。研究会は7月の千葉と11月の東京で開催。必要性は確信できたので,今後継続していくことを誓う。
●韓国に出かける
→「第9回東アジア教員養成国際シンポジウム」が韓国で開催されるにあたって,日本の教育情報課について紹介するように依頼されることになった。韓国の釜山には研究グループに連れられていったことはあったが,ソウルやその他の土地は初めてで,しかも一人きり。発表準備に時間がかかって,韓国語の勉強もハングル文字ばっかり気になって会話をほとんど予習しなかったので,助けてくれる人がいない場面では,チンプンカンプンな状態の旅だった。でもなかなか興味深かったので,また行ってみたい。
2015 ●徳島文理大学 人間生活学部 児童学科へ配属替え
→短期大学部から人間生活学部へ配属替え。地味に人生で初めて4年制大学に雇われたことになる。引き換えに事務的なお仕事が増えそうなので,これまでのように自由奔放というわけにはいかないかも知れない。ただ,後期からは専門ゼミナールを開始するので,研究室の教え子を持てることになりそう。とにかく児童学科では1年生担任としてスタートすることになった。
2016 ●研究室の引っ越し
→職場内で研究室の引っ越しとなった。ゴミ屋敷化した研究室の掃除と要らないものの廃棄作業をしながら蔵書を段ボールに梱包する作業をたった1人で春休みを潰して取り組んだ。段ボール箱50個では済まなかった。プロに搬送してもらった後は,再び1人で開梱作業。それだけでも新年度初めは大変なのに,児童学科2年目も1年生担任続投となり,新入生受け入れで慌ただしいスタートとなった。
2017 ●教育学習ICTマストドンを立ち上げる
→4月になって世界的にも注目を集めたTwitterタイプのSNS。オープンソースの分散型システムということで技術方面での活発な動きが起こり,新たなコミュニケーションツールとして日々進化している。さっそく教育学習ICT分野に特化したインスタンス(サーバー)を立ち上げて運用中。
2018 ●翻訳本『情報時代の学校をデザインする』刊行
→前年のうちに新たな翻訳チームに加わって作業していた翻訳本が発売となった。今回は「Reinventing Schools: It’s Time to Break the Mold」という本の翻訳。今回も時代は変わったぜ的な内容の本だが,こうした刺激を与えてくれる本に接することも大事だなと思う。
2019 ●Scratch拡張機能「PaSoRich」開発
→2008年頃にICカード残高を表示するソフトを開発した際に使ったFelicaカードリーダーSONY PaSoRiを,Scratchでも利用できないかなと思っていた。Scratchが3.0となってJavaScriptベースになったので,識別番号Idmを読み取る拡張機能を開発した。ICカード毎にちがった動作をさせることができる。
●日本教育メディア学会年次大会実行委員長
→徳島文理大学で日本教育メディア学会年次大会を開催した。実行委員長を務め,当時のゼミ生や有志学生の協力を得て,なんとか無事に大会運営することができた。その後しばらくは何にもやる気が起らないほど燃え尽きた。
2020 ●コロナ禍始まる
→新型コロナウイルスが大きな災難をもたらし,多くの生命を奪ったことは大変遺憾なこと。しかし,同時に私たちの社会活動が制限を受けたことで,従来踏襲な在り方を見直す契機を得ることにもなった。大きく制約を受けながらも,新しいやり方を用いることが許されるようになり,ニューノーマルを構築する試行錯誤が可能になったことは,ある意味で自由を感じさせる部分もあった。
●Scratch拡張機能「NumberBank」開発
→ScratchでICカードが利用できるようになって,次に試みたくなったのはデータのクラウド保存だった。そこでGoogleのクラウドサービスのひとつFirebaseを利用した拡張機能を開発した。これでおもちゃ電子マネーシステムを構築することができるようになる。
●駒場通い
→何かがやって来るときは束になってやってくるもの。この頃、駒場通いをした。それはそれは特殊な事情だった。特殊な事情がコロナ禍でさらに特殊になった。人生で二度と経験しないだろう時間を過ごしたと思う。あの招き猫はまだ居るだろうか。
2021 ●五十路となる
→びっくり。ポンコツ化は順調に進行中。
●M1 Mac環境整える
→2020年に発売されたM1 Macを導入して環境を整える。27インチIntel iMacが不調をきたしたこともあり,デスクトップ環境を見直しもした。DELLの4Kディスプレイも購入。いつになく機器出費が強め。そのおかげで快適な環境となった。
2022 ●Webサービス「MasterkeyBank」を開発
→Scratch3.0拡張機能「NumberBank」のマスターキーを登録することができるWebサービスを開発運用開始。これで利用者が自分でクラウドを確保してデータを保管できるようになった。
●教育データ標準に絡み始める
→教育データに関する動きの片隅で、教育データ標準に関する協議会の委員を拝命。いろいろ発言してみるが、片隅なので、大きな動きには影響なし。まぁそんなもんだ。
2023 ●学校DX戦略アドバイザーを引き受ける
→教育ICT活用アドバイザーを置き換える形で設けられた立場。私も賑やかしで加わった。特に大きな仕事はしなかった。来年は引き受けず。
●『学びを育む 教育の方法・技術とICT活用』執筆に参加
→大学教員としてとりあえず最後になる教科書執筆に参加。いつもの北大路書房さんにまたお世話になり、いつものように朱入れ泣かせでなんとか年末出版。プログラミング教育に関してあれこれ書かせていただいた。
●徳島文理大学退職
→徳島生活15年。とうとう去る日がやってきた。長らくお世話になりました。
2024 ●瀬戸SOLAN学園初等部 リサーチフェロー/教諭
→実家で介護でもしながら高等遊民しようかと思ったら、ご近所の私立小学校に拾っていただき入職。まさか大学教員から小学校教員になるキャリアを歩むとは思わなかたけれど、休眠中だった小学校教諭免許を役立てる機会が得られたのはよいことかな。情報の授業を担当。